12月14日(木)川崎・加瀬山/夢見ケ崎逍遥(終了しました)

 〝夢見ヶ崎” いつの頃からか人々は「加瀬の台地」を、そう呼ぶようになりましたが、この地域一帯には縄文・弥生期より続く人々の長い暮らしの歴史があります。4~7世紀にかけては多くの古墳が造られ、特に4世紀後半に築かれた白山古墳は、多摩川流域最大級の前方後円墳で、三角縁神獣鏡が出土しています。時を経て、この古墳の山麓からは、12世紀後半作とされる「国宝・秋草文壺」が発見されました。これらのことからも、この地が古代より生産力豊かな地域で、中央の政権に繋がる有力者がいたことを想定させます。室町後期、京都で応仁の乱が起こり、関東の地でも戦乱が頻発し始めた頃は、太田道灌の活躍の舞台となりました。江戸期も元禄の世になり、武士の忠義、忠節の心が徐々に薄くなり始めたころ、ここから至近の平間村が「大石東下り」縁の地となりました。現在の街の姿からは想像し難いですが、この台地を中心とした地域には、このような豊かな歴史空間が広がっています。幾重にも折り重なる歴史の彩りを存分にお楽しみください。

寿福寺
寿福寺

寿福寺 山号は無量山。浄土宗。武蔵国世田谷の祖師谷で創建され、室町後期(1500年代中頃)に領主の吉良頼康が居城を拡大したとき、寺地が城郭内に入るため、当地に移転したと伝えられます。境内に力石(重さ90㎏以上の大亀石)があり、また明治6(1873)年の小学校開設までは寺子屋として教育の場ともなっていました。秋草文壺に入っていた火葬骨は当寺に供養されました。

白山古墳(現存せず。昭和12年に慶応大学が発掘調査)

 墳上に白山信仰の祠があり白山古墳と呼称。4世紀後半頃に造られた関東地方最古の前方後円墳の一つ。全長87m(前方部の幅37m、高さ5m、後円部の直径は42m、高さ10m)。墳形は箸墓古墳などに近似しているといわれます。三角縁神獣鏡と多数の副葬品(銅鏡や鉄製の刀など)が出土。三角縁神獣鏡の「同范鏡(どうはんきょう)」が京都椿井大塚山古墳などから出土しており、ヤマト(大和)政権との繋がりが考えられています。幸区地誌には「被葬者は、国造クラスの有力な豪族であったとみられる」と記されています。

第六天古墳(現存せず。昭和12年に慶応大学が発掘調査)

 墳上に第六天の祠があったことからの呼称。位置は白山古墳の西20m。6世紀後半ころに造られた円墳(直径約19m、高さ約4m)です。横穴式石室から11体の男性の人骨と、副葬品の玉類(勾玉や小玉)や金銅製の鈴や首環、刀剣類などが出土しました。埋葬状態から、多くの死者がでるような政治的な抗争があったのではと考えられています。

秋草文壺(あきくさもんつぼ)出土地

 昭和28年国宝に指定(新国宝の陶磁器部門指定第一号)。昭和17年、宅地造成中に白山古墳後円部の下側から出土した骨壺です。高さ40.5cm、口径17.6cm、底径14.2cm。平安時代末期(12世紀後半頃)、愛知県の渥美窯(あつみよう)で造られたと考えられています。この壺の特徴は、口から胴部にかけて刻みこまれた秋の風物で、ススキ、瓜、柳などの秋草やトンボなどの文様が、伸びやかに描かれています。

土門拳は、「日本のやきものの中から、ただ一点だけを選ぶとなれば、ぼくは秋草文の壺を選ぶ。雄渾にして繊細、重厚にして華麗、日本のやきもののありとあらゆる魅力を担っている」(古窯遍歴)と記しています。しかし、この素晴らしい壺の被葬者は誰なのか、口辺部の「上」は何を意味するのかは不明です。慶応大学蔵で、現在は東京国立博物館に寄託されています。

