9月14日(木)・19日(火)横浜市街地に残る国指定・重要文化財建造物を巡る(終了しました)

  昨年、山下公園に係留されている氷川丸が船舶としては初めて国指定重要文化財建造物に指定されました。そしてこの秋、みなとみらいの帆船日本丸が重文指定を受けました。これにより横浜市街地に残る重要文化財建造物は全部で7件になりました(三渓園に移築された古建築群は除く)。

 重要文化財とは、日本に所在する建築物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等の有形文化財のうち、文化財保護法に基づき日本国政府が指定した文化財を指します。

外交官の家(旧内田家住宅)

 平成9年(1997)に横浜市が寄贈を受け、同年国指定重要文化財に指定されました。ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを勤めた明治政府の外交官、内田定槌(さだつち)の邸宅として明治43年(1910)に東京渋谷南平台に建てられました。JMガーディナーが設計しました。建物は木造2階建てで塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、板張りの外壁で華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響が色濃く残っています。部屋の家具や装飾はアールヌーボー風の意匠とともに、19世紀イギリスで展開された美術工芸の改革運動アーツ・アンド・クラフツの影響も見られます。

日本郵船氷川丸

 海上で保存されている船舶としては初の重要文化財として、平成28年に登録されました。陸に設置した船舶は建造物として登録されますが、海上に保存されている船舶は美術工芸品・歴史資料として登録されました。氷川丸は昭和5年に横浜船渠で進水。全長163mで高さは7階建てビルに相当します。貨客船として建造され20世紀前半から後半にかけて米国との主力航路のシアトル航路に就航し、約1万人の客、生糸や絹製品、茶や陶磁器を運びました。戦時中には病院船、終戦直後は復員船・引き揚げ船として運行されました。建造当時としては最新鋭のデンマーク製の大型ディーゼル機関を搭載し、船体には英国製の資材を使用するなど最新の技術を集めた船舶でした。内装はフランス人デザイナー、マルク・シモンが手がけたアール・デコ様式であり、同様式が日本に直輸入された最初の建築意匠でした。総トン数は11,622tで最高速力は時速約34㎞。

横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)

 横浜開港50周年を記念し、市民から寄付を募って建設された日本初の公会堂建築です。大正6年(1917)に竣工し、重要文化財にはドームが再建された平成元年に指定されました。この会館は、大正期の建物として意匠が優れ、また煉瓦造の建物に構造補強を施した早い例であり、復旧した内部も建物に調和していて価値が高いことが評価されました。設計原案並びに基本構造設計は東京市技師だった福田重義が行い、建築当初の様式は辰野式フリークラシック様式とよばれました。赤煉瓦に白い花崗岩を縞模様に入れ建物の隅部に高塔(時計塔)や角ドーム、八角ドームを配するほか尖塔や屋根窓を各所に設けて意匠をこらしています。関東大震災で屋根と内部を焼失しましたが、復旧にあたって鉄筋コンクリートで構造補強を施し、内部の意匠も新しくされました。ポーハタン号来航を表したステンドグラスや和田英作画伯による「開港前の横浜村」「大正期の横浜港」の絵画が有名です。

神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行)

 横浜正金銀行本店本館として明治37年(1904)に竣工し、重要文化財には昭和44年に指定されました。明治30年代の代表的洋風建築で、外観はよく保存されており優れた意匠をもっていることが評価されました。建物は煉瓦及び石造りで地下一階、地上三階建で、正面中央に八角形の塔屋付きです。塔屋は関東大震災で被災しましたが、現在はドームを復元し一部増築をして神奈川県立歴史博物館となっています。旧館はネオバロック様式で妻木頼黄(つまきよりなか)が設計し、遠藤於菟(えんどうおと)が建設にあたりました。歴代頭取に原六郎、相馬永胤、高橋是清などがいます。若き日の永井荷風も勤務していました。(県立歴史博物館は現在改修工事中で、2018年4月再開予定)

横浜船渠会社

 横浜船渠はかつて横浜市にあった造船所です。昭和10年に三菱重工業と合併し、三菱重工業横浜船渠となりました。その後、三菱重工業横浜造船所に名称変更。昭和58年に造船所が本牧地区へ移転し、跡地は横浜みなとみらい21として再開発されました。ドライドック2基は敷地内に残され国の重要文化財に指定されています。

 ここで建造された主な艦船は、氷川丸・日枝丸・秩父丸(鎌倉丸)・第一青函丸・軽巡洋艦:那珂・練習巡洋艦:香取、鹿島・砲艦:安宅などがあります。

旧横浜船渠一号ドック(現日本丸メモリアルパーク)

 安政6年(1859)の横浜開港後、貿易の拡大と入出港船舶の増加に伴い、本格的な港湾施設の建設が必要となっており、港に必要な施設の一つとして船の修繕用ドックの建設が計画されました。 イギリス人技師H.S.パーマーの計画に基づき海軍技師恒川柳作が設計・監督、明治31年(1898)12月に竣工しました。建設当初の長さは約168mでしたが、横浜港に入港する船舶の大型化に伴い、大正7年(1918)にドックの渠頭部を内陸方向に延長し長さ約204mとなりました。幅は約39m、深さは約11m。ドック建設には神奈川県真鶴産の小松石(安山岩)を使用しました。

 横浜船渠は、身近な伊勢山、掃部山から眼下に見下ろせる立地にあり、永く「ハマのドック」として市民に親しまれてきました。横浜ゆかりの小説家長谷川伸は、少年時代に第2号ドック建設現場で働き、その様子を「ある市井の徒」や「新コ半代記」に描写しています。また、吉川英治は船具工として1号ドック内で働き、「かんかん虫は唄う」などに作品化しています。

帆船日本丸(初代)

 日本丸は昭和5年に神戸の川崎造船所(現、川崎重工業(株))で建造された練習帆船です。商船学校の船員養成用の練習船として建造されました。昭和59年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離(約183万㎞)を航海し、11,500名もの実習生を育てました。昭和59年に2代日本丸竣工に伴い練習船用途を廃止、昭和60年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存し一般公開しました。船の生活を体験する海洋教室や全ての帆をひろげる総帆展帆などを行い、帆船のすばらしさ楽しさを伝えています。全長97.05m、幅12.95m、総トン数2,278.25トン、速力 機走8.0ノット、帆走13.0ノット(最大)

横浜船渠二号ドック(現ドックヤードガーデン)

 民間が築造した石造りドックとして最古となるドックです(横須賀は外国人による軍用ドック)。明治29年(1896)工期約2年で竣工しました。以来80年間で数千隻の船舶を修理しました。平成元年からみなとみらい地区の開発に伴い「保全活用調査」が行われました。ブラフ積みと呼ばれる石積みを一旦解体した後、ほぼ元の場所に復元しました。当初はH.S.パーマーの計画でしたが、呉、佐世保などで実績のある海軍技師恒川柳作が引き継ぎました。石材として安山岩である真鶴産小松石を使用。硬いが加工しやすいという特徴があります。

 資料によると、石積み前の基礎工事に苦心したそうです。湧水と地盤との闘いで1人につき一日7~8個が設置可能な石材の量でしたが、重機がないにもかかわらず、12,000個もの石材を使用し約9か月で完成させました。

二号ドックから発見された銅製の銘版です。明治29年(1896)3月29日の起工式で設置されたと推定されています。渠頭部先端のコンクリート内から、鉛でくるまれた木箱に納められた形で発見されました。建造に関わった川田龍吉・恒川柳作・牛島辰五郎など9名の名が刻印されています。現在ランドマークタワー3階に展示されています。