9月25日(火)・  9月27日(木)開港以前の道「保土ヶ谷道」をたどる~保土ヶ谷宿から戸部村へ~(終了しました)

 7月実施「横浜道」に続き、江戸時代から明治にかけて保土ヶ谷宿と戸部村を結んだ「保土ヶ谷道」を歩きます。「横浜道」が安政 6(1859)年開港直前に幕府により急きょ造成されたのに対し、「保土ヶ谷道」は東海道の枝道としてそれ以前からあった生活道路であり、宿場の夫役(助郷)や外国商館・港湾などで働く人々に利用されたといいます。開港を契機に、開港場・関内地区と東海道筋との結びつきがより強まったと考えられます。旧東海道保土ヶ谷宿、現在の天王町大門通り交差点付近で分かれ、JR東海道線跨線橋を渡り、久保町商店街・藤棚商店街・伊勢町商店街を通り、戸部1丁目交差点付近で横浜道につながっていました。沿道には、願成寺(がんじょうじ)・杉山神社・戸部刑場、牢屋敷跡・くらやみ坂・伝御所五郎丸墓・久成寺(くじょうじ)慰霊塔などの史跡が残ります。

帷子橋跡(天王町駅前)
帷子橋跡(天王町駅前)

旧帷子橋跡と帷子河岸

 東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり歌や俳句に詠まれるなど保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていた。初代広重の「東海道五十三次之内保土ヶ谷」は特に有名。「大橋」「新町橋」とも呼ばれ、「新編武蔵国風土記稿」には「帷子川に架す板橋にて高欄付きなり。長さ十五間、幅三間、御普請所なり」とある。昭和 39年に川の流れが天王町駅の北側に付けかえられたが、それ以前は天王町駅前公園付近を流れていた。1707 年の宝永噴火以前まではこの付近が帷子川の河口にあたり、薪炭などの物資運搬のための河岸があったことが保土ヶ谷宿本陣軽部家文書などからわかる。噴火による火山灰により河口が埋没し、次第に芝生村(現在の浅間町付近)方面に河岸が移った。

西久保杉山神社
西久保杉山神社

西久保杉山神社

 江戸時代は、この神社下付近まで入海が広がっていたという。西区久保町や保土ヶ谷区

岩間町の鎮守。祭神は五十猛命。素戔嗚尊の第一王子で、わが国に杉やその他の樹木の植

え付けを開始した林業の祖神とされている。新編武蔵国風土記稿に「古社なればこの社も

また延喜式内都筑杉山神社を勧進せしなるべし」とある。なお、杉山神社は市内鶴見川流

域に多くみられる神社である。

甘酒地蔵
甘酒地蔵

天満宮・甘酒地蔵

 大正6(1917)年、神奈川から移ってこの方、近くに花街もあったためか久保町天満宮は磯子の岡村天神と並び称されるほどの賑わいをみせていたという。祭神は学問の神様とされる菅原道真公。ここの天神様は穏やかで、特に御酒を献ずると目許が赤らむと伝えられる。久保町には虫歯、お産、無尽の時などに祈れば必ずご利益がある地蔵があり、願望成就のお礼に甘酒を供えたという。これが甘酒地蔵となったが、現在ある地蔵が当時のものだという確証はない。このうちの1体は「首なし地蔵」という説もある。古老の話によると、地蔵は首が折れていて祈れば賭け事にご利益があったという。

塩田横枕道路修理記念碑
塩田横枕道路修理記念碑

塩田(しおでん)横枕道路修理記念碑

 現在の浜松町付近は松林の広がる海岸で塩田(えんでん)があった。これを大正9年までに埋め立てた。しかし、ハス田が広がる湿地帯となり道路の状態も悪かった。そこで、大正12年大震災の直前に住民たちが費用を拠出し合いじゃりを敷いて改修した。その記念碑である。なお、「横枕」は藤棚に元々あった字名。開墾地の地割をするとき地形上、幹線と平行して割れない部分をいう。「塩田(しおでん)」の地名も元々この付近にあった塩田(えんでん)に由来する。

横浜水道道案内板
横浜水道道案内板

横浜水道みち

 明治 20 年(1887)、イギリス人技師 H.S.パーマーの設計によりろ過した水に圧力をかけ、鉄管を通して送水する方式の近代水道が、国内で初めて横浜に造られた。水道みちは県央の道志川から水道管を埋設した道のことで、当時は人の通行だけが許されていた。現在も西谷浄水場から野毛山配水地に送られる水はこの道の下を通っている。埋設管の口径は1200mm で、流速は約 1.5 m/秒(時速 5.4km)。藤棚から野毛山配水地へ向かい、坂を上がって流れていることになる。これは西谷浄水場の方が標高が 20mほど高いためで、標高差と逆サイホンの原理を利用して送水している。

