11月25日(土)小田原合戦、攻めと守りの仕組みを探る(終了しました)

小田原城
小田原城

 小田原城は近世の大久保氏入城以前に中世城郭としての戦国北条氏の歴史があり、防御のため城下町全体を土塁や空堀で取り囲む「総構」構造を取り入れました。その規模は長さ約9㎞と非常に大きなもので、北西側には八幡山古郭としてその痕跡を残しています。また関東で最初に造られた「総石垣」の城郭である石垣山城(通称、一夜城)は、秀吉が1590年(天正18)の小田原攻めのために築き、その短期間だったといわれる築城や小田原城から見えないように演出し、北条氏側を驚かせたという逸話は有名です。

 15世紀から16世紀にかけて関東では戦乱が相次ぎ、戦国時代の様相を呈していました。真田氏の名胡桃城の帰趨を巡り秀吉が北条氏へ宣戦布告、天正18年3月1日(1590)秀吉軍は京都から出陣します。

 北条軍は箱根で秀吉軍を迎え撃つべく、駿河・相模国境に防衛線を敷きますが、箱根山麓の山中城は1日にして開城。4月には秀吉は早川口にある笠懸山に石垣山城を築き始め、約80日間で完成させたといいます。

 7月に氏直が秀吉に降伏、3か月にわたる小田原合戦は幕を降ろしました。氏政・氏照兄弟は切腹、氏直は高野山へ追放となり北条氏は滅亡します。

八幡山古郭・三味線堀
八幡山古郭・三味線堀

 小田原城は、室町時代中頃(15世紀前半)大森氏によって築かれたのが起源と考えられています。この頃の小田原城の位置は、現在の天守閣の北側八幡山付近と想定されています。明応7年(1498)北条早雲(伊勢宗瑞)は相模国(神奈川県)への進出を目指して大森氏を攻め、小田原城を奪いました。北条氏は勢力の拡大と合わせて小田原城の規模を拡大していき、天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原城を囲んだ時は、全周約9㎞もの総構が城下町を包み込むまでに発展していました。八幡山といわれる子の付近一帯は、初期の小田原城の中心であったと考えられている場所で、所々に土塁や空堀が残されています。

小峰御鐘ノ台大堀切(西堀)
小峰御鐘ノ台大堀切(西堀)

 この付近一帯は、戦国時代の小田原城の姿が大変よく残されています。当時の小田原城は、江戸時代に改修された現在の城址公園周辺とは異なり、高い石垣などを用いず、土を盛った土塁や空堀を複雑に組み合わせて築かれていました。小峰御鐘ノ台は、総構とその内側を守る三の丸外郭の堀が接続するところにあたり、並行して南北に走る西堀・中堀・東堀の規模の大きな3条の空堀を複雑に組み合わせ、山の尾根を遮断して守りを大変堅固なものにしています。

小峰御鐘ノ台大堀切(東堀)
小峰御鐘ノ台大堀切(東堀)

 小峰御鐘ノ台大堀切は、最も慰霊塔側にある東堀、現在道路となっている中堀、その西側にある西堀の三本の堀切全体の名称です。この堀切は本丸へと続く八幡山丘陵を分断し、敵の攻撃を防御するために北条時代末期に構築されたもので、小田原城の西側を防衛する最も重要な場所であったと考えられます。東堀は幅が約20~30m、深さは土塁の頂上から約12~15mあり、堀の法面は50~60度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえます。堀には障子堀や土橋状の堀残し部分のほか、横矢掛かりと呼ばれるクランク部分などの施設が設けられていたことが確認されています。こうした堀の構造は北条氏によって積極的に用いられた戦国時代の城郭遺構の特色です。

