11月12日・15日幕末動乱から明治維新へ ~高輪から品川を歩く~(終了しました)

江戸の街や江戸城を戦火から守ったといわれる西郷隆盛と勝海舟会見の地からフランス公使館であった済海寺やイギリス公使館であった東禅寺、慶応義塾大学、赤穂浪士ゆかりの泉岳寺などを訪ねます。攘夷運動が高まる中で、東禅寺は2度も襲撃を受けています。その時の柱に残る刀傷を見ることができます。2度目の東禅寺襲撃事件の3ヶ月後には生麦事件が起きています。翌年には井土ヶ谷事件が、その翌年には鎌倉事件がありました。最初の東禅寺襲撃事件の半年前には、アメリカ公使館通訳ヒュースケン殺害事件がありました。このような幕末の動乱から明治維新へ、時代の大きなうねりを実感できます。

西郷隆盛・勝海舟会見の地

 

 3月15日の江戸城総攻撃を目前にした慶応4年(1868)314日に、幕府の陸軍総裁勝海舟と、東征軍参謀西郷隆盛(南洲)が、この地にあった薩摩藩下屋敷(蔵屋敷)にて会見をして、江戸城無血開城と徳川慶喜の水戸での謹慎が決められた。前日の13日にも薩摩藩下屋敷(品川駅前)で会見が行われている。

 

 

本芝公園

 JRの線路際の公園は雑魚場(ざこば)とよばれた魚市場であった。江戸湾でとれた小魚を水揚げしていた。シバエビというのは、その名残りである。落語「芝浜」はここが舞台である。

 

水野監物屋敷跡

 岡崎藩水野監物(忠之)屋敷跡で、赤穂浪士の間十次郎や神崎与五郎ら9名を預かり、元禄16(1703)24日にこの屋敷で切腹した。赤穂浪士46人は、伊予松山藩松平家、熊本藩細川家、長門長府藩毛利家と水野家に預けられた。水野家は細川家と共に赤穂浪士の扱いが丁寧であったといわれ、「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守貞直)ぞ濁れる」と落書にうたわれた。水野監物(忠之)8代将軍徳川吉宗のときに老中を務め、吉宗の享保の改革を支えた。

慶応義塾大学

 福沢諭吉が安政5(1858)築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に、藩命により蘭学塾を開いた。慶応4(1868)に芝新銭座(しんぜにざ)の江川太郎左衛門屋敷に移り、慶応義塾と名付けた。明治4(1871)に現在地である島原藩松平家中屋敷跡を譲り受け移転した。構内西南にある演説館(国重文)は明治8(1875)に建てられた。木造瓦葺き、海鼠(なまこ)壁の洋風会堂建築である。内部は吹抜けで、三方に階上傍聴席がある。「speech」を「演説」と訳したのは福沢だといわれる。構内北東には旧図書館(国重文)がある。創立50周年を記念して、明治45(1912)に造られた。設計は、辰野金吾や片山東熊とともにジョサイア・コンドルの教え子である曾禰達蔵とその弟子である中條精一郎である。赤レンガと花崗岩によるゴシック建築である。ステンドグラスには、ラテン語で「ペンは剣よりも強し」と描かれている。旧図書館の前に福沢諭吉像があったが、旧図書館が改修工事中なので、演説館前に移設されている。慶応大学の隣にはイタリア大使館があるが、伊予松山藩松平家中屋敷があったところで、赤穂浪士の大石主税(ちから)や堀部安兵衛ら10人が切腹したところである。イタリア大使館の前には三井グループの迎賓館である三井倶楽部があり、ジョサイア・コンドル設計のバロック様式の建物が残っている。

 

済海寺

 元和7(1621)に越後長岡藩牧野駿河守忠成が開いた浄土宗の寺院。牧野家のほかに伊予松山藩松平家の菩提寺でもあった。安政6(1859)にフランス公使館が済海寺に置かれた。明治3(1870)に引き払うまで、初代公使ド・ベルクールらが駐在した。文久3(1863)に着任したロッシュは、活発な対日外交を展開し、イギリスが薩摩・長州などの討幕勢力を支援したのに対し、フランスは幕府側を支援した。万延元年(1860)9月に済海寺の門前で、公使館員ナタールが二人の武士に斬りつけられるという事件があった。『更級日記(さらしなにっき)』に登場する皇女と武蔵国の衛士の恋物語伝説の竹芝寺の跡地ともいわれる。寺の前の坂道は中世からの道で、聖坂(ひじりさか)といわれ、高野山の僧(高野聖)が開いた道といわれる。

 

