10月23日(火)・ 10月25日(木)横浜北東部の歴史を訪ねるー大倉山から師岡、そして獅子ヶ谷へ。(終了しました)

 横浜市北東部はかつて武蔵国橘樹郡と呼ばれていた。7世紀の後半、律令制の下で国・郡・里制が敷かれ、武蔵国(現神奈川県内)には都筑郡、久良岐郡、橘樹郡の三郡が置かれた。橘樹郡は現在の横浜市北東部から川崎市を包含する一帯で、この地域は古鶴見湾内に位置し、鶴見川と多摩川に挟まれた低湿地であった。高台には縄文貝塚や古代人の住居跡などの遺跡が多く発見されている。域内を流れる鶴見川は大きく蛇行し、また源流域から海岸線までの高低差も小さく、大雨などによる氾濫が人々の生活を困難なものとしていた。一方、旱魃も多く、雨乞いなどの儀礼・風習、そして数々の伝説が残る。

 大倉山駅

東急線は1922(大正11)創立の目黒蒲田電鉄を始まりとする。翌年11月には目蒲線(目黒~蒲田)が全線開通となる。

 

また武蔵電気鉄道の後身である旧東京横浜電鉄が1926年(大正152月に神奈川~丸子多摩川を開通させ、翌19278月には渋谷~丸子多摩川間を開通、渋谷~神奈川間の直通運転を始める。これが東横線と呼ばれた。

大倉山駅は1926年に「太尾駅」として開設されたが、1932年に大倉精神文化研究所が創設されたことにより地域一帯が大倉山と呼ばれたことから、駅名も「大倉山駅」と改称された。

ちなみに「太尾」の由来であるが、かつて海岸線がこの辺りまで来ており、大倉山が岬のように海へ突き出ていた。その岬が動物の太い尾のようにみえたことから名付けられたという。また駅前商店街の「エルム」は、ギリシャ語で商業の神様のことである。大倉山記念館がギリシャ建築であることから、街並みと商店街の名前に取り入れた。ギリシャ・アテネにあるエルム通りと姉妹提携を結んでいる。

大倉山記念館
大倉山記念館

横浜市大倉山記念館

 1928年(昭和3年)、実業家の大倉邦彦(明治15年~昭和46年)が旧東京横浜電鉄の五島慶太から7,500坪の土地を購入。

1932年(昭和7)大倉精神文化研究所の本館として、心の修養や研究、教育を目的として建設した。ギリシャ神殿風の外観や神社建築の木組みを用いたホールなどが特徴。プレへレニック建築(ギリシャ以前の建築様式。プレヘレニズム)と呼ばれ、長野宇平治の設計になる。長野は日本の古典主義建築の設計者で、辰野金吾の弟子。日本銀行本店本館(重文)や京都支店(重文)・小樽支店など格調高い銀行建築を多く手掛けている。長野が設計した大倉山記念館の特徴は、上部が太く下部が細くなる裾細りの円柱であるが、これはクレタ・ミケーネの建築様式と言われる。

大倉邦彦は1906年上海の東亜同文書院を卒業後、大倉洋紙店に入社、大倉家の婿養子となり社長に就任する。日本の教育界、思想界の乱れを憂え、大倉山に大倉精神文化研究所を設立。各分野の研究者を集めて学術研究を進め、精神文化に関する内外の図書を収集し附属図書館も開設した。太平洋戦争末期には本館に海軍気象部が置かれたが、気象情報は高い機密性が求められ、研究所員との交流はなかったといわれる。戦中戦後の混乱期に何度も存亡の危機を迎えるが私財をなげうって研究所の維持に尽力した。後に東洋大学の学長となる。1981年(昭和56)に研究所本館を横浜市へ寄贈。1991年(平成3)に横浜市有形文化財に指定された。

龍松院 文殊堂
龍松院 文殊堂

龍松院(虎石山龍松院、曹洞宗)

 開創:大順宗用和尚、開基:小机城二代目城主 笠原能登守康勝、開山:小机雲松院明山宗鑑大和尚、本尊釈迦如来

当院は笠原能登守龍松院殿外視禅眼庵主(天文年間15321555 没不詳)が霊夢により文殊堂を建立。其の後六代を経て雲松院九世明山宗鑑大和尚(萬治4年示寂(1661))を請じて開山とした。寛政8年出火炎上、天保2年十六世元明祖享和尚再建したが老朽化したので昭和54年廿五世禅鼎憲雄和尚改築現在に至る(説明板)

