◆4月28日(火)、5月14日(木)旧東海道・大磯宿を歩く(終了しました)

広重「東海道五十三次之内 大磯」(保永堂版)
広重「東海道五十三次之内 大磯」(保永堂版)

 大磯宿は江戸から8番目の宿場として、慶長6年(1601)に設置されました。天保14年(1843)、3軒の本陣と66軒の旅籠があり、旅人が行き交いました。 また、大磯は古くから曽我兄弟と虎御前の伝説で有名で、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次之内 大磯(保永堂版)」にも虎が雨が描かれています。

 明治になると、その温暖な気候と風光明媚な景色に魅かれて多くの文人や政治家がこの地を拠点として活躍しました。

宮経山延台寺
宮経山延台寺

 日蓮宗の寺院、宮経山延台寺です。このお寺は曽我十郎の愛人であった虎御前が、十郎の死後、尼となって法虎庵という小庵を結んだのが始まりと伝わります。法虎庵には十郎の身代わりとなって矢や刀を受けたという「虎御石」が収められています。また、境内には虎御前が十郎との恋の成就を祈願した竜神も祀られています。

問屋場跡
問屋場跡

 大磯宿には問屋場が北組問屋場と南組問屋場の2か所あり、10日交代で荷物の継送りを担当しました。荷物の輸送が大量の際には、隣宿の平塚宿と共同で継送りを行いました。京への上りは平塚で人馬を継ぎ立て小田原へ輸送し、江戸への下りは大磯で継ぎ立て藤沢へ送る片継ぎ(助合)制度が採用されていました。問屋場では責任者である問屋、年寄、人馬の出入りを記帳する帳付、人足の差配をする人足指、馬の差配をする馬指などの人たちが働いていました。

小島本陣旧跡
小島本陣旧跡

 小島本陣跡です。大磯には本陣が3軒ありました。小島本陣、尾上本陣、石井本陣で、小島本陣と尾上本陣は幕末まで続いたそうです。本陣は天皇の勅使や公家、大名、幕府の役人が宿泊する施設です。一般の旅人は旅籠に宿泊します。旅籠の料金は一泊二食でおよそ180~200文程度であったようです。

新島襄終焉の地
新島襄終焉の地

 明治の三代教育家の一人として知られる同志社の新島襄は、募金運動で全国を奔走している途中、静養先の大磯で47歳の生涯を終えました。この碑は、静養先の旅館百足屋の玄関であった場所に建てられています。新島襄の教え子である徳富蘇峰の揮毫になります。

照が崎海岸
照が崎海岸

 日本で最初の海水浴場となった照が崎海岸です。初代軍医総監の松本順は健康と体力増進のためには海水浴が一番と考え、海水浴場の設置を大磯町に働きかけました。明治18年(1885)に日本で最初の海水浴場が開設され、2年後には東海道線が国府津まで延伸されて大磯は保養地、別荘地として大発展を遂げます。当初の海水浴場はこの東側に設置されました。

松本順顕彰碑
松本順顕彰碑

 松本順は天保3年(1832)江戸麻布で、佐倉藩藩医の佐藤泰然の次男として生まれました。徳川家茂の侍医などを務めますが、山県有朋の奨めで大日本帝国陸軍軍医総監となります。牛乳や海水浴が健康に良いことを広め、大磯を別荘地として普及させました。この顕彰碑は犬養毅の揮毫によるものです。

 明治11年(1878)創業の蒲鉾屋さんです。地場の魚を材料に蒲鉾やはんぺん、さつま揚げなどを製造販売されています。ここで一休みさせていただきました。ついでに試食もいただきました。この隣には吉田茂元首相の愛したお豆腐屋さんもあります。明治の頃からたくさんの文人や政治家がこの味に舌鼓を打ったことでしょう。

鴫立庵
鴫立庵

 小淘綾の浜と呼ばれる風光明媚な相模湾は名勝の地として古くから歌に詠まれてきました。西行法師が「心なき 身にもあわれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」と詠んだ沢が何処であるかははっきりしませんが、寛文4年(1664)に小田原の崇雪がこの地を「湘南清絶の地」と絶賛し、鴫立沢の標石を建てて草庵を結びました。元禄8年(1695)に俳人大淀三千風が庵を再興し、鴫立庵第一世として入庵しました。日本三大俳諧道場の一つに挙げられます。「湘南」発祥の地でもあります。

松並木
松並木

 東海道の松並木です。この辺りは今でも当時の街道の風情を残しています。400年前の諸街道改修の時に植えられたもので、150年前から厳しく管理されてきました。この街道沿いには伊藤博文、大隈重信、山県有朋、西園寺公望、吉田茂などそうそうたる政治家が軒を並べ元勲通りと呼ばれました。

滄浪閣跡
滄浪閣跡

 伊藤博文公の居宅跡です。「滄浪閣」は元々小田原にありましたが、大磯の白砂青松を気に入って別荘を移しました。梅子夫人の病気療養も兼ねていたそうです。明治30年(1897)に本籍を東京から移し、この滄浪閣を本宅としました。伊藤公死後、朝鮮の李王家に譲渡され昭和26年(1951)に西武鉄道に売却、ホテルの別館として結婚式場やレストランとして整備されました。

旧島崎藤村邸
旧島崎藤村邸

 「夜明け前」「破戒」などで有名な文豪、島崎藤村が71歳で永眠するまでの2年半をこの大磯で暮らしました。四畳半の書斎と八畳の居間、六畳の和室からなる簡素な住まいで、「静の草屋」と称しました。未完の絶筆「東方の門」はここで書かれました。

 藤村は湯河原を訪れる途中、大磯海岸で行われる「左義長」を見物して大いに気に入り、ここに移り住んだそうです。


島崎藤村の墓地
島崎藤村の墓地

 地福寺内にある藤村夫妻の墓地です。境内の梅林は生前藤村が非常に気に入った場所で、藤村の墓と静子夫人の墓が並んでいます。墓石は有名な建築家谷口吉郎氏の設計になるものです。昭和24年8月22日に建立されました。

旧木下家別邸
旧木下家別邸

 大磯の駅前に戻ってきました。大正元年(1912)に建てられたわが国初のツーバイフォー工法による洋館です。アメリカ帰りの建築家による設計と言われています。貿易商木下建平氏の別邸として建てられました。屋根はスレート葺き切妻造りで、外壁は下見板張り、各室にベイウインドウを設け、ドーマー窓が特徴的です。国の登録有形文化財で、大磯町が管理しています。現在はイタリアンレストランとして使用されていま

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