3月18日(月)・3月26日(火)花桃の丘と早渕川の源流域を歩く(終了しました)

 

青葉区元石川町の丘陵地、坊が岳台に花桃の畑が広がっています。宅地開発の進む中、農地を残したいという地元農家の方々の18年間にわたる努力で、良好な農地になり、今では桃源郷です。 江戸時代の石川村は、徳川二代将軍秀忠室、お江の化粧料でした。その後、芝、増上寺の御霊屋領となりました。お江の位牌がある満願寺、平川神社、保木薬師堂など、早渕川源流域にある史跡をゆっくり巡ります。

 

 

武蔵の国都筑郡石川村

 

《石川村 古は小机庄なり。江戸日本橋へは七里の行程。山多くすべて土地平かならず土性は真土へな土交われり。御入國の後崇源院殿のお化粧料、寛永九年、増上寺の御霊屋領となれり。用水は谷々より出る清水合して一條の流れとなり小川をなせり…荏田村にいる。》

「新編武蔵国風土記稿」(文政11(1828))

金剛山満願寺 真言宗豊山派 本尊不動明王座像 

  創建年月不詳だが、歴史は古く中世にさかのぼる由緒ある寺。本堂は寛政8(1796)明治44年など数度の建替えをし、

平成24(2012)に改築した。山門は寛政2(1790)建立現在の山門は平成15年に新築された。本尊不動明王坐像の中にはもう1体の不動明王像(15㎝位)が安置されている。

満願寺には徳川2代将軍秀忠と江、6代将軍家宣、7将軍家継、9代将軍家重の位牌がある。どのような経緯で満願寺にあるのかははっきりしていないが、伝承では増上寺の裏鬼門(南西方向)にあり、守護の役割を与えられていたと言う。昨年8月に江姫の木彫彩色坐像が完成、静かに見守っている。毎年11月には、江姫の遺徳を偲び「牛蒡」の法要がおこなわれている。

 

 

 荏子田横穴古墳 (かんかん穴) 古墳時代後期から奈良時代にかけての有力者の家族墓。死者を納め安置した玄室が家形に掘られている。昭和3年に学会に報告され、昭和31年発掘調査が行われた大小2基の遺跡。大きい1号横穴の玄室は切妻式家屋型を呈し、天井部と壁面には家屋内部を表した柱、垂木、梁などが浮き彫りで表現され7世紀前半に造られた。当時の有力者の居宅を表したものと思われる。1号横穴より新しく小さい2号横穴は、平面形は団扇形、上部は半円形で天井部の区画はない。

平川、保木の語源

いつの頃か、石川村と荏田村が水争いをした。荏田は石川との境に堤防(築地の土手)を築き、石川を水攻めにした。その時、早渕川が氾濫し、この辺りは一面平な川となった。そこで平らな川〝平川〟といわれるようになった。この時、保木では〝木に帆を上げた〟船を出したという事で、帆木、ほうぎ、〝保木〟となった。他にも、舟を作った人がいて、舟で荷物を運んだので〝船頭〟。牛を集めて避難させたので〝牛込〟と呼ばれる地区がある。

 

 平川神社

 平川はむかし早渕川の左右に水田が開け、60戸あまりの静かな田園地帯だった。神社の創建年代は不詳、祭神は大山昨神、猿田彦命「この地は野猿が多く、田畑を荒らすので、作物を守るため、捉え殺した。しかし猿は神の使いなので、祟り神罰を恐れ社を作り、猿を祀ったとのこと。」明治5年の神仏分離令以前は「山王様」とよばれていた。社殿は王禅寺の琴平神社に模して造られたと言われている。透かし彫りの彫刻が見事。正面には二つの竜、左右には獅子。拝殿の上部外側の欄間には、大小合わせて十九枚の板に、松、鳥、花、獅子、竜。拝殿の袖の部分には、左右一対の鷲が彫ってある。元石川周辺の同格の神社と比べて、ずばぬけてりっぱである。

☆古い幟箱が平成4年に発見され、裏側には、古い墨書。「寛政11己未年(1799)九月吉日

山王大権現御幟入 石川村平川谷氏子中」とある。この頃建てられたのか?

