2月25日(木)北条氏興亡の跡を歩く(終了しました)

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

 鎌倉北条氏は伊豆国の在地豪族でしたが、源頼朝と政子が結婚したことからその勢力を蓄えていきました。比企氏、畠山氏、和田氏、三浦氏など有力御家人を次々と滅ぼし、独裁執権政治体制を確立しました。そして新田義貞に滅ぼされるまで、150年続いた北条氏興亡の跡を歩きます。まず源頼朝が治承4(1180)年、由比郷の元八幡を現在地に移し、鎌倉の中心となった鶴岡八幡宮から出発です。

大イチョウ
大イチョウ

 境内石段脇の大イチョウです。承久元(1219)年1月27日、大雪の中夕刻から3代将軍源実朝の右大臣拝賀の式が行われました。式が終わり、実朝が石段を下りかけたところ、この大イチョウの木の陰から2代将軍頼家の遺児・公暁が襲いかかり実朝は討たれました。この時、北条義時は実朝の後に従う予定でしたが体の不調を訴え、この役を源仲章に譲り、難を逃れます。大イチョウは平成22年3月に強風で倒れ、現在は元の切り株から新しい芽が伸びています。

若宮
若宮

 石段上の上宮は、応神天皇や神功皇后をお祀りしています。11代徳川将軍家斉が文政11(1828)年に造営しました。荘厳な権現造りで国の重要文化財となっています。

 若宮(下宮)は3代将軍家光が寛永3(1626)年に造営しました。こちらも権現造りで重要文化財に指定されています。仁徳天皇や履中天皇をお祀りしています。

八幡宮は江戸時代まで神仏習合で、八幡宮寺といわれ、仁王門や薬師堂などがありましたが、神仏分離により解体撤去されました。

頼朝墓所・法華堂跡
頼朝墓所・法華堂跡

 現在白旗神社あるところに、江戸時代まで法華堂がありました。横の石段を上ったところが頼朝の墓所です。この墓所は頼朝の子孫を自称する薩摩藩主島津重豪(しげひで)が整備しました。墓所の西隣に当初法華堂(元は持仏堂)があったそうです。建保元(1213)年の和田の乱のときには3代将軍実朝がこの場所に避難し、また、宝治元(1247)年の宝治合戦では、三浦泰村以下三浦一族500人余りが法華堂に立てこもり自害したそうです。

北条義時法華堂跡
北条義時法華堂跡

 頼朝墓所の東隣に2代執権北条義時の法華堂があったと「吾妻鏡」にあります。平成17年に発掘調査が行われ、8.4m四方の建築物が発見されました。法華堂先の石段手前左側の山腹にあるやぐらは、宝治合戦で滅亡した三浦一族の墓といわれています。石段を上がったところには島津忠久、大江広元、毛利季光(すえみつ)の墓が並んでいます。島津忠久は島津氏の始祖、毛利季光は長州藩毛利氏の始祖で大江広元の四男といわれています。

大倉幕府跡
大倉幕府跡

 治承4(1180)年に大庭景義を奉行として、大倉御所の造営が行われました。御所は寝殿造で、南側には中島のある池や釣殿があったと伝わります。東西南北に門が設けられ、南御門には八田知家・畠山重忠邸、東御門には比企宗員邸、西御門には三浦邸と有力御家人邸宅が御所の各門を守るように配置されていました。嘉禄元(1225)年に宇津宮辻子に幕府が移るまで、頼朝・頼家・実朝の3代にわたって45年間、幕政の中心でした。

宝戒寺
宝戒寺

 宝戒寺です。後醍醐天皇の命により足利尊氏が建武2(1335)年、執権北条氏邸の跡に建立したといわれています。本尊の地蔵菩薩坐像(国重要文化財)は三条法印憲円の作です。

 境内には、14代執権北条高時を祀った徳崇大権現堂、秘仏「大聖歓喜天像」が安置される大聖歓喜天堂、北条氏と東勝寺合戦の戦没者を供養する宝篋印塔などがあります。

宝戒寺枝垂れ梅
宝戒寺枝垂れ梅

 宝戒寺は花の寺として知られています。水仙

、ミツマタ、椿、桜、百日紅、酔芙蓉などが咲き乱れます。特に秋の萩が有名で、萩の寺とも呼ばれています。今の時期は境内の枝垂れ梅が見頃です。

青砥藤綱旧跡
青砥藤綱旧跡

 青砥藤綱は、北条時宗・貞時の2代に仕えた引付衆でした。「太平記」によると、夜出仕した時、銭10文を川に落としますが、松明を50文で買って川の中を探しあてました。人々は10文を探すのに50文を使うのは大損であるといいますが、藤綱は、10文を川に沈めたままにしておくのは天下の貨幣を失うことになる、50文は商人に渡り天下の利になると答えたといいます。藤綱は実在の人物かどうか定かでありませんが、貨幣経済が成立していたことがわかる逸話です。

東勝寺腹切やぐら
東勝寺腹切やぐら

 東勝寺は3代執権北条泰時が北条氏の菩提寺として建立した寺院です。菩提寺であると同時に有事に備えた城塞の役目もあったといわれます。元弘3(1333)年、新田義貞が鎌倉に攻め入った際、東勝寺に立てこもり、14代執権北条高時以下870余人がここで自刃したと伝わります。境内跡の奥には腹切やぐらといわれる大きなやぐらがあり、中には北条高時墓と伝わる石塔と、北条一門を供養する卒塔婆があります。

若宮大路幕府跡
若宮大路幕府跡

 嘉禎2(1236)年に宇津宮辻子から再び御所を移しています。若宮大路に面していることから若宮大路幕府といわれました。若宮大路に面して西門がありました。北隣にあった執権邸もやはり西門が若宮大路に面していました。これは例外的なことで他の御家人や寺院には若宮大路に面した門を造ることは許されていませんでした。この地には元弘3(1333)年の鎌倉幕府滅亡まで、97年間幕府が置かれました。

宇津宮辻子幕府跡
宇津宮辻子幕府跡

 元仁元(1224)年、北条義時が急死し、翌嘉禄元(1225)年、尼将軍北条政子が没すると同年12月に新御所に移ります。人心を一新し、幕府の施策徹底を図るためだったと考えられています。若宮大路幕府に移るまでの11年間、この地に政治の中心が置かれました。北条泰時が鎌倉幕府の基本的法典である御成敗式目(貞永式目)を制定したのもここ宇津宮辻子幕府です。