2月12日(火)・2月14日(木)震災で消えた幻の街「横浜外国人居留地」~山下居留地編~(終了しました)

  1859年の横浜開港以来、明治32年まで40年続いた外国人居留地は、幕末明治の日本に文明開化をもたらすとともに、異国情緒あふれる独特の街づくりがされ、その後の横浜の都市発展の基礎をつくりました。残念ながら関東大震災によって、その大部分は灰燼に帰しましたが、現在でもわずかに当時の遺構や建造物が残されている場所があります。また、写真や銅版画などから往時の姿を豊かに読みとることができます。それらをもとにしながら、関内山下居留地にあった主な公共施設や商館跡などを巡ります。

横浜天主堂跡
横浜天主堂跡

  1 横浜天主堂跡>

 

 80番横浜天主堂(現カトリック山手教会)開港後最初のカトリック聖堂、1862(文久元)献堂式、パリ外国宣教会が建堂。1906(明治39)年山手に移転。

ゲーテ座跡
ゲーテ座跡

 

2 ゲーテ座跡>

 

 68番ゲーテ座1870(明治3)年居留民のための劇場兼集会所としてオランダ人ヘフトが建設。ヘフトは船長出身の貿易商でビール醸造所の設立や居留地の消防事業に貢献。明治14年山手に移転。「ゲーテ」は"gaiety"(「陽気・快活」の意)の訛りで人名とは無関係。

ヘボン邸跡
ヘボン邸跡

  3 ヘボン邸跡>

 

 寺院風の建物が旧谷戸橋際に1862年に建てた自宅。39番ヘボン米国人1859(安政6)年最初のプロテスタント宣教師として米国長老教会より派遣される。夫人とともに神奈川宿成仏寺に住む。1863年横浜に移転、施療所を開く。夫人はヘボン塾を開く。1867年最初の和英辞書「和英語林集成」を出版。1889-1891明治学院総理を務める。1892年完成の横浜指路教会の建設にも尽くす。夫人のヘボン塾で1870年に米国人ギダー夫人が英語を教える。1871年女子部を分離し女学校を開設、これがフェリス女学院の基礎。

グランドホテル
グランドホテル

  4 グランドホテル跡>

 

 1870(明治3)年長崎や横浜でホテル経営の実績のあるグリーン夫人が開業、関東大震災で倒壊するまで横浜を代表するホテルだった。お雇い外国人など長期滞在者も多くいた。所有者は何度か変わるが写真家ベアトも出資者の一人だった。1889(明治22)年フランス人建築家サルダの設計により新館を増築、客室数は100を越えた。現在のニューグランドホテルは1927(昭和2)年の建築だがグランドホテルとの継承関係はない。

 

旧英国七番館
旧英国七番館

  5 旧英国七番館>

 

 7番バターフィールドアンドスワイアー英国七番館、1922(大正11)年関東大震災前の唯一現存する外国商館。1868年横浜支店開設、生糸茶の輸出、砂糖の輸入。

 

旧英一番館跡
旧英一番館跡

 <6 ジャーディンマセソン商会跡>

 

 1832年にマカオで、スコットランド人のW.ジャーディンとJ.マセソンが設立した英国貿易商社で、茶や生糸の買い付けやアヘンの密貿易などに従事し大きな利益を得た。1859(安政6)年横浜にも支店を出し(日本で活動した外国資本の最初)、幕末の日本でも活動した。1863年、長州藩が井上聞多、伊藤博文らをロンドンに留学させたときはそれを支援した。坂本龍馬も支援を受けている。長州藩など討幕派に協力する一方、幕府に対してアームストロング砲などの武器を提供し利益を上げた。19世紀から現代に至るイギリス商人の代表的な存在であり、大英帝国の典型的な「尖兵」的商社だった。1860(万延元)年に完成した商館はイギリス波止場にいちばん近く「英一番館」と呼ばれた。

 

横浜海岸協会
横浜海岸協会

 <7 日本基督公会跡>

 