藤棚商店街
藤棚商店街

藤棚商店街

 明治の初め頃から、水道みちと保土ヶ谷道の分岐点付近(現在の横浜銀行藤棚支店付近)に藤棚酒饅頭で有名な鈴木屋という茶店があった。この店の軒一面に純白の花房をたれる藤の木があった。この近辺では、当時市電の停留所、交番、郵便局等の題字に藤棚の文字を冠していた。そこで、いつしかこの「藤棚」が地名となり、昭和3年には「横枕」を改めて正式な町名となった。この藤棚は戦災で消失してしまったが、昭和52年4月に地元の手で復元された。

願成寺と幕末の外国人殺傷事件

 願成寺は、戦国時代末、天文期(1532 ~ 54)に建立されたと言われる古い寺。明治時代に今の場所に移されるまでは、くらやみ坂下にあった。境内墓地には、スポーツ市長といわれた平沼亮三(15・16 代横浜市長)や新田開発にかかわった平沼家、幕末の鎌倉事件(鎌倉で英国士官 2 人が殺害された事件)で処刑された清水清治と間宮一、港崎町の遊郭でフランス水兵を殺

害した亀吉(小亀)の墓がある。山門下には願成寺に古くからあったもの、藤棚交差点あたりにあった北向地蔵、岩亀横町にあったものと言われている 3 体の地蔵が祭られ 9の日を縁日としている。鎌倉事件は、元治元年(1864)八幡宮付近の茶屋で休憩しようと馬から下りた英国人士官二名を「憎むべき夷狄なり」として維新の志士が斬殺した事件。フランス水兵殺害事は、慶応二年(1866)関内の遊廓で酔って乱暴をはたらいていたフランス水兵を、居合わせた力士鹿毛山が投げ飛ばし鳶職の亀吉が鳶口で殺したといわれる事件。

戸部杉山神社
戸部杉山神社

戸部杉山神社

 西区役所の北側にある境内は約 3600 ㎡ほど。イチョウ、ケヤキなどの 大木に囲まれた小さなオアシス。社伝によると創建は白鳳 3 年(652) 、出雲大社の神、大己貴命(おおむなちのかみ)の分霊を祭ってある。大己貴命とは、因幡の白うさぎなどの神話で有名な大国主命のこと。境内には天神社、稲荷社、山王社、社宮祠社(くらやみ坂にあった「おしゃもじさま」)、厳島社、浅間社、三峯社、聖徳太子殿 がある。現在の社殿は、昭和 31 年(1956)8 月 再築の鉄筋コンクリート造りで、同年の神奈川県建築コンクール第一部に入賞している。回転する狛ネズミや俳優黒沢年男氏奉納の大黒天像がある。

くらやみ坂

 西区役所の東側、西中学校へと昇る坂。開港当時は保土ヶ谷宿方面からこの坂を登り関内へ行く保土ヶ谷道の要衝であった。そのため坂下に「くらやみ坂関門」が設けられていた。くらやみ坂の語源には、①東海道が面している袖ヶ浦が久保町の杉山神社まで美しい入江となっており、鎌倉時代ここを通りかかった源頼朝も、しばし馬を止めてこの景色を眺めた事から鞍止坂と言われるようになった。②この付近一帯は樹木がうっそうとしていて昼なお暗き所だったので暗闇坂と呼んだ。③昔は今よりも急な坂だったので、荷物を積んだ馬力が一息入れてから登った坂より、鞍止坂と呼ばれるようになった、という三つの説がある。

戸部刑場・牢屋敷跡  

 くらやみ坂の碑の北側、県公務員住宅があった場所と西中学校付近に戸部刑場、牢屋敷があった。戸部刑場、牢屋敷は横浜開港に伴い設置され、明治4年には役所や獄舎を増築し、明治十三年には延べ一万五千平方メートルの牢屋敷となった。中には煉瓦造りの建物が十棟、囚人の工場などもあった。その後明治三十二年には、根岸、笹下に移転し、現在の笹下刑務所となった。刑場では、幕末に外国人を殺害した者などが処刑された。代表的な人物は清水清次、間宮一(鎌倉事件)・鳶の小亀(フランス水兵殺害事件)である。また旧池の坂交番のあった場所に後に久成寺に移転した巨大な処刑者慰霊碑があった。

かつてあった稲荷社
かつてあった稲荷社

横浜道との合流点 

 戸部村は、保土ヶ谷宿での助郷役や東海道掃除帳場等の夫役が課せられていた。これらの用事で戸部村と保土ヶ谷宿との往来に保土ヶ谷道は使われていた。また野毛浦方面との往来にも使用され、地域の生活道路であった。横浜開港に伴い、この合流点より先は横浜道として使われることになった。幕府は安政6年(1859)の開港と同時に横浜道の建設に着手し、老松町付近の稲荷社(現在はない)で保土ヶ谷道と合流させ、野毛浦方面へ通ずる部分を拡幅し横浜道として使用した。

