11月22日(火)・29日(火)「金澤八景」のルーツと明治憲法制定にまつわる旧跡を巡る(終了しました)

六浦(米倉)陣屋跡
六浦(米倉)陣屋跡

 六浦陣屋は、現在の横浜市金沢区六浦にあった陣屋で、六浦藩(武州金澤藩)の藩庁です。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の時に才覚を表し、元禄12年(1699)、米倉昌尹(まさただ)が下野国の皆川藩に陣屋を構えました。その後享保7年(1722)武蔵国金沢の地に移封し、現在の金沢八景駅沿いに陣屋を構えます。陣屋跡は宅地化が進みましたが、遺構として今でも陣屋入り口には石段が、谷戸の崖下には米倉家の墓石が残されています。

上行寺東遺跡(復元遺跡)
上行寺東遺跡(復元遺跡)

 上行寺の東側一帯は引越の地名で呼ばれ、昭和59年にここから中世(鎌倉~室町時代)のやぐら群が発見されました。高さ30mの丘陵に上段、中段の二つの平場と下部崖面から構成され、43のやぐら、6基の建物跡、400の五輪塔、200体にのぼる人骨が出土しました。念仏堂と思われる建物や池が一体となったやぐら群は類例のないものです。やぐらの岩壁に刻まれた阿弥陀如来の背後は西を向いていて、彼岸の日に来迎を拝む意味があったと思われます。

泥牛庵
泥牛庵

 臨済宗円覚寺派の寺院で、開基は北条高塒と伝わります。古くは米倉陣屋の谷戸にあり、六浦側に参道がありましたが、享保7年(1722)に米倉陣屋が建てられたときに現在地に移転しました。鎌倉幕府滅亡のときに14代執権北条高塒は持仏の聖観音菩薩を円覚寺11世の南山士雲に託し、北条氏の永久加護を懇願します。士雲は六浦に地を選び庵を建てて冥福を祈りました。泥牛庵の頂上は藩主の見晴台として「御茶山」と呼ばれていました。

金龍禅院
金龍禅院

 金龍禅院は臨済宗建長寺派の寺院です。山号の「昇天山」は、昔この寺で硯の中から龍が昇天したからと伝わります。開山の元圭は建長寺47代住職です。本堂の後の丘にあった九覧亭からの眺望は金沢随一といわれ、江戸時代から観光地として大変な賑わいを見せました。昭和初期まで山上に茶店があり、昭和32年に現在の聖徳太子堂が建てられました。

飛石
飛石

 金龍禅院本堂の後ろには「飛石」(金沢四石の一つ)と呼ばれる石があります。鳶に似ているので「鳶石」という説や、三島明神がこの石に飛来したとの伝説もあります。現在の「飛石」は文化9年(1812)の地震で落下し、元の形は失われています。

琵琶島神社
琵琶島神社

 治承4年(1180)、源頼朝が三島明神を勧請して瀬戸神社を創建した時に、夫人の政子が夫に倣い、日ごろ信仰する琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して、瀬戸神社の海中に島を築いて創建したと伝わります。祭神は立ち姿なので「立身弁財天」または島の形から「琵琶島弁財天」と呼ばれます。

 参道入り口に金沢四石の一つ「福石」があります。これは源頼朝が瀬戸神社参拝のため、平潟湾で禊をしたときに衣服を掛けた石なので「呉服石」とも呼ばれています。

姫小島水門
姫小島水門

 永島佑伯(泥亀)によって始められた干潟の埋め立ては、江戸中期には金沢の入江全体を開発するまでになり、新田を開くため入江口にある姫小島を利用して汐除堤が築かれました。天明5年(1785)、6代目永島段右衛門によって島と堤の間にこの水門が建設されました。この水門は約200年に及ぶ干拓事業の歴史的物証の復元です。姫小島の名前は「照手姫と小栗判官」の伝承によるもので、照手姫が松葉いぶしの難にあったことを憐れんで名付けたと伝わります。

瀬戸橋
瀬戸橋

 瀬戸と洲崎の間は狭い海峡となっていて、潮の干満時には急流渦巻く交通の難所でした。称名寺と鎌倉との往復は釜利谷から白山道を抜け、朝比奈峠を越えていました。嘉元3年(1305)北条貞顕により海にかかる橋としては日本最古の瀬戸橋が造営され、鎌倉と金沢は直結、六浦は海陸交通の要衝としての地位を高めます。そして海に開かれた商業地として、一層繁栄することになりました。

明治憲法草創の碑
明治憲法草創の碑

 江戸時代、金沢八景が観光名所として栄えていた頃、瀬戸橋近くには東屋、扇屋、千代本などの料亭が立ち並んでいました。明治20年(1887)、伊藤博文を中心に井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎の4名がこの東屋で明治憲法の草案づくりをしていましたが、ある日、草案原稿の入った鞄の盗難事件が起こり、その後は夏島にある伊藤博文の別荘で草案作りは続けられました。昭和10年、金子堅太郎により東屋の庭に「憲法草創の碑」が建てられ、後に現在の地に移設されました。

龍華寺
龍華寺

 龍華寺は真言宗御室派の寺院で、源頼朝が瀬戸神社を建立した後、六浦山中に建てた「浄願寺」が始まりといわれています。その後、戦乱や火災で伽藍が荒廃、明応8年(1499)に当時の住職融弁が兼務していた光徳寺と合併し、現在地に移築して龍華寺となりました。天平時代の作といわれる「脱活乾漆菩薩坐像」や「梵鐘」など貴重な文化財が所蔵されており、牡丹の花の寺としても有名で、境内には泥亀新田の開発に尽力した永島家一族の墓所があります。

掩体壕跡
掩体壕跡

 掩体壕(えんたいごう)とは航空機を格納する防空壕などの構造物のことです。野島掩体壕は、横須賀市夏島町にあった海軍航空隊基地の航空機を、空襲から守る施設として、昭和20年3月15日から6月30日までの建設記録が残されています。計画では、海軍の小型機100機を格納する予定でしたが、終戦により実際に使用されることはありませんでした。この掩体壕は、野島山の東西を貫通しており、全長は260m、両出口はコンクリートが打設されています。

伊藤博文金沢別邸
伊藤博文金沢別邸

 野島公園の林に囲まれた茅葺の木造家屋が、伊藤博文が明治31年に設けた旧別荘です。純和風建築2100坪の広大な敷地に建坪110坪、前面に乙艫の海を一望できる別荘でした。大正天皇や裕仁親王(昭和天皇)、韓国皇太子をはじめ多数の政府高官が招かれました。平成18年に横浜市指定有形文化財に指定され、解体・調査を経て平成21年に創建当時の姿に復元されました。敷地内には牡丹園も併設されています。