◆ 9月12日 幕末の神奈川・生麦を歩く―生麦事件を中心に―(終了しました)

金蔵院
金蔵院

 京急仲木戸駅からスタート、昨日までの雨模様が一変し快晴に恵まれました。風が爽やかです。まず金蔵院へ向かいます。この寺院は京都醍醐寺三宝院の勝覚僧正が平安時代末期に創建したと伝わる真言宗の古刹です。神奈川御殿が造営されるまで、徳川家康が上洛時に宿舎として利用したそうです。出立の朝、家康が梅の枝を一本折って出発したと伝わる「御手折りの梅」が本堂前にあります。

成仏寺
成仏寺

 横浜の開港時にアメリカ人宣教医が住んだ成仏寺です。ヘボン博士夫妻やS・R・ブラウン一家、ゴーブル一家が居住し医療活動や和英辞書の編集、聖書の翻訳などに取り組みました。布教活動を行うために来日しましたが、その頃はまだキリスト教禁教令が敷かれており、思うように活動できませんでした。生麦事件が起きた文久2年8月21日、ヘボン博士はここから被害者の治療のため本覚寺へ駆けつけました。

浄瀧寺
浄瀧寺

 滝の川を挟んで対岸にある浄瀧寺です。このお寺は日蓮の教えに帰依した妙湖尼が創建した日蓮宗の寺院です。開港時にはイギリス領事館が置かれていましたが、生麦事件の起きた文久2年(1862)には領事館は横浜へ移転していたようです。

宗興寺ヘボン碑
宗興寺ヘボン碑

 ヘボン博士は宗興寺で文久元年(1861)4月から9月まで5か月間、日本人に施療を行っていました。無料で眼病やチフスなど多くの患者の治療に当たっていました。1日に平均100名の患者を診断し、合計3,500名の治療に当たったそうです。評判を聞いて江戸など遠くから患者が押し寄せたそうですが、あまりの人気に、キリスト教の布教を恐れた幕府は5か月で治療行為を禁止しました。

招魂碑
招魂碑

 また宗興寺には、近くの神奈川台場で大砲の暴発事故で犠牲になった人たちの招魂碑があります。最近になって発見されました。宗興寺の裏手になる権現山中腹には警衛の任に当たる松山藩の陣屋があったそうです。

神奈川台場跡
神奈川台場跡

 宗興寺から海のほうへ10分ほど行ったところに神奈川台場の跡が残っています。この台場は警衛を担当した松山藩が勝海舟に設計を依頼したそうです。安政6年(1859)に杭打ちを行い、翌年6月に完成しました。近くの権現山を取り崩して海中を埋め立てました。6万両の藩費が投じられたそうです。

台場からコットンハーバーの眺め
台場からコットンハーバーの眺め

 神奈川台場には36ポンド砲10挺をはじめ、60ポンド砲など14挺の大砲が備えられましたが、実弾を打つことはなく主に礼砲の発射にだけ使用されたようです。明治32年(1899)には神奈川台場は廃止されました。現在はJR貨物線の東高島駅として利用されています。

権現山
権現山

 権現山は開港前まで、高い山でした。横浜居留地の外国人も観光に訪れた光景が浮世絵に残されています。今は、神奈川台場の埋め立てや、横浜の鉄道用地の埋め立てで切り崩され、丘のように低くなっています。権現山は古くは、後北条氏と上杉氏の戦いの舞台となった古戦場でもありました。

高島台
高島台

 本覚寺を過ぎ、高島台まで来ました。この丘一帯は明治の豪商、高島嘉右衛門の別邸があったことから高島台と呼ばれています。嘉右衛門は開港時の横浜に在って鉄道敷設のために用地の埋め立てや、ガス会社事業、学校創設、下水道改良工事などのインフラ事業を請け負い完成させました。また、高島易断の創始者としても名を馳せた幕末時の著名な一人です。

生麦事件発生地
生麦事件発生地

 生麦事件の発生現場です。文久2年(1862)8月21日、江戸から下ってきた薩摩藩島津久光一行の行列に、英人商人リチャードソン、マーシャル、クラーク、ボロデール夫人の4人が馬を乗り入れ、殺傷事件が発生しました。この事件でリチャードソンが斬殺され、マーシャル、クラークが負傷を負いました。マーシャル、クラークの両名はアメリカ領事館の置かれていた本覚寺に逃げ込み、駆けつけてきたヘボン博士の治療で一命を取り留めました。

 この事件の処理をめぐり薩摩藩と英国の間で薩英戦争が始まります。艦船や大砲など、武器の質や量でかなわない薩摩藩は攘夷運動の無益さを悟り、同じく四国連合との戦に敗れた長州藩とともに開国、倒幕へと大きく舵を切ります。激動の幕末に一石を投じた事件でした。

生麦事件碑
生麦事件碑

 この碑は鶴見神社の神主で副戸長だった黒川荘三翁が建造したもので、生麦事件を後世まで伝えることを願って建てたものです。今でも8月21日にリチャードソンの追悼祭が行われています。