野毛切通し
野毛切通し

野毛切通し

 安政6年(1859)の横浜開港を前に幕府は東海道筋と開港場を結ぶため、戸部村を経て野毛山を切り開いた「野毛切通し」を整備した。切り立つ崖に沿って入江になっていた野毛浦へ出て、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を渡り開港場へと至るのが横浜道だった。「切通し」は明治6年(1873)外国人技師デービスにより切り下げ工事が施工され、さらに1885年(明治18年)に再改修された。さらに関東大震災復興時の昭和3年(1928年)には市電長者町線の整備に際して、さらに深く切り下げられた。切通し東側の擁壁はその頃築造されたもの。西側の「旧平沼専蔵別邸亀甲積擁壁」とは異なった擁壁となっている。

中・近世の戸部村

 天保元年(1830)に著された『新編武蔵風土記稿』では村名は「富部」とも書いたとされている。後北条時代、永禄(1558~1570)の頃北条氏が出した文書では、村名は「戸部」「富部」の両者が使われている。室町時代の戸部村は扇谷上杉の家宰であった太田道灌と特に深い関係にあったと思われる。戦国時代後半北条早雲の孫、氏康は関八州を制圧し、氏康が制定した『小田原衆所領役帳』により戸部村は上原出羽守の所領とされた。上原は太田氏時代から戸部に移り住んでおり、戸部郷の代官として地頭職をやっていたと思われる。『新編武蔵風土記稿』によると、後北条時代、戸部村は税として、なまこ・たい・たこ等の海産物を納めていた。江戸時代の戸部村は天領となり、代々代官が支配してきた。『新編武蔵風土記稿』によると「戸部村は久良岐郡の北、橘樹郡の境にある東海道の保土ヶ谷宿からは二十八丁(約三キロ)離れ、江戸日本橋からは八里(約三十一キロ)にあたる。東は海、南は山を境として大田村に接し、西は保土ヶ谷宿の岩間町、北は入江を隔てて神奈川宿に対している。東南は州乾の湊で対岸は横浜村、その南は大岡川をさかいに吉田新田になっている。東西十五町(約千六百メートル)よ、南北十一町(約千二百メートル)ばかり、地形は南の方が高く、その他は平地。土の性質は野土で、陸田が多く水田は少ない。天水をためて用水としているので干ばつによる被害が多い。家数は百五十一戸、農耕の間には海に出て魚や海草を採って生活の助けにしている。」とある。戸部村では、税は塩場役と船役で海浜での製塩・漁業による生計維持の度合いはかなり高かった。

吉川英治旧居跡

 明治25年(1892 )横浜で生まれた吉川英 治は、十代の頃家運が傾き極貧の生活をおくっていた。自伝『忘れ残りの記』には、夜間、人目を忍んで付近のジャガイモ畑から食料を盗む後ろめたさが記されている。その頃住んでいたのが現戸部小学校付近。17 才のとき年齢を偽って横浜ドックに通った。ここで負傷したのが東京へ出るきっかけとなる。

伝御所五郎丸墓
伝御所五郎丸墓

伝御所五郎丸墓

 御所五郎丸は曽我兄弟の仇討事件(建久4(1193)年5 月)ゆかりの人物。吾妻鏡には、兄弟が父の敵の工藤祐経を討ったあと、弟の時致が頼朝の寝所に侵入した際、「小舎人童(こどねりわらわ・貴人の雑用係の少年)の五郎丸が搦め捕った」と記されている。昭和 63 年に横浜市登録文化財に指定(管理は御所山町会)。

平沼水天宮・平沼神社
平沼水天宮・平沼神社

平沼新田と平沼水天宮

 1839(天保 10)年、帷子川下流湿地か

ら河口にかけての一帯を、保土ヶ谷宿で酒造業を営んでいた 5 代目平沼九兵衛が開発に着手し、3 代に亘って約 35 万㎡を埋立てた。別名「麹屋新田」。幕末には横浜開港に伴い、海岸沿いに横浜道が通った。新田完成時の 7 代目九兵衛の子が平沼亮三。昭和 26(1951)年、横浜市長に当選し 2 期務めた。

 水天宮平沼神社は「安産・水徳の神」を祀る。天保 10(1839)年、5 代目平沼九兵衛が創建。その起源は塩田の水路に水天宮の御札が流れ着いたのを拾いあげて、平沼新田の守護神として祀ったのが始まり。毎年、1 月 5 日には湯立花神事が行われる。境内社には、平沼稲荷神社、竈三柱神社、平沼天満宮がある。

久成寺・処刑者慰霊塔
久成寺・処刑者慰霊塔

久成寺と処刑者慰霊塔

 山号は平沼山。明治初年、7 代目平沼九兵衛夫人千代子の発願により、鬼子母神堂を建て、これを日蓮宗教会所とし、さらに明治 25(1892)年に千葉中山法華経寺久成坊を移籍して久成寺(くじょうじ)とした。開山は日涵。日清戦争が勃発したため、明治27(1894)年に神奈川~程ヶ谷間に軍用線路が敷設されることになり、翌年九兵衛の寄進した現在地に移転した。境内の石塔は、元々くらやみ坂にあった処刑者の慰霊塔で明治 27(1894)年に当寺に移転した。