5月24日(火)・31日(火)小学生が習う吉田新田旧跡を歩く(終了しました)

吉田新田開墾図
吉田新田開墾図

 吉田新田は近世初頭、現在の横浜市中区・南区にまたがる地域で開墾された新田です。明暦2年(1656)に江戸幕府から埋立・新田開発の許可を得て、江戸の材木商吉田勘兵衛によって開発されました。近代横浜の中心部である関内地区の外側に位置し、南西側に伸びる低地市街地の多くは、この吉田新田の開発により陸地化された土地です。その意味で横浜発展の基礎を築いた新田であるといえます。横浜の小学生は、先人による郷土の開発事例として4年生の社会科で習います。来年(2017)は、新田完成から350年にあたります。

天神坂碑
天神坂碑

 日ノ出町駅裏手の石段のある坂道の中途に「天神坂碑」が建っています。碑には万治2年(1659)初代吉田勘兵衛が幕府に吉田新田の埋め立てを申請して許可を得、天神山及び石川中村の大丸山を切り崩し、その土砂で新田を埋め立てた土採場の跡であることと、これに伴って通行の用に供していた無名の坂道に10代勘兵衛が「天神坂」と命名した由来が記されています。昭和9年(1934)に建立されました。

野毛山展望台
野毛山展望台

 平成23年(2011)に2代目となる野毛山展望台が設置されました。標高約57mです。この展望台から吉田新田の全体像を眺めてから出発します。

野毛山公園は標高50mの高台にあり、横浜開港時は原富太郎、茂木惣兵衛の邸宅が建てられました。昭和26年(1951)に動物園や児童遊園が作られました。

パーマー胸像
パーマー胸像

 野毛山に胸像が建つヘンリー・スペンサー・パーマー(1838~1893)は、日本初の近代的水道である横浜水道を完成させました。明治16年(1883)に来日、水源を相模川支流の道志川とし野毛山配水池に至る総延長48㎞の水道建設を指揮しました。その他横浜港の築港計画にもかかわり、大桟橋や横浜ドックの建設にも貢献しました。

長谷川伸碑
長谷川伸碑

 長谷川伸は、明治17年(1884)日ノ出町駅の近くで生まれました。父の破産で小学校を3年で中退し、横浜第2号ドック(現在のドックヤードガーデン)で働きました。20歳で新聞記者となり、後に小説・劇作家に転じました。「一本刀土俵入り」「瞼の母」は繰り返し舞台にかけられ映画化もされました。

大井戸
大井戸

 この井戸は大井戸と呼ばれ、初代の吉田勘兵衛が吉田新田を開いたときに掘ったもので水質は優れ200年にわたって付近住民の飲料水となりました。明治中期、大岡川の水底工事や町に水道が普及してからは、飲料以外にも使われました。特に災害(大正大震災)に際しては、防災の役割を果たすなど、市民生活に寄与したが、昭和20年進駐軍によって埋められてしまいました。今回復旧し、横浜都市開発の一記念物として残すものです。(現地案内板より)

清正公堂
清正公堂

 南区清水ヶ丘にある日蓮宗常清寺は戦前、長者町にあり、その境内に清正公堂がありました。戦災で寺が消失後も戦災を免れた清正公堂は昭和53年(1978)に現在の地へ移転しました。吉田勘兵衛の十二代目、吉田貞一郎氏が伊勢佐木町界わいの商況をよみがえらせたいと土地を提供し、公堂を建設しました。

末吉町カトリック教会
末吉町カトリック教会

 明治7年(1874)若葉町にわが国最初の日本人のためのカトリック教会(若葉町教会)が建てられました。教会は横浜大空襲で焼失後、米軍飛行場建設のために接収され、現在の末吉町に移転しました。再建された末吉町教会は、平成23年(2011)東日本大震災の影響で倒壊、平成26年(2014)にモダンな教会に建て替えられました。

日ノ出湧水
日ノ出湧水

 野毛山のすそ野に位置する日ノ出町周辺は、自然の湧水に恵まれた地域で、明治の初めごろから、湧水を利用した民間の給水業者が、横浜港に寄港する船舶に飲用水を提供していたといわれます。この湧水も野毛山が水源と考えられ、東小学校の脇から地中に埋設された鋳鉄管で導かれている。現在は飲用はできないが、生活用水として利用されている。

道慶地蔵
道慶地蔵

 現在の道慶橋付近には、吉田新田ができるまで対岸の中村方面への渡し場があり、地蔵尊が祀られていました。吉田新田ができた後、道慶(出生地不詳)という僧がこの地を訪れました。地蔵尊の場所に草庵を結び、付近住民の難渋を救うために日夜祈願して新田に通ずるように大岡川に小橋を架けました。道慶没後、その遺徳を偲び、この橋を道慶橋と名付け、地蔵尊を祀りました。

大岡川・中村川分岐地点
大岡川・中村川分岐地点

 勘兵衛は葭谷橋付近で新田の両側に大岡川の流れを分流し、釣鐘状の新田としました。昔は両川とも大岡川と呼ばれていましたが、いつの頃からか右岸の川が中村川、左岸の川を大岡川と呼ぶようになりました。釣鐘の頂点にあたる場所に取水口を設け、取り入れた用水は新田の中央に作られた中川より分水し、灌漑用とされました。現在は大通り公園となっています。

堰神社
堰神社

 寛文13年(1673)、吉田新田用水取水口の守護神として祀られました。「堰」が「咳」と同音であることから、いつしか咳の神様としての信仰を広く集めるようになりました。

日枝神社
日枝神社

 寛文5年(1665)、南七つ目に江戸本材木町の山王社(日枝神社)の分霊を勧請し、常清寺の別当として、寛文13年(1673)に棟上げが行われました。3社を祀ったことから「お三の宮」とする説、「山王の宮」が訛って「お三」の宮となったという説があります。また、「お三の人柱伝説」から「お三の宮日枝神社」と呼ばれるようになったともいわれます。日枝神社は武道、酒造、土木に長じた大山咋命を祭神としています。