◆2月26日(木)・3月2日(月) 梅の鎌倉尼五山を歩く(終了しました)

今年最初の歴史探訪は鎌倉です。鎌倉は武家の古都ですが、お寺や仏像も多く、休日平日を問わず訪れる人が多い観光地です。

 鎌倉には、建長寺や円覚寺などの鎌倉五山とともに、鎌倉尼五山と言われる格式の高い臨済宗の尼寺がありました。鎌倉五山は今でも残っていますが尼五山は東慶寺しか残っていません。しかも、東慶寺は今では尼寺ではありません。

 今日は梅の花が薫る中を、尼五山ゆかりの地や仏像を訪ね、尼五山滅亡の謎やロマンを訪ねます。

 

今日は円覚寺舎利殿から始めます。この舎利殿は神奈川県下唯一の国宝建築物で、尼五山第一位だった太平寺の仏殿を移築したものです。そして中には鎌倉幕府の三代将軍源実朝が宋の能仁寺から請来した、仏牙舎利が収められています。花頭窓、桟唐戸など、室町時代初期の唐様禅宗建築の特色がみられます。

 

東慶寺開山の覚山尼は北条時宗の夫人で、出家した翌年に創建しました。東慶寺は尼五山第二位の古刹で駆込寺・縁切寺として有名です。東慶寺のご本尊は釈迦如来像ですが、国の重要文化財である聖観音菩薩立像や神奈川県指定文化財の水月観音菩薩像も安置されています。聖観音菩薩立像は鎌倉特有の土紋装飾が施された宋風仏像で、尼五山第一位の太平寺のご本尊だったそうです。

 

  東慶寺創建の覚山尼、第五世で後醍醐天皇の皇女である用堂尼、第二十世天秀尼の墓所です。覚山尼は縁切寺法を定め、駆込寺・縁切寺として女性救済を始めたといわれています。用堂尼は、鎌倉で亡くなった弟、護良親王の霊を慰めるため東慶寺に入りました。また天秀尼は豊臣秀頼の娘で、千姫の養女です。徳川家康に縁切寺法の存続を強く望んだと伝わります。会津四十万石の大名加藤家の家老、堀主水が謀反を起こした時に東慶寺へ駆込んだ妻子を救い、加藤家四十万石を取り潰させたと伝わります。(左から覚山尼、用堂尼、天秀尼墓所)

 

境内は今が盛りと紅梅、白梅が咲き誇っていました。その他にも山茱萸(サンシュユ)の黄色い花が見事でした。東慶寺は花の寺としても有名です。

 尼五山第三位の国恩寺は東慶寺の門前にあったと伝わりますが、開山、開基、創建年代は不明です。東慶寺に吸収されたともいわれます。

 

鶴岡八幡宮です。いま、段葛は工事中で通行することができません。来年四月には鮮やかな桜並木が観られる予定です。

 

 時宗のお寺、満光山来迎寺です。この寺院のご本尊は阿弥陀如来坐像です。

 本尊の脇に安置されている地蔵菩薩坐像は元は西御門の報恩寺(廃寺)のご本尊でしたが、その後、太平寺に移され、さらに頼朝の持仏堂であった法華堂に移され、明治の神仏分離によって来迎寺へ迎えられました。

 また、もう一方の脇に安置されている如意輪観音像は、土紋装飾の鎌倉を代表する美しい仏像のひとつに数えられています。やはり神仏分離で法華堂から来迎寺へ移されました。

 

 来迎寺に上がる階段のふもとにある、尼五山第一位だった太平寺跡碑です。碑には頼朝が建立したとありますが、年代的にはもう少し後の建立のようです。開山は相模の豪族の出身である妙法尼で、中興の開山が初代鎌倉公方足利基氏の夫人清渓尼。以後足利氏ゆかりの女性が住持を務めました。

  永正7(1538)年、小弓公方と呼ばれた足利義明は国府台合戦で敗れ、娘の青岳は尼として太平寺に入れられてしまいます。その頃、既に里見義弘とは許嫁だったといわれており、義弘はその後正妻を迎えることはありませんでした。

 

弘治2(1556)年、里見義弘が鎌倉へ攻め込んだ時に、太平寺の住持であった青岳尼とご本尊の聖観音菩薩像を奪って安房に戻り、青岳尼を還俗させて妻とします。

 それを知った北条氏康は怒り、太平寺を廃寺にしてしまいます。そして廃寺となった太平寺の仏殿を、円覚寺に移すことを認めた文書が円覚寺に残されています。

 

 源頼朝の墓所です。薩摩藩主島津重豪が安永8(1779)年に整備したそうです。この場所には頼朝の持仏堂がありましたが、死去後この地に葬られ法華堂と改められました。そして江戸時代には現在白旗神社がある墓所階段の下に法華堂が移されました。

 隣の谷奥には島津氏の祖で頼朝の子と伝わる島津忠久の墓や大江広元の墓、広元の子で毛利氏の祖である毛利季光の墓が並んでいます。

 

荏柄天神です。この西隣に尼五山第四位の護法寺があったそうです。今は何も残っていません。そして尼五山第五位の禅明寺は正確な場所は不明ですが、報国寺か衣張山の近くといわれています。

 

 今日は最後に荏柄天神社の紅梅、白梅を観て解散です。