7月13日(木)終了しました

鎌倉大仏
鎌倉大仏

 有名な国宝「鎌倉大仏(銅造阿弥陀如来坐像)」ですが、意外なことに、いつ、だれによって造られたものか、不明です。現在の銅造大仏以前に木造大仏が造られていましたが、この二つの大仏の関係も不明です。鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」には、建長4年(1252)8月に金銅大仏が鋳始められたと書かれていますが、以降は鎌倉大仏に関する記述はありません。

 梅の香漂う早春の鎌倉を、大仏ゆかりの地を訪ねながら鎌倉大仏の謎に迫ります。

極楽寺
極楽寺

 極楽寺は、北条重時が忍性(にんしょう)を開山として正元元年(1259)に創建と伝わります。その後、重時の子の長時・業時が七堂伽藍を備えた大寺院にしたといわれます。

 忍性は孤児や身寄りのない老人、病院などを収容するための施薬院・悲田院などの療養施設を設置しました。

 本堂前には、忍性が使用したといわれる大きな石製の千福茶臼と製薬鉢が残っています。また、寺内にはご本尊の清凉寺式釈迦如来立像のほか、十大弟子像、釈迦如来坐像不動明王坐像(いずれも国重文)が安置されています。その他忍性菩薩坐像、興正菩薩(叡尊)坐像も祀られています。

導地蔵(みちびきじぞう)
導地蔵(みちびきじぞう)

 文永4年(1267)に忍性が運慶作の地蔵菩薩像を安置したのが始まりといわれます。現在の地蔵菩薩像は、室町時代の作と伝わります。この地蔵の視野に入る場所では、子供に災難が起きないといわれます。最近まで、子供の宮参りの帰りには、この地蔵に赤飯を供えて、子の無事な成長を祈るという風習がありました。

上杉憲方墓所
上杉憲方墓所

 山内上杉氏の祖である初代関東管領・上杉憲顕の子で、明月院を開いた上杉憲方の墓と伝わる。憲方も5代関東管領を務めた。

 このあたり一帯は、頼朝の時代に建てられた西方寺があったといわれています。西方寺は極楽寺の一子院でしたが、室町時代に新羽村(現横浜市港北区新羽町)に移ったといわれています。

成就院
成就院

 弘法大師空海が護摩をたいた護摩壇跡といわれる地に、3代執権・北条泰時が承久元年(1219)に、不動明王を本尊として建立したと伝わります。

 元弘3年(1333)の新田義貞による鎌倉攻めの際、戦火により焼失しましたが、元禄年間(1688~1704)に再建されました。

本堂には本尊の不動明王像や文覚上人荒行像が祀られています。

 成就院の山門がある位置が、本来の極楽寺坂切通であったといわれます。

虚空蔵堂(名鏡山円満院星井寺)
虚空蔵堂(名鏡山円満院星井寺)

 天平年間(729~749)に行基がここで修業をしていると、井戸(星の井)の中で星が輝いているので、底をさらってみると、黒光りする石が表れました。その石で虚空蔵菩薩を彫り安置したと伝わります。本堂前には、海上安全と大漁祈願など、海に関する人々に信仰された舟守地蔵が祀られています。

御霊神社
御霊神社

 この地の開拓者である鎌倉権五郎景正(影政)が祭神です。平安時代末期創建で、当初は関東平氏五家(大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉)の先祖を祀る五霊神社でしたが、いつしか武勇に優れた鎌倉権五郎景正をまつる神社になったと伝わります。景正は後三年の役で敵に左目を矢で射られながらも、ひるむことなく敵を打倒したと伝わります。歌舞伎十八番の「暫(しばらく)」は景正がモデルとなっています。

長谷寺
長谷寺

 開山は徳道、開基は藤原房前で天平8年(736)の創建と伝わりますが、これは大和長谷寺の縁起にならったもので、実際の創建年代は明らかではありません。本尊の十一面観音像は、徳道が一本の楠の霊木から2体の十一面観音像を造り、1体を大和長谷寺に祀り、もう1体を海に流したところ、三浦半島に流れ着いたのでこれを祀って開山したという寺伝があります。

長谷寺観音堂
長谷寺観音堂

 寺内の阿弥陀堂には、丈六の阿弥陀如来坐像が祀られています。頼朝が42歳の厄除けに造立と伝わりますが、室町時代の作ともいわれます。

 観音堂には、本尊の十一面観音像が祀られています。高さが9.18mで、木造の仏像としては大和長谷寺とともに日本最大です。右手に錫杖を、左手に花瓶を持つ姿は、長谷寺式観音と呼ばれています。

高徳院
高徳院

 高徳院は鎌倉大仏を本尊とする寺院ですが、開山、開基は不明です。当初は真言宗で、忍性も別当を務めていたといわれます。南北朝期には建長寺派の臨済宗となりました。江戸時代、増上寺の祐天上人が中興し、浄土宗となり、院号も高徳院となりました。

江戸の豪商野島新左衛門が土地や仁王門、仁王像などを寄進しました。野島新左衛門は中興開基といわれ、寺号の高徳院は野島新左衛門の法名といわれています。

鎌倉大仏
鎌倉大仏

 鎌倉の仏像では、唯一国宝に指定されている大仏ですが意外なことに、誰により、いつ造られたか不明です。高徳院に伝わる「相模国鎌倉大仏縁起」によると、頼朝の侍女であった稲田野局(いなだのつぼね)が頼朝の遺志を継いで大仏建立を発願したとありますが、稲田野局については他に史料がなく不明です。「吾妻鏡」によると、暦仁元年(1238)3月に「深沢里で大仏堂の建立を始める。僧浄光が勧進をしてこの営みを企てた」とあるのが最初です。「東関紀行」には木造であることが書かれています。

 寛元元年(1243)6月には堂舎の落成供養に集まった人は10人と、大仏供養としてはささやかで、幕府の要人の参列がなかったことは不思議です。また「吾妻鏡」には金銅釈迦如来像と記述されていますが、鎌倉大仏は阿弥陀如来坐像であるのも謎です。完成時期を探る手掛かりとして、大仏造立に関わったと思われる鋳物師の梵鐘銘があります。文応元年(1260)銘の川越養寿院の鐘に「鋳師丹治久友」となっており、文永元年(1264)銘の東大寺真言院の鐘には「鋳物師新大仏寺大工丹治久友」となっていることから、1260年から1264年の間に鎌倉大仏が完成したとみることもできます。

大仏内部
大仏内部

 大仏の内部に入ると、合わせ目や鋳張りが確認できます。数本の横線は数回に分けて鋳込んだ合わせ目で、鋳繰り(いからくり)という高度な技法が使われています。鋳物の成分としては、奈良大仏は銅が92%であるのに対し、鎌倉大仏は銅が67%、鉛が24%となっています。これは宋銭の成分とほぼ同じで、宋銭を鋳つぶしたのでは、という説もあります。その他にも衲衣が鎌倉時代には珍しい通肩であったり、東大寺大仏は廬舎那仏であるが、鎌倉大仏は阿弥陀如来であるのかなど謎が多いことも鎌倉大仏の魅力となっています。