◆11月19日(木)横浜山手再発見!(終了しました)

山手居留地は幕末の1867(慶応3)年、200区画の競売(幕府からの貸与)が行われ、住宅地としての歴史が幕を開けました。教会や学校、病院、公園などが整備され、明治10年代末には270区画がほぼ整いました。関東大震災により山手の街並みは潰滅しますが、その後の復興過程で再び外国人の住む街・山手の景観が形づくられていきました。居留地時代の地図を片手に、山手地区に居住した宣教師や貿易商の面影が残る史跡を探訪します。

 

 1番は地蔵坂上です。今はグラウンドですが、当時、茶の貿易商スミス氏の邸宅がありました。9番(山手本通りを挟んだ向かい側)には明治後期、日本蓄音機(現日本コロムビア)の創業者F・W・ホーンの朱塗り宮殿造りの日光屋敷(通称)が建っていました。

 

米国バプテスト派の宣教師J・ゴーブルが1873(明治6)年、教会堂建設(224番)に着手。1875(明治8)年、メソジスト派教会の宣教師R・S・マクレーが購入。ここに移築し「天安堂」と名付けました。その後、隣接地の221番に美会神学校(青山学院の前身)が開校しました。

 

1871(明治4)年、米国婦人一致外国伝道協会からプライン、ピアソン、クロスビーの三人の女性宣教師が、混血児の養育と女子教育のために派遣されました。山手48番にアメリカン・ミッション・ホームを開設。72年、山手212番(現在地)に移転。73年、隣接の208~9を購入し校舎を増築、75年には校名を「共立女学校」に改称しました。いまの横浜共立学園です。現在の校地内には新約聖書の翻訳を行った宣教師S・R・ブラウンの邸もありました。

 

16番には、18880(明治13)年から6年間イタリア領事館が置かれていました。明治中期には居留地の「世話役」、英国人貿易商のキングドン邸(16~17番)があり、18番にはスイス系貿易商社シーベルヘグナー社役員のアベッグ邸がありました。平成になって16~18番がイタリア山庭園として一体整備され、現在は移築復元された2つの西洋館が、「外交官の家」と「ブラフ18番館」として公開されています。

 

 1886(明治9)年、米国バプテスト教会のネーサン・ブラウン夫人のシャーロッテが山手67番の聖書印刷所跡に創設した捜真学院は、1891(明治24)年、山手34番に新校舎を建設します。現在の山手トンネルの上方に当たります。山手トンネルの建設に伴って1910(明治43)年、現在地(神奈川区中丸)に移転しました。

 

 山手カトリック教会は、1862(文久2)年に仏人ジラールによって山下居留地に建てられた横浜天主堂が前身です。1906(明治39)年に現在地へ移転しました。関東大震災により倒壊後、チェコ人の建築家スワガーによって設計されました。内部のステンドグラスの絵はプラハの町とチェコ人の聖人をモチーフにしています。

 

創立者は米国改革派教会のM・キダーです。1875(明治8)年、現在の山手178番に校舎が完成、フェリス・セミナリーと名付けられました。この隣地が48番で、アメリカン・ミッションホーム跡地です。現横浜共立学園と横浜英和学院の創立の地でもあります。49番には明治後期に、尖塔付ゴシック会堂のユニオン・チャーチが建っていましたが関東大震災で倒壊してしまいました。また、この向かい側の46番には横浜最初のビール工場J・Y・ブルワリーがありました。

 

この地はオランダ人ヘフトの敷地があった場所です。ヘフトは船具や武器の貿易商で、「ヘフト・ブルワリー」の創業者でもあります。店のあった山下居留地からの道を、馬車が通れるように敷地を提供して道幅を広げたそうです。開港期にはヘフト坂とも呼ばれていました。

 

 75番の敷地境界石です。A区画(550坪)とB区画(726坪)の2区画がありました。A館に米国バプテスト教会から派遣された宣教師のJ・ゴーブル一家が、B館の2階に同じ宣教師のN・ブラウン一家が居住しました。1階は礼拝と学校に使用されました。B館のあった場所が日本バプテスト教会発祥の地とされています。

 

フランスのサン・モール修道会は1872(明治5)年、M・マチルドほか4人の修道女を日本に派遣しました。当初、山手58番で孤児の養育を行い、その後、山手83番に孤児収容施設仁慈堂と、外国人教育施設サン・モール学校を創設。1900(明治33)年、山手88番に横浜紅蘭女学校を開校、1951(昭和26)年横浜雙葉学園となりました。

 「雙葉」は外国語の勉強と会話を通して、日本の女性と欧州の女性が深い友情に結ばれることの象徴として校名とされました。

 

 山手本通り沿いに保存されている慶応3年の「居留地境界石」です。外国人居留地と日本人居住区を分け隔てる標石で、幕末から約150年間、山手とともに歩んできた貴重な遺構です。今は役割を終えたことや土地開発の影響もあり、確認できるものは僅かとなっています。

 

 1890(明治13)年、米国メソジスト・プロテスタント教会婦人外国伝道会はブリテンを日本に派遣し、孤児や混血児救済のため、山手48番にブリテン女学校を開設。翌年、山手68番に、1883(明治16)年には山手120番に移転しました。初期には男子も在学しており、有島武郎「一房の葡萄」はこの頃の学校が舞台になっています。山手244番に移転後、1916(大正5)年、現在の蒔田に移転しました。

 120番には両替商で船具や食料品販売を営んでいたT・M・ラフィンの邸宅もありました。ラフィンは日本ヨット界の恩人として知られています。

 

T・M・ラフィンの長男J・E・ラフィンの邸宅として、J・H・モーガンの設計により1926(大正15)年に建築されました。西側正面からは2階建て、東側からは3階建てと、傾斜地を巧みに利用しています。彼も父親同様にヨットの製法に長じており、1963(昭和38)年、横浜文化賞を受賞しています。