大順宗用和尚が開山の文殊堂には湛慶作と伝わる文殊菩薩像と、能登守康勝の念持仏である不動尊像が合祀されている。文殊菩薩像は北条早雲より拝領したもので、長さ1寸8分(約5cm)の獅子に乗った像で、毎年425日にご開帳される。境内の文殊堂脇には笠原氏を祀った五輪塔が2基建っている。

笠原氏は小田原北条氏の家臣で、笠原越前守信為が小机城の城代として近在の武士団小机衆を組織していた。太尾村周辺もその支配下にあり、大倉山北側の山すそに笠原氏一族が砦を築き住んでいた。小机駅前にある笠原信為建立の雲松院の末寺にあたる。

大倉山公園梅林
大倉山公園梅林

 大倉山公園梅林

旧東京横浜電鉄が龍松院から土地3haを購入し1931年(昭和6)梅林として公開。戦後は東横線沿線の観光地として賑わった。観梅の時期には臨時急行「観梅号」が運行され大倉山駅に停車した。その後昭和58年から61年にかけて横浜市が取得し施設を再整備のうえ、1989年(平成元)に大倉山公園の一部として開園。現在32種約200本の紅・白梅が植樹されている。(横浜市環境創造局)

 

 

師岡熊野神社
師岡熊野神社

師岡熊野神社

 御祭神:伊邪那いざなみのみこと事解之男ことさかのおのみこと速玉之男はやたまのおのみこと

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 由緒:関東における熊野信仰の拠点。聖武天皇神亀元年(724)に全寿仙人によって開かれた小祠をもとに、仁和元年(885)光孝天皇の勅願によって堂社が建立された。勅使六条中納言藤原有房卿がこの地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜り、それ以来宇多・醍醐・朱雀・村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられた。横浜北部の総鎮守である。(横浜市指定文化財。)

 

筒粥
筒粥

 【筒粥神事】 例年1月14日に執り行われる筒粥神事は天暦3年(949)より1,069回にもなる我が国稀な古神事である。横浜市の無形民俗文化財に指定されている。鶴見川の河川敷から取った27本の葭と粥を用いてその年の農作物の吉凶を占う神事。農作物23種(米、麦、きび、芋など)のほかに農作物の出来を左右する日・雨・風のほか世の中までを占う。

八咫やたがらす】 日本書紀・古事記の「神武東征」に描かれる。これは神武天皇が日向(宮崎)から橿原(奈良)へ都を移し大和朝廷を開く物語で、八咫烏は神武天皇を熊野から大和へ案内したとされる霊鳥である。熊野大神(素戔嗚尊)に仕え、三本足は天・地・人を表すとも、熊野の三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)を表すともいわれる。咫(あた)は親指と中指をひろげた長さで約18cm、八咫は約144㎝、大きいという意味で使用されている。日本サッカー協会(大日本蹴球協会・1921年創立)のシンボルマークとして1931年から使われているが、これは天武天皇が熊野に通って蹴鞠をよくしたことから、ボールをゴールに導くようにとの願いが込められている

師岡貝塚跡
師岡貝塚跡

【師岡貝塚】

縄文海進による縄文時代前期の貝塚。昭和55年から神奈川県立博物館により学術調査が行われ、東西20m、南北15mの規模であることが分かっている。鶴見川中流域右岸の舌状台地に位置する。貝塚からは二枚貝が多く(特にハイガイが多く)発見されている。他に土器片も発見されている。(横浜市指定文化財。)

 

神奈川県には貝塚が多く発見されており、大小合わせて292ヶ所もの貝塚があると言われている。神奈川県貝塚地名表(神奈川県立歴史博物館編)によると、川崎市に29ヶ所、横浜市港北区40ヶ所、鶴見区41ヶ所、神奈川区に26ヶ所と旧橘樹郡に半数近くが集中している。