☆地神塔 二基  〇安政六年(1859) 建立15〇明治二十七年 建立30

 地神講は春秋の彼岸に道普請とセットで行われていた。土地の神様に五穀豊穣を祈願した。

安藤製糸場 平川神社から坂を下った、元石川小学校のすぐ下あたりに、明治20年頃 「安藤製糸場」が建設された。当時、平川の農家ではほとんどの家が養蚕をしていた。横浜開港にともなう生糸ブームが生まれ、創業者安藤五郎左ェ門氏は、大地主で農業のかたわら養蚕を大々的に行っていた。繭仲買人などから勧められ、地区に初めての〝きかいば〟と呼ばれる製糸工場を作り、最盛期には150人近い女工さんが働いていた。約2000坪の敷地に、乾燥室、貯蔵室、工場、蚕室、土蔵、母屋などがあった。明治末期が最盛期で、世の中の動きが変わったり、いろいろな事情がかさなり、大正23年に操業を止めた。

  平川の大灯篭 (薩摩灯篭)   高さ約350

「江戸時代、石川村から江戸の薩摩屋敷に奉公に行っていた娘さんが、明治維新で宿下がりの時にもらい受けてきたものである。」と伝えられている。大正13年頃発行の山内村名所絵はがきに「山内名所薩摩灯篭(明治維新記念)」として紹介されている。もともとは塚を築き、その上に建てられていたが、関東大震災により倒壊したため、現在のようにアスファルトで下が固められた。地元の方の話では、灯篭の下に埋まっている部分があり、そこに寄進者(八名程度)の名前が彫られていたという。この場所が平川神社参道の出発地点である為、地元の人たちが寄進したとも言われている。参道はバス停辺りからほぼ真っ直ぐ社殿まで伸びていたそうだ。

 

 筆子塚 昔からの細い道,尾作谷戸を入って行くと塚がある。筆子塚は、寺子屋の子弟(筆子)たちが先生の遺徳を偲んで建てた塚の事。石川村名主の黒沼源左ェ門が江戸の浪人だった太左衛門を

村の子弟の為に寺子屋師匠として招いた。岩崎家の養子となり安政6(1859)から明治5(1872)にかけて寺子屋を開いた。大変に温厚な人で、家に泥棒が入った時、諭して餅を持たせて返した。俳句もたしなみ、号を「里柏」と称した。塚は明治5年に建てられ、台石には石川村を中心に、川崎市域の王禅寺などからも来ていた筆子107名の氏名が記されている。

 釈迦堂跡 

竹林の中に享保17(1732)~明治43(1910)まで178年間、釈迦堂があったという。階段途中に、庚申塔、光明真言塔、地蔵尊像がある。奥に僧侶の墓がある。

 

 

渡来銭  昭和47年平川地区で水道管埋設工事が行われ、機械で掘っていた時、古銭が飛び散り出土した。古銭は121枚あった。その後平成18年に調査をすると、近所のお宅で621枚あり、全て渡来銭で(主に中国、朝鮮などから流通、輸入などで日本に入ってきた)その他に持って行ったと思われる枚数を合わせると,全部で数千枚あったようです。誰が何のために蓄え埋めたのかはわからない。

 

 

 大山祇神社石碑 

山の神は春に山から下って田の神となり豊穣をもたらす農耕の神である。祭神は大山祇命など。正月にはお供餅をあげてお参りしたそうだ。「明治廿六年五月祭 氏子中 セハ人他 」 20人の名前が記されている。

 

 

花桃の丘 (坊ヶ岳台)昭和42214日から保木の下から尾作谷戸へかけての北急傾斜地が土地改良区になった。以来昭和60913日までの18年間に渡って (かつては、畑、雑木林、水田、高低差の大きい工作不便な土地であったが、)野菜、植木、切り花などの、良好な農地へと整備が行われた。「農地を少しは残したい」とする、保木、平川の人たちの、農業に対する愛着の賜物である。竣工記念に「共生の和 甦る大地の碑」が建てられた。

保木周辺の数か所から集まった水が源流となり、青葉区、つづき都筑区、港北区を流れ、港北区綱島西付近で、鶴見川と合流する。一級河川、長さ13.7km。この辺りでは、川は暗渠になっている。だが、すぐ近くにある斜面の数か所からは、湧き出た水がしずくとなって、流れ落ちているのが見える。

 滝の沢公園と利迦羅不動

滝の沢谷戸には早渕川の一つの水源地があった。滝があり水源地の上に不動尊が祀ってあり、多くの人が水をもらいに来たそうだ。今は川も滝もなく、石を組んだ公園となっている。