三の丸外郭新堀土塁
三の丸外郭新堀土塁

 小田原城を本拠とする小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦を迎えるまでに、堀と土塁で周囲9㎞に及ぶ総構を構築しました。それ以前には、総構の内側に「新堀」と呼ばれる外郭がありました。この場所は、「新堀」と土塁の名残が色濃く残る場所になります。ここは小田原城の西端で一部が総構と重なる位置にあります。前方には、豊臣秀吉の石垣山(一夜城)、細川忠興の陣場である富士山砦(板橋城)を眺望できます。

八幡山古郭東曲輪
八幡山古郭東曲輪

 東曲輪は八幡山古郭の東寄りに位置します。平成17年(2005)に行われた発掘調査では、16世紀代の半地下式の倉庫などと考えられる方形竪穴状遺構や掘立て柱建物跡が発見されたことから、戦国時代にはこうした施設を伴う曲輪の一つであったと考えられます。東曲輪からは、小田原合戦の時に豊臣秀吉が本陣を据えた石垣山城を望むことができます。さらに、東には天守閣を中心に周囲に広がる小田原城下を望むことができるなど、戦国時代や江戸時代の小田原城の歴史を知るうえで大変貴重な場所といえます。

石垣山城東登口
石垣山城東登口

 天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原合戦の際に延べ4万人を動員し築いた関東で初の本格的な総石垣の城です。石垣山城は一夜のうちに造られたという言い伝えから一夜城とも呼ばれています。実際には4月~6月までの約80日間かけて造られたといわれており、城が完成すると秀吉は周囲の樹木を一斉に伐採させ、一夜にして城が完成したように見せかけ、北条方からは一夜にして山の上に城が出来上がっているように見え恐れたのではないかと考えられています。また、この城は小田原攻めの本営であるだけでなく、秀吉の威信を示すとともに長期戦に備えた城とも考えられています。城郭は東西(長さ)およそ550m、南北(幅)275m、最高地点に本丸と天守台が設けられています。その他二の丸、井戸曲輪など曲輪群が配されています。

南曲輪石垣
南曲輪石垣

 石垣山城の石垣は加工を施さず大きさの異なる自然石を積み上げた野面(のずら)積みと呼ばれる技法が用いられており、穴太(あのう)衆と呼ばれた近江(滋賀県)の石工集団を呼び寄せて積ませたものと考えられています。大正12年の関東大震災により石垣が崩落しているが、南曲輪や井戸曲輪では比較的良好な状態で残っています。

井戸曲輪
井戸曲輪

 もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られました。井戸は二の丸から25mも下がったところにあり、今でも湧き出る水を見ることができます。この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めています。

本丸物見台
本丸物見台

 小田原城まで3㎞の所に位置し、標高257mの本丸から小田原城下を見下ろすことができます。天守閣は左に見え、足柄平野、大磯丘陵、丹沢連峰さらには相模湾から三浦、房総半島に至るまでを一望できる場所です。

天守台
天守台

 標高は261.9mあり、天守台の石垣はほとんど崩れ落ちていますが、東西に長軸をもつ長方形の平地であったと考えられています。崩落した石垣の間にはおびただしい数の瓦が出土していることから、天守には瓦が拭かれていたと考えられています。天守の構造などは明らかではありませんが、愛知県の犬山城や福井県の丸岡城の天守に近いものであったと想像されています。

銘文のある石
銘文のある石

 南曲輪にある「此石可き左右 加藤肥後守」と刻まれた石。これは、標識石で江戸普請に参加した助役大名が石場を確保したことを示すために設置されたものと思われます。

北条氏の本城であった小田原城は、堀と土塁で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、「土の城」でした。かたや秀吉が本陣を据えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭であり「石の城」でした。小田原合戦は、日本の歴史が中世から近世へへと動く、歴史の転換点となった出来事だといえます。さらに、小田原合戦後、参陣した武将は国元に戻ります。そして、自国を整備し、城郭の普請を行いました。普請された城郭の中には駿府城(静岡市)や御土居(京都市)、岡山城(岡山市)など、総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考にされたものも多いと言われています。