◆5月26日(火) 三浦義明ゆかりの地を歩く(終了しました)

満昌寺
満昌寺

 坂東平氏の流れを汲む三浦一族、中でも三浦大介義明は一族の祖として崇められてきました。今日はこの三浦義明の足跡を訪ねます。

 まず最初に訪れたのは臨済宗建長寺派の満昌寺です。JR衣笠駅から衣笠十字路まで10分ほど歩き、バスに揺られて5分ほどで到着です。

 満昌寺は源頼朝が三浦義明の菩提をとむらう為に、建久5年(1194)建立しました。本堂には本尊である宝冠釈迦如来坐像や、中興の祖である天岸慧広(てんがんえこう)像が祀られています。

頼朝お手植えのつつじ
頼朝お手植えのつつじ

 満昌寺境内の本堂前にある、頼朝が植えたと伝わるつつじです。春には見事な花を咲かせますが、訪れたときは花がちらほら残っている状態でした。

 三浦一族は坂東平氏の流れを汲む村岡為通が前九年の役(1051-62)での功績により三浦郷を領し、三浦氏を名乗るところから始まります。そして為通の子、為継、孫の義継は源頼義、義家に従い、戦功をあげました。義明は義継の子にあたります。

御霊神社
御霊神社

 満昌寺の境内を奥に進むと、義明の孫にあたる和田義盛が建立した御霊神社があります。この神社には国の重要文化財である三浦義明坐像が、御神体として祀られています。像は寄木造、玉眼で衣冠束帯姿です。長いあごひげを生やした顔は、気迫のこもった老武将の表情を巧みに表現しており、威厳に満ちています。(神奈川県立歴史博物館にはその実物大の精巧なレプリカが展示されています。)

義明公墓所
義明公墓所

 御霊神社の背後にある義明公の墓所です。義明公の首塚と伝わる宝篋印塔を中心にして、右側に五輪塔、左側に板碑があります。五輪塔は義明公の妻(秩父重綱の娘)の墓と伝わっています。

 頼朝が義明の十七回忌に列席し、89歳で没した義明の霊に「身は果てても今日まで共に生きている」と語ったことから、「鶴は千年、亀は万年、三浦の大介百六つ」という祝い唄が生まれたと言います。鎌倉材木座の来迎寺にも三浦義明墓と伝わる五輪塔があります。

近田(ちかた)神社
近田(ちかた)神社

 三浦義明の孫、義村を祭神として祀る大矢部地区の総鎮守です。三浦義村の坐像が神像として祀られています。

 義村は、義明の次男義澄の嫡男で、娘を北条泰時に嫁がせるなど北条氏との関係を深めました。梶原景時の追放、畠山重忠の乱、和田の乱、承久の変などいずれの時も北条氏側につき、幕府内では北条氏に次ぐ地位にありました。和田の乱では、和田義盛を裏切り北条氏側についたといわれています。

薬王寺旧跡碑
薬王寺旧跡碑

 薬王寺は、和田義盛が父杉本義宗、叔父三浦義澄の菩提をとむらうため、建暦2年(1212)に建てたと伝わります。

三浦義澄墓所
三浦義澄墓所

 薬王寺旧跡碑の奥にひっそり佇む三浦義澄の墓所です。三浦義澄は義明の次男で、衣笠合戦の時、城に残る義明と別れ、一族を率いて安房に渡りました。そこで頼朝と合流し、富士川の戦いや奥州合戦で戦功をあげ、三浦氏隆盛の礎を築いたといわれています。

頼朝が征夷大将軍に任じられた際には、勅使からその詔書を受け取る役を仰せつかるほど、頼朝から信頼されていたそうです。

薬王寺 駒繋石(こまつなぎいし)
薬王寺 駒繋石(こまつなぎいし)

 薬王寺の山門があった場所です。薬王寺に参詣する武将が馬を繋いだと伝わります。

三浦大介腹切の松
三浦大介腹切の松

 治承4年(1180)、頼朝旗揚げのとき、三浦一族は頼朝の元に駆けつけようとしますが、大雨で間に合いませんでした。三浦氏は本拠地衣笠城で敵方の来襲に備えますが、河越重頼や畠山重忠の3,000騎が押し寄せます。三浦勢は400騎でよく戦いましたが、敗戦を覚悟した義明は、一族を頼朝に加勢するため城から脱出させ、安房の頼朝の元に向かわせます。そして義明は一人残り、三浦氏の菩提寺であった円通寺を望むこの地の松の木の下で切腹したと伝わります。

清雲寺
清雲寺

 清雲寺は、三浦義継が父為継の菩提をとむらうために長治元年(1104)に建立したと伝わります。本尊の滝見観音像は国の重要文化財に指定されており、中国産桜桃材の寄木造で眼にはガラス質がはめ込まれている遊戯坐(ゆげざ)の像です。宋からの請来品で東慶寺の水月観音に影響を与えたといわれています。

 もとの本尊であった毘沙門天像は県の重要文化財で、和田の乱のとき和田義盛に代わって敵の矢を受け止めたといわれ、「箭請(やうけ)毘沙門天」と呼ばれています。

三浦氏三代の墓
三浦氏三代の墓

 清雲寺の本堂裏手にある三浦氏三代の墓です。中央の五輪塔が三浦為継のもので、左右の五輪塔は父為通と子義継の墓と伝わります。左右の2基は昭和14年に菩提寺である円通寺から移されましたが、左右のどちらが為通か義継かは不明です。


衣笠城址
衣笠城址

 衣笠城址です。碑の背後にある物見岩の辺りから経塚が発見され、銅製の経筒が出土しました。

 衣笠城は康平5年(1062)前九年の役で功績のあった三浦為通が築城したと伝わりますが、その後、三浦一族は宝治元年(1247)の宝治合戦で宗家である三浦泰村が敗れ、永正13年(1516)、佐原流の三浦道寸・義意親子が新井城で北条早雲に滅ぼされてその歴史に幕を下ろします。