夢見ヶ崎古墳群

ほぼ東西方向に1~9号墳が分布し、特徴はいずれも横穴式石室を持っていることです。

1号:消滅。位置が定かでない。

2号:慰霊塔の裏。辛くもその跡あり。径約15m。

3号:7世紀前半。24mの中腹にある横穴式石室をもつ円墳。玄室と前室、全長約4.5m、幅は

  約2.6m、高さは最奥部で1.85m。既に盗掘されていて副葬品はほとんど発見できず。確認

  されたものは、成人男子の人骨片、鉄釘と布の切れ端など。

4号:了源寺境内、5世紀前半。径約22mの円墳。2面の獣身鏡(六獣鏡)、2個の鉄斧が出土。

5号:消滅。位置が定かでない。

6号:浅間神社(1804年建立)が鎮座。浅間塚、また経塚とも。径約24m、高さ約4m。12世

  紀後半以降。常滑焼壺(鎌倉期)、湖州鏡(宋時代)、和鏡(草花飛雀鏡、平安後期)が

  出土。

7号:天照皇大神の社殿。多少削られてはいるが、円墳の形。径約30m。

8号:方墳。辛くもその跡あり。1辺が約24m。5世紀後半か。近くに弥生時代の住居跡あり。

9号:円墳。上に八幡宮の祠。横穴式石室の一部が確認されている。7世紀ころか。径約23m。

3号墳
3号墳
4号墳
4号墳
6号墳
6号墳

7号墳
7号墳
9号墳
9号墳

了源寺 山号は頂龍山(ちょうりゅうざん)。日蓮宗。寛永年間(1624~44年)に創建され、山門は寛保元(1741)年、本堂は宝暦年間(1751~64年)に建築されました。境内には5世紀前半の円墳があり、獣身鏡や鉄斧が出土しています。赤穂浪士に隠れ家を提供した軽部五兵衛の墓があります。

 

軽部家墓所
軽部家墓所

南加瀬貝塚跡 紀元前、加瀬山は周辺が海水で覆われ小島だったようです。台地上からは、縄文・弥生時代の土器片などが出土し、南東に位置するこの辺りからは、二つの時代の特色を持った貝塚が確認されました。しかし、十分な調査が行われないうちに、開発によって貝塚は消滅し、現在は遺跡としては殆ど存在していません。

稱名寺(しょうみょうじ)

平間山歓喜院。浄土真宗。応永元(1394)年創建。赤穂浪士ゆかりの寺。義士関係資料として紙本著色四十七士像、大石内蔵助愛用のおかめの面と書、富森助右衛門の銚子と盃、浪士の書簡などを所蔵。昭和20年4月の川崎大空襲寺、遺品は近隣の農家の土蔵に預けてあったため被災を免れました。境内には赤穂藩に縁のある儒学・兵学者の山鹿素行の歌碑などがあり、又かつての山門には左甚五郎作の竜の彫刻があったと伝えます。

大石内蔵助(良雄)の東下りのルート

元禄15(1702)年10月7日に京都発→22日に鎌倉着。25日鎌倉発→神奈川宿(川崎宿説も)に1泊→26日に平間着→11月5日平間発、日本橋石町の小山屋に着。大石は平間村に滞在中、「垣見(かきみ或いはかけい)五郎平(兵)衛」と変名し10日間滞在、討ち入り「十ケ条の訓令」を起草しています。

軽部五兵衛

浅野家江戸屋敷へ出入りの農民(下平間村の年寄。秣を納め下肥を汲む)。富森助右衛門と昵懇の間柄で松の廊下事件後、敷地内に家を建て支援。この家が討ち入り前の浪士の情報交換の場となっていました。

伝・太田道灌築城構想(室町時代の武将。 永享4(1432)年~文明18(1846)年)

「かもめいる いさごの里に きてみれば はるかに通う おきつ浦風」。この歌は歌人としても名高かった道灌が、加瀬山からの美しい眺めを詠んだとして、書物などに時おり引用されている歌です。室町中期、道灌は25歳の時に江戸城を築きました。さらに、この地域の拠点として、独立した加瀬山に築城を考えたと言われます。しかし、ここに宿営した晩、一羽の白い鷲が自分の兜をさらってゆく夢を見て、不吉と感じて断念しました。それ以来、この地を誰言うとなく”夢見ヶ崎”と呼ぶようになったと、「新編武蔵風土記稿」は伝えます。文明12(1480)年の「太田道灌状」によれば、道灌は文明10(1478)年2月6日小机城近くに進軍し、4月10日に攻略しました。この史書には加瀬山の名は出てきませんが、彼がこの近くで「当国静謐(武蔵国の平和)」の為に戦をしていたことは確かなようです。その後も道灌は、足利公方家、両(山内・扇谷)上杉家、長尾氏等の対立抗争が複雑化・激化していく中で、主家の扇谷上杉家を中心とした「静謐」を目指し戦っていましたが、皮肉にも謀反の流言を信じた主の上杉定正に謀殺されました。享年55歳。なお、鷲が兜を落とした所は、ここから南西の横浜市鶴見区駒岡の丘とされています。また、冒頭の歌の「いさご(砂子)」は現在の川崎市中心部です。

新鶴見操車場

面積約24万坪(約79ha、長さ6㎞弱、最大幅308m)。京浜地帯の産業の発達に伴う物資輸送量の増大に対処するため、大正14年に計画、昭和4年に完成。昭和40年代がピークで、その後工場の移転が進むなど貨物量は大幅に減少し昭和59年に廃止されました。現在は、K2キャンパス(2000年に開設された川崎市と慶応大の共同施設)を中心に、最先端技術の拠点として再開発中です。

新鶴見操車場
新鶴見操車場
K2キャンパス
K2キャンパス