☆この不動尊は、利迦羅不動と言われるもの 現在は個人のお宅に祀られている。「利伽羅龍が盤石上に立つ利剣に四足をからめて巻き付き、竜王が剣先をまさに飲み込もうとしている。その背後には、火焔が燃え上がっている。」

像高58㎝巾29㎝  次のような銘文が刻されている。 右側 寛政十戌牛年九月吉日 一家中  正面 導師満願寺

左側 武都筑郡 願主 伊右エ門 石川邑保木谷

☆不動明王の祠もあり、不動明王の御神体は石であるが、利迦羅不動のあった池の中にあったそうだ。

 

 美しが丘西地区センター このあたりを蓬谷戸、その奥を小谷と言う、この谷上には塚があり廿三夜塔があった。(旧暦の廿三夜の月待講、遅く出る下弦の月を待ち集う。現在は保木薬師堂境内) 元石川では一番高い地で(塚の標高は94.5)、眺望が良かったそうだ。

美しが丘西郵便局のスタンプは保木薬師坐像と平川大灯篭になっている。

 

 

 保木薬師堂 (ほうぎやくしどう)

真言宗金剛山満願寺(境外仏堂) 管理保木薬師堂信徒会

 宝永5(1708) 12月 堂を建立、本尊を収めた。天明3(1783) 棟札に「奉立替建立」「大工清沢村弥七」

 昭和61(1986)土地区画整理事業に伴い、移転改築し藁葺きを銅葺きに変え、内外を整備。堂は古来部落の集会所として活用されていた。

薬師如来坐像  承久3(1221)鎌倉時代開眼 作者 仏師僧尊栄

 『像高は85.5㎝、膝張は72.2㎝。納衣を着け、右手を胸前に挙げ掌を前方に向け、左手を膝上に置き右足を結跏趺坐する。檜材を使った寄木造りで、当初は玉眼が嵌入されていたが、現在欠失している。像表面は現状、錆地布張り漆塗りになる。頭部内に書かれていた銘文により仏師僧尊栄が、承久3年に像立した事が判る。

また、寛文10(1670)の修理銘が記されている。均整の良い姿、引き締まった面相等から関東彫刻における鎌

倉新様式の享受を示す好例の一つと言える。(境内の石板より)

 昭和58年に神奈川県指定重要文化財となる。 現在、神奈川県立博物館に寄託されており、毎年912日の縁日に里帰りし翌日博物館に帰られていたが、平成30年から、縁日に一番近い土曜日の午前中に里帰りし、午後、護摩法要をし、その日のうちに博物館へお帰りになる事になった。里帰りは、布に覆われ、木枠で運ばれ、お堂の中で布を解き、博物館館長、学芸員による解説の後、厨子に納められる。その後、満願寺住職により護摩法要が行われる。

 

 保木薬師堂境内の石造物

 木食観正光明真言供養塔 文政九丙戌 (1826) 保木谷中ほか

 光明真言百万遍二世安楽所 元禄四辛未(1691) 道行四十六人

 青面金剛 天明二年壬寅(1782) 武列都築郡石川村 保木谷中 導師満願寺

 青面金剛 延宝五年(1677) 武列都築郡小机之内

 青面金剛 寛延二年(1749) 導師満願寺 願主満蔵院

 地蔵菩薩 寛政九丁未(1797) 保木谷念仏講中

 廿三夜供養塔 天保十二辛丑(1841) 講中 導師 万願寺 

 馬頭観世音菩薩 昭和十一年

 

 

 十社宮  保木の鎮守で、十人の神様が祀られています。創立寛延2(1749)

神  (くに)(とこ)(たち)(のみこと) 国狭(くにさ)(づちの)(みこと) (とよ)(くむ)()(のみこと) 泥土(うひぢ)()(のみこと) 沙土(さひぢ)(にの)(みこと)

 

大戸(おおとの)(ぢの)(みこと) 大戸邊(おおとのべ)(のみこと) (ほん)多和気(だわけの)(みこと) 大日(おおひる)(めの)(みこと) 天兒(あめのこ)屋根(やねの)(みこと)

 

昭和56年不慮の火災にあい、再建は平成元年。旧社殿は保木大工八木沢金蔵が建てた。平成2年 区画整理により薬師台公園から移転した。

 ☆手洗石 宝暦3(1753) 造立 飯島甚右衛門 奉納御