いの池
いの池

【「い」の池】 池の中央に水神社がまつられており、例年8月に水神祭が執り行われる。古くから利用されてきた灌漑用のため池で、熊野神社の南側には早くから水田が開けていた。「片目の鯉」の伝説が伝わる。社殿の裏には「の」の池(写真下右)があり、筒粥神事にはこの池の水が使われる。神社の西方500mの所に「ち」の池(写真下左)があり、今は大曽根第二公園となっている。三つのため池を「いのちの池」とよび、重要視していたことが分かる。

 

法華寺
法華寺

法華寺 (熊野山全寿院法華寺、天台宗)

縁起によると724年(神亀元)、全寿という老僧がこの地にあった梛木の虚に居住し法華経を読誦していたところ、夢の中に熊野権現の天啓を受け、阿弥陀像を大和春日明神より持ち帰り、小祠を造り安置したことに始まる。この後仁和元年、光孝天皇の御后妃御願成就(病気平癒)によって草創されたといわれる。法華寺は全寿上人によって開創されたことから長く全寿院と号していた。南北朝時代には17坊があり、その中の別当院が現在の法華寺である。熊野権現・法華寺が一体の信仰であったが慶応4(1868)年の神仏判然令により熊野権現と法華寺が分離された。境内には聖徳太子を祀る太子堂、天保の飢饉で餓死した子供を供養する天保の六地蔵、江戸時代後期の浄土宗の僧・徳本上人の六字名号碑、師岡南谷のため池畔にあった念仏講の舟形地蔵尊、樹齢400500年といわれる銀杏がある。

 

 

杉山神社
杉山神社

杉山神社

 ・御祭神 日本武尊

杉山神社は鶴見川水系を中心に、帷子川、大岡川、多摩川右岸域の限られた地域にしか確認されない極めて限定的な神社である。古く「続日本後記」(承和5838)に「都筑杉山神社が官社となる」とあり、延喜式神名帳(927)にも式内社として登載されている。しかし新編武蔵国風土記稿には「鶴見川水系を中心に72社が分布する」と記されており、式内社に比定される本社はどの杉山神社か、いまだ定説はない。全国に「杉」の名がつく神社は「須岐」「須伎」「諸杉」「杉原」神社などが散見できるが、これは古代より様々な用途のある杉が群生する山や、神の依代(よりしろ)となる聖なる杉が叢生する山のことと推察されている。不明な点が多い杉山神社であるが、この地域が鶴見川、早渕川、恩田川などの鶴見川水系の舟運によって発展し、住民たちは水害の防止や豊作祈願を目的として祀ってきたものと思われる。樽町の杉山神社は師岡熊野神社の持ち。

 

横溝屋敷
横溝屋敷

横溝屋敷

江戸時代の横浜市域には200以上の村があり、獅子ヶ谷村はその一つである。獅子ヶ谷の地名は、熊野権現の獅子舞を受け持ったことに由来すると伝わる。上獅子ヶ谷村と下獅子ヶ谷村があり、横溝家は上獅子ヶ谷村の名主であった。昭和63年に横浜市が17代目横溝家当主から5棟の建物の寄贈を受け、横浜市の指定文化財1号になる。表門(長屋門)、主屋などの屋敷構えが江戸時代の名主屋敷の様子をよく残している。獅子ヶ谷村の西から北にかけては師岡村と接しており武蔵国風土記稿には「古は師岡郷と云いしと伝う」とあり、文禄3年(1594)の徳川氏検地を契機として分村したものと思われる。(横浜市歴博、「横溝家資料集」)

主家は1階部分が居住用、2階は養蚕を行う蚕室として利用されていた。中門からは代官などが直接奥座敷に入ることができる。蚕小屋は置屋根両妻かぶと造りとい、養蚕の盛んだった地域に残る珍しい建築様式である。屋敷前の水田は鶴見区に残る唯一の水田で、現在教育田として利用されている。

上獅子ヶ谷村は幕末まで旗本小田切氏の所領で、横溝五郎兵衛が代々名主を務めてきた。家数24軒、人口146人、村高198533合(安政2年、1855)となっている。

横溝家の裏山は、かつて小田切氏の居城である獅子ヶ谷城(別名、御薗城)があったと伝わる。小田切氏は元武田信玄の家臣で、武田氏滅亡後に家康の家臣となり、慶長121607)年に江戸城下に移る際に屋敷地の一部を初代横溝五郎兵衛に譲ったという。