亀塚公園

 上野国沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となった。昭和27年(1952)に港区立亀塚公園となった。華頂宮邸であった頃の外塀が残っている。亀塚は古くから古墳といわれており、昭和4546年に港区教育委員会と慶応大学で発掘調査を行ったが、古墳と断定できるものは発見されなかった。亀塚頂上には、寛延3(1750)に沼田藩主土岐頼煕(ときよりおき)が建てた石碑がある。頼煕は詩歌に秀でた大名といわれ、この地が『更級日記』の竹芝寺伝説の地であることや、塚の頂上の酒壷に出入りする亀が石になったという伝説などを伝えるためにこの碑を建立したといわれる。亀塚公園の先の右側に下る坂は幽霊坂と呼ばれている。坂の両側には、江戸城拡張により移転してきた寺院が建ち並び、昼でもうす暗く幽霊が出そうなので幽霊坂といわれたという。坂の下にある長松寺(ちょうしょうじ)には儒学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい)の墓がある。徂徠は5代将軍徳川綱吉に、赤穂浪士を切腹にするべきと進言した。

 

旧高松宮邸

 熊本藩細川家の下屋敷であった。この地で赤穂浪士の大石内蔵助良雄(よしたか)や吉田忠左衛門など17名が切腹をした。細川家では赤穂浪士に対して丁寧な対応したといわれる。明治以降は高輪皇族邸となり、昭和天皇の皇太子時代は東宮御所であった。高松宮邸となったが、高松宮家廃絶後は使われていなかった。来年4月、今の天皇が退位後は、ここを仮住まいとする。皇居改修後に、新天皇が皇居に移り、東宮御所を改修して仙洞御所となり、今の天皇が旧高松宮邸から仙洞御所に移る。

 

歯科医学発祥の地

 高山紀齋(たかやまきさい)は嘉永3(1851)、備前岡山藩の家老の家臣の家に生まれた。慶応義塾を経てアメリカに渡り、歯科医学を学んだ。明治23(1890)、日本で最初の歯科医学校である高山歯科医学院を設立した。野口英世もこの学院の教壇に立っている。その後、血脇守之助に学院の経営を譲り昭和21(1946)に東京歯科大学となった。

高輪大木戸跡

 江戸市中には町ごとに木戸が設けられ、自身番を置いて防犯にあたっていたが、高輪の木戸は東海道の玄関口として大木戸と呼ばれた。天和2(1682)に札の辻から高札場が移され、宝永7(1710)に大木戸が設けられたといわれるが、寛政4(1792)に築かれたという説もある。道幅約6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜間は通行止めとして治安の維持にあたった。現在は片側の石垣だけが残されている。旅人の送迎もここで行われ、品川宿に入るまでの街道沿いには茶店が並んでいた。江戸時代後期には、増大する交通量に対応するため、木戸は廃止された。

泉岳寺

 慶長17年(1612)に今川義元の孫である門庵宗関により、外桜田に開かれた曹洞宗寺院。寛永18(1641)に大火により焼失し、徳川家光が毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の各大名に命じて、現在地に移った。これにより浅野家の菩提寺となった。赤穂浪士(泉岳寺では赤穂義士といっている)は、元禄16(1703)24日の切腹後に、泉岳寺に埋葬された。赤穂浪士の墓は48基あるが、このうち、討入り後に別行動をした寺坂吉右衛門、遺族が遺体を引き取った間新六、討入り前に周囲に反対され自害した萱野三平の3基は正式な墓ではなく、供養碑である。寺坂以外は、戒名の最初の字が「刃」となっている。墓の入口の門は、築地鉄砲洲の浅野家上屋敷の門を移築したもの。

 

東禅寺

 家康と秀忠の禅学の師であった嶺南禅師が、慶長15(1610)に赤坂溜池に開いたのが始まりといわれる。

寛永13(1636)に現在地に移った。元の地には嶺南とは字は違うが、霊南坂の地名が残っている。臨済宗の大寺院らしく、岡山藩池田家、宇和島藩伊達家、信州高島藩諏訪家など多くの大名家が菩提寺としているが、墓地は公開されていない。安政6(1859)にイギリス公使館が置かれ、慶応元年(1865)まで7年間使われた。その間の文久元年(1861)5月に、尊王攘夷派の水戸浪士による襲撃事件が、翌年5月には松本藩士による襲撃事件が起きている。この時の公使オールコックは著書『大君の都』で襲撃事件のことを書いている。現場にいた特派員のチャールズ・ワーグマンが襲撃事件を絵に書いている。玄関の柱には、その時の刀傷やピストルの弾の痕が残っている。公使館員が宿舎としていた奥書院やその前の庭園が、非公開ではあるが当時のまま残されている。

品川駅創業記念碑

 明治5(1872)57(新暦612)に品川・横浜間に日本で最初の鉄道が仮営業した。新橋・品川間の工事が遅れていたために仮営業となった。そのため品川駅ではこの日を創業の日としている。新橋・横浜間が正式に開通したのは、仮営業から4か月後の明治5912(新暦1014)でした。このため1014日は「鉄道の日」となっている。この記念碑は鉄道開通80周年を記念して昭和28(1953)に建てられたもので、表面は当時の衆議院議長であった大野伴睦の書で、裏面は仮営業当時の時刻表と運賃が記載されている。新橋・品川間の工事が遅れたのは、西郷隆盛や大久保利通が鉄道建設に反対したため、薩摩藩の屋敷の部分の工事ができなかったためともいわれる。