 186111月には、米国改革派教会のJ.H.バラ夫妻が神奈川に渡来。彼等はまず横浜で英語私塾を開き、同時にキリスト教の開拓的伝道のための準備を始め、1868年には現在の横浜海岸教会の所在地(居留地167番)に、バラの依頼によって横浜在住の外国人のための礼拝所・日本人のための英語教場として、石造りの小会堂が建設された。J.H.バラは小会堂を利用して20数名の学生を教えた。小会堂はたいへん狭かったので、設立当初の日本基督公会の礼拝は、午前は居留地68番のゲーテ座、午後は居留地39番のヘボン診療所の礼拝堂を借りて行われた。バラらの尽力により3年後の1875年に400名以上の収容が可能な大会堂が献堂され、同時に「日本基督横浜海岸教会」と改称された。現会堂は1933年の献堂。

 

神奈川県庁
神奈川県庁

 <8 初代神奈川県庁、旧税関>

 

 1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀に上陸したことがきっかけに長崎、函館、新潟、兵庫、神奈川を開港することになり、1859年(安政6年)、横浜開港に際して徳川幕府が戸部村に「神奈川奉行所」(戸部役所)を、現在の県本庁舎の位置である本町に運上所をそれぞれ設置した。1866年(慶応2年)にいわゆる「豚屋火事」で全焼、その翌年運上所が再建されて、これが横浜役所となった。1868年(明治元年)921日に神奈川府が神奈川県になり、神奈川県史ではこの日が神奈川県のはじまりとされていて、同時に横浜役所が初代神奈川県庁となった。この初代県庁舎は1882年(明治15)の火事で焼けたため、横浜町会所(現在の横浜市開港記念会館)を仮庁舎として、移転計画中だった横浜税関の庁舎を譲り受けて第2代目の県庁舎にした。しかし、2代目県庁舎も1907年(明治40)ごろには老朽化した上、手狭になったため第3代目の県庁舎を1910年(明治43)から建設し、1913年(大正2)に完成した。その後、1923年(大正129月の関東大震災で被害を受け、第3代目県庁舎も焼失した。これを再建するにあたって設計コンペ「神奈川県庁舎建築設計図案懸賞募集」が1926年(大正15)に行われ、一等に当選したのが当時28歳の東京市電気局技手、小尾嘉郎の案だった。コンペの審査委員長で東京市建築局長の佐野利器が顧問となり、その指導の下、小尾の案から神奈川県内務部が実施設計を行った。この第4代目県庁舎が今も現役の県庁本庁舎。大阪府庁本館に次いで2番目に古いもの。

 

旧三井物産ビル
旧三井物産ビル

 9 旧三井物産ビル>

 

 1911年(明治44)竣工(正面左手)、1927年(昭和2)に増築(正面右手)。設計は日本人初の独立設計事務所を山下町に構えたといわれる遠藤於莵による。同ビルは遠藤のモダニズム時代の総決算といえる建物であり、日本で最初の全鉄筋コンクリート造の事務所ビルである。関東大震災で横浜の建物群が壊滅的な打撃を受けた際にも、当建物は倒壊を免れ、鉄筋コンクリート造の地震に対する有効性を印象付けた。

 

居留地消防隊地下水槽跡
居留地消防隊地下水槽跡

 <10 居留地消防隊地下水槽跡>

 

 居留地238番に横浜ファイア・フリゲートを設置し居留地の消防業務を行った。1871年(明治4)から1899(明治32)年まで居留地消防隊がこの地にあった。建造年は推定1893(明治26)年。1972年(昭和47)まで中消防署がここにあった。居留地消防隊の本拠地だったこの地には、後の1914年(大正3)に日本初の消防車が、1933年(昭和8年)に日本初の救急車が配備され、「消防救急発祥の地」でもある。

 

 

横浜ホテル跡
横浜ホテル跡

 <11 横浜ホテル跡>

  

