4月20日(土)・25日(木)                   鎌倉街道下の道② 川崎/中原・横浜/日吉(終了しました)

 

昨年の12月に続き鎌倉街道「下の道」を歩きます。今回は中原街道から別れ、かつてのブランド米「稲毛米」を生んだ川崎市中原区から、多摩丘陵東端を越え横浜市へ入ります。この道筋は、室町時代の「廻国雑記」に、「まりこの里に行きかかり、足も休めず急ぐ暮れかな」「駒林といへる所に至りて、宿をかり侍る」と記されているルートではないかと推定されます。中原地区は近年「花づくりの街」として知られますが、鎌倉時代初期には稲毛氏が、戦国時代は吉良氏が領していたとされ、江戸時代は幕府の天領でした。新編武蔵風土記稿には「この村は田多くして畑少なし、山もなければ全て平地なり、民家は今82軒」と記されています。広大な水田があった名残でしょうか、丘陵下までほぼ一直線の道が続き、丘陵へは往古のまま残る細い坂道を上ります。丘の上の一帯には、中原区の黎明の地とされる「神庭遺跡」があります。その先の尾根筋には、瀟洒な住宅街と大規模マンション群が広がり、その中にひっそりと鎌倉街道の石碑や古社寺が点在しています。かつてのルートは消滅し、古道は僅かな区間に残るのみですが、頼朝にまつわる伝承や、路傍の石仏などから往時の風情を感じて下さい。

 

大戸神社

永正年間(150421)に、世田谷吉良氏の家臣内藤内匠之助が、戸隠明神を勧請、創建したのが始まりと伝えます。新編武蔵風土記稿(以下、風土記稿)には「大戸明神社」とあり、現在の全龍寺が別当寺だったと記されています。社殿前の狛犬は明治4010月造。砲弾を抱えている全国的にも珍しい像です。

―この先、江川・小関橋跡までの古道ルートは分かっていません。―

 

 

 古柳庵

内藤家の墓所。内藤氏は吉良氏滅亡後、下小田中村に土着し名主を務めました。現在まで500年の歴史を刻んでいます。本堂は昭和59年の再建。堂内には室町時代の作と推定される地蔵菩薩像、江戸時代作の聖観音像と八臂弁財天像が安置されています。前庭の欅は明治81875)年、乃木希典が寄贈。風土記稿に「殿屋敷、村の中央にあり、往昔稲毛重成の館ありし跡なりと云伝ふ」と記されていますが、その跡地がこの付近ではないかとも言われています。

 

 

 江川せせらぎ遊歩道・小関橋跡

遊歩道は約2.4㎞、武蔵新城駅と井田山を結ぶ。かつて江川は矢上川の支流でしたが、急速な都市化による浸水や水質悪化を改善するため、平成156月に完成。小関橋のあった付近は、かつて隣村へ渡る格好の休憩地として賑わった集落と言われます。古老いわく「小関橋を抜け、明津、蟹ヶ谷、鞍掛松へ続く南寄りの道が鎌倉街道」と記す資料があります。

 

 

蟹ヶ谷の庚申塔・地蔵菩薩

丘陵への上り口一帯が川崎市高津区蟹ヶ谷です。風土記稿には「古は神庭村と云いしが、後今の如く改めし」と記されています。神庭とは、神の祭祀の場という意味の「神の庭」に因む地名という説があります。庚申塔は、享保21717)年99日の造。青面金剛は怒髪三眼の憤怒相で六臂。地蔵菩薩は、元文51740)年24日の造。光背舟形を浮き彫りにした比較的大きな石仏で、蟹ヶ谷の念仏講の寄進によるものです。           ―ここから、海抜40mの多摩丘陵東端を越えます。―

 

 

 神庭(かにわ)遺跡

中原区の黎明の地と言われ、古代のロマンあふれる魅力ある地であったと言われます。昭和47819723)年に縄文、弥生、古墳時代の遺跡が発掘され、竪穴住居跡185軒以上が確認されています。更に、約200m離れた井田伊勢台遺跡から、昭和51年に9軒発掘。別々の調査ですが、多分その中間にも遺跡が存在し、全体として一つの遺跡ではと考えられています。このことから、ここでは縄文時代中期(5,0004,000年前)から定住生活が始まり、弥生時代、古墳時代と連綿として人々が生活していたことが分かります。

 

 

 駒が橋

かつて松の川に架けられていた橋。「風土記稿」は、頼朝がこのあたりに来た時、乗っていた馬が走りだしてこの橋あたりで留まったために、橋を「駒ヶ橋」と名付け、村の名前も「駒ヶ橋村」としたと、記しています。一方、「港北百話」には、頼朝が川の流れに馬(駒)を乗り入れて渡ったので「駒ヶ橋」というようになり、近くの丘には、その時に濡れた鞍を掛けて休息した「鞍掛の松」があったと、記されています。

ここから、現在の日吉本町(旧駒林村)までの古道は消滅しています。―

 

 

西量寺

天台宗。山号は不捨山。縁起では、永享121440)年の創建。開山は道巌。阿弥陀仏と地蔵信仰が融合された民間信仰の、念仏を百万遍唱える十夜念仏が、現在も続けられているそうです。本堂前に、地神塔と水掛観音が、裏には地蔵像、馬頭観世音塔、庚申塔の3基があります。

 

 

 駒林神社

室町時代後期の頃は中村天神社といい、いつの頃からか十二天社と言われていたようです。明治151882)年、駒林村にあった数社を合祀し現在の名称になりました。神社の石垣は、江戸城外堀の石を移設したものです。昭和39年桜田会館建設の際、発掘されたもので、石面に大名各家の紋章あるいは略字があります。

 

 

 金蔵寺

  天台宗。山号は清林山仏乗院。平安時代初期に智証大師の開山と伝えます。約1,000年を越える古寺で、家光から55石の朱印を賜ったとのことです。本尊は大聖不動明王。境内は広く、建武元年(1334)銘の板碑など、貴重な史跡が数多くあります。本堂は文化元(1804)年造。梵鐘(約225㎏)は、慶長81603)年に徳川家康・秀忠が鋳造、それを元禄10年代(16971704)に、綱吉が母桂昌院の病気平癒を願って改鋳したものです。港北七福神の寿老神を祀っています。