11月29日(木)・ 12月4日(火)鎌倉街道「下の道」①     川崎/丸子・中原(終了しました)

 

鎌倉街道は鎌倉時代、幕府の御家人らが鎌倉へ向かう道として発展した中世古道の総称です。諸説ある道筋の中でも、「上の道」「中の道」「下の道」が良く知られていますが、年を経て多くは消滅するなど、その姿を変えており、現在は古道のみを連続して歩くのはかなり難しくなっています。しかし、先人たちの研究成果もあり、それらを繋ぎ合わせながら、古い鎌倉街道のルートを辿ることも可能となってきました。さて、今回の「下の道」は3ルートのうち一番東側、海よりのルートになります。神奈川県内の「下の道」も、細かい道筋については諸説ありますが、先ずは古代の官道だと考えられる中原街道を歩きます。現在、この道沿いには、近世以降の史跡が僅かに残るのみですが、文明181486)年の紀行文「廻国雑記」には丸子の渡しと推定される「まりこ」が記されています。また、徳川家康が初めて江戸入りした時にこの道を利用するなど、江戸初期には「中原往還」ともいわれ、西から江戸へ入るための重要なルートでした。これから複数回に分け、ゴールの鶴岡八幡宮を目指しますが、古の人々にとって「いざ鎌倉‼」とは如何なるものだったのか?共に考えながら歩を進めましょう。

 

多摩川浅間神社
多摩川浅間神社

 1.多摩川浅間神社

 

由緒では、文治年間(11851190)北条政子が源頼朝の出陣に際し、夫の武運長久を祈るため多摩川の畔まで来た時、身につけていた「正観世音像」をこの丘にたて創建したと伝えます。古墳上に建つ本殿は東京都内唯一の浅間造。境内には、勝海舟筆の食行身禄(じきぎょうみろく)の石碑があります。

 

 

丸子の渡し跡
丸子の渡し跡

 2.丸子の渡し跡

 

丸子の渡しは、古くは「まりこのわたし」ともいい、上丸子と対岸の沼部とを結ぶ、中世以来の渡し場と推定されています。吾妻鏡には「丸子荘」の記述があり、「廻国雑記」では「東路のまりこの里に行きかかり、足も休めず急ぐ暮れかな」と詠まれています。渡しは、丸子橋が開通(昭和9年完成、翌年5月供用開始)するまで利用されていました。

 

 

原家欅門
原家欅門

 3.原家欅門

 

原家は江戸時代から続く旧家で、肥料や衣料などの商いを手広く行っていました。また、石橋を方々にかけたといわれ「石橋本家」という屋号で呼ばれています。現在、日本民家園に移築されている主屋(母屋)は、明治431910)年着工、大正21913)年に竣工した寺社建築を思わせる豪壮な2階建て住宅です。原氏は、中原の在地土豪で、その祖は足利持氏に仕えていたようです。現在、原姓は小杉を中心に多数おられ、新編武蔵風土記稿には「原氏の分地といえるものあまたあり、この村に27軒」と記されています。

 

安藤家長屋門
安藤家長屋門

 4.安藤(名主)家長屋門        

 

安藤家は小田原北条氏に仕えたといわれる旧家です。北条氏滅亡後に土着帰農し、このあたりの割元名主をつとめました。長屋門は江戸時代に、江戸市中の代官屋敷より移築されたものです。門の内側には、幕末から明治にかけての高札が3枚掲げられていますが、当初は西明寺前の高札場に立てられたものといわれます。

 

 

小杉陣屋跡
小杉陣屋跡

 5.小杉陣屋跡

 

二ヶ領用水(稲毛領・川崎領)を完成させた代官小泉次大夫の陣屋がありました。徳川家康が当初から力を入れたのが、街道の整備と米の増産でした。次大夫はこの辺り一帯が、多摩川の流域にありながら水利が不便なため、水田開発が遅れている現状をみて、家康に用水工事による新田開発の必要性を進言、工事を任されました。慶長21597)年に工事を開始し、14年の歳月をかけ完成させました。家康は小杉御殿ができるまでは、鷹狩りの時の休憩や宿泊にこの陣屋を利用していたようです。

 

 

小杉御殿主殿跡
小杉御殿主殿跡

 6.小杉御殿跡

 

小杉御殿は徳川家康、秀忠ら将軍が鷹狩りなどの際や、参勤交代時の大名などが利用した宿舎です。慶長131608)年に仮御殿を建設し、寛永171640)年に正式に御殿となりました。約12,000坪の敷地に、表御門、御主殿、御殿番屋敷などが建ち並んでいました。「徳川実記」には、「大御所(家康)中原(平塚)より稲毛を過ぎたまひ、小杉に宿らせ給ふ」と記されています。やがて東海道が整備されると、御殿の存在意義は薄れ、万治31660)年までに建物はすべて移築されました。

 

 

西明寺
西明寺

 7.西明寺

 

山号は龍宿山金剛院。真言宗智山派。創建は弘法大師の高弟泰範上人、中興の祖が北条時頼と言われます。当初は、現在の宮前区有馬に建立され、鎌倉幕府滅亡後に没落、のちに遺臣によって此処に再興されたと伝えられます。境内の広さは約5,000坪あり、時頼にまつわる弁財天が、出世弁天として祀られています。江戸時代には、隣地に小杉御殿が建立され、慶長181613)年12月、家康は鷹狩のあと当寺で休息をしています。寛永191642)年には10石の朱印地を与えられました。なお、当寺には川崎七福神の一つ、大黒天が祀られています。参道付近はかつて、高札場など公共的な施設が集まる中心地でした。

 

 

カギの道
カギの道

 8.カギの道

 

城下町でよく見られる直角に折れる道です。見通しを妨げ、攻めにくくする防衛上の工夫です。小杉御殿の守りを固めるため、背後の多摩川、近くの西明寺と合わせて造られたものです。明治、大正になると荷物の運搬には大変不便になり、長い材木を積んだ荷車は、一度では曲がれず何度も切り返しをしたそうです。

 

つけぎ屋の供養塔
つけぎ屋の供養塔

 9.つけぎ屋の供養塔

 

弘化51848)年造。台座に「東江戸 西中原」、左側面に「武州橘樹郡稲毛領小杉駅」と彫られています。中原街道の両端が江戸と中原であること、小杉が寛文131673)年に指定された宿駅であること、を記しています。「附木屋」は、薄い板の先に硫黄を塗った「付け木」を売っていた店で、20代続く旧家です。

 

泉澤寺
泉澤寺

 10.泉澤寺(せんたくじ)

 

 山号は宝林山。浄土宗。吉良頼高の菩提寺として、世田谷の烏山に創建されましたが焼失したため、天文191550)年、吉良頼康が現在地に再建しました。この時代の吉良氏は、小田原北条氏の有力家臣として、その勢力は世田谷から川崎中部、横浜蒔田一帯に及んでいました。頼康はこの寺の門前を中心に、地域の住民の税や労役を免除し居住を促進、楽市を開いて繁栄を図りました。この市は、近隣にも広く周知されて賑わい、寺運も興隆したといわれます。世田谷にも少し遅れて同様の市ができ、かつては「夏の泉澤寺お施餓鬼、冬の世田谷ボロ市」として、並び称されていました。現在、当地のお施餓鬼は規模も小さくなり、大いに賑わうボロ市に比べ少し寂しいようです。なお、江戸時代には20石の朱印地を与えられています。