 貿易港としての横浜の地位が確立しつつあった時期の1860(万延元)年、待望の最初のホテル「横浜ホテル」が開業した。場所は現在の山下町70番地、創業者はオランダ船ナッソウ号の元船長フフナーゲル、ここにはバーとビリヤードが用意されていたが、これらも公衆用としては日本最初である。他に泊まるところがなかったので、英公使オールコックを始め、シーボルト父子、亡命中のロシアの革命家バクーニン、画家のハイネやワーグマン、「シルク・ロード」の命名者とされる地質学者リヒトホーフェンら、錚々たる人物が宿泊した。1866(慶応2)年末の大火で焼失し再建されなかった。

 

 

居留地90番の大砲
居留地90番の大砲

 

<12 居留地90番の大砲>

 

 開港広場に展示されている大砲と同じものだが解説板内容は他二点と大きく異なるので注意。1959(昭和34)年、スイスの商社・シーベル・ブレンワルト商会跡地で建物の基礎工事中に三門が見つかり掘り出されたもの。この大砲は鋳鉄製の11ポンドカノン砲でオランダ東印度会社のエンクハイゼン商館所属船の備砲。使わなくなった大砲を錨に作り変え、横浜に出入りする船に売買するために持っていたものが、大正12年の関東大震災時に地中に埋まってしまったと考えらえれている。2003(平成15)年に横浜市に寄贈され、開港広場脇に移された。県立歴史博物館前にも保存されている。

シーベル・ブレンワルト商会跡
シーベル・ブレンワルト商会跡

 <13 シーベル・ブレンワルト商会>

 

  スイス系貿易商社。ブレンワルトとシーベルが1866年横浜に設立。明治期は生糸の輸出と機械や時計輸入を中心とした商社。ガス事業にも携わる。生糸輸出で活躍した社員に、イギリス入J.ウォルター、経営者にドイツ系スイス入アペッグ、エリスマン等がいた。1893年シーベル、ブレンワルト商会⇒1899年シーベル、ウォルフ商会⇒1906年シーベル、ヘグナー商会となる。現在もDKSHジャパン社として東京に本社を構える。

 

デローロ商会側壁
デローロ商会側壁

 <14 デローロ商会側壁>

 

 イタリア系蚕種・生糸輸出商社。イシドーロ・デローロがミラノで創業した。1868年横浜に支店を構え、主として蚕種を扱った。デローロは生糸の専門家だが屑糸(品質が悪く生糸にできない糸)の輸出も多く、バブイェル、エマールと共に屑物三館と呼ばれた。

 

 

山下居留地遺跡
山下居留地遺跡

 

15 山下居留地遺跡>

 

 山下居留地遺跡は、当初の外国人居留地の中心部にあたり、開港当初から外国商館が建設された。この地域は1923(大正12)の関東大震災により甚大な被害を受け、居留地のほとんどの建物が倒壊した。遺跡の発掘調査では関東大震災の瓦礫直下から煉瓦や切石による商館の基礎遺構などが姿を現している。調査区に該当する代表的な商館は、48番地(英国系貿易商社モリソン商会)54番地(独国系総合商社イリス商会)55番地(英国系貿易商社コッキング商会)の大部分と53番地及び街路の駿河町通りの一部が該当する。54番イリス商会=クニフラは1859年開港日に米国に遅れ二番目に入港したオランダのシラー号で来航。福沢諭吉に蘭英会話書を売ったといわれる。※24番コッキング商会=社屋はハッカ屋敷と呼ばれていた。他に平沼新田に石鹸工場を建てた。1885(明治18)年江ノ島に植物園を完成させる。現地に遺構が残る。夫人は日本人。

 

旧露亜銀行
旧露亜銀行

 <16 旧露亜銀行>

 

 1921年(大正10)に露亜銀行横浜支店として建設され、1923年の関東大震災や1945年の横浜大空襲も耐え抜いた。横浜で唯一現存する外国資本の銀行建築の遺構。建設されたのは煉瓦造りから鉄筋コンクリート構造へと移り変わる過渡期であり両構造が混在する。バロック様式の建物をコンクリート造で建設した初期のものと考えられ、横浜で最後に建設されたバロック建築。他の銀行建築に比べ、個々の装飾が大きい点が特徴。平成23(2011)に結婚式場「la banque du LoA」として再生された。