6月3日(月)・5日(水)                   開港160周年記念「よこはま もののはじめ」を訪ねる      (終了しました)

 今年は安政6(1859)年の開港からちょうど160周年を迎えます。いうまでも           なく開港を機に数多くの新しい文物がこの横浜から入ってきました。関内・山手地区を           歩くと「○○発祥の地」の碑や看板をたくさん見ることができます。中区役所からは「よ         こはま中区の歴史を碑もとく絵地図」が発行されています。横浜開港資料館からは「横           浜もののはじめ考」という詳しい冊子が発行されています。それらをもとにして、桜木           町から山手までのさまざまな発祥地を巡り、あらためて横浜が西洋文化のはじまりの地           であることを実感したいと思います。

 

 

0)「横浜もののはじめ」の見方
 元横浜開港資料館調査員の斎藤多喜夫氏によれば、「横浜もののはじめ」とは「幕末開港後、横浜を舞台として展開された外国文化摂取の種々相」であるという。「元祖争い」では多くは長崎に軍配があがるはずなので、「横浜を舞台として」という観点が重要であるとする。その諸事象には、古老の回顧談として伝えられるものが多く、史実性に問題があるものがみられるという。また「横浜もののはじめ」の人気は「横浜の歴史に関心を寄せる場合の案内役」のような役割を果たしているが、そのこと自体に問題があるという。一面的な横浜像を持たせてしまうからである。近代史に占める横浜の位置を「文明開化のふるさと」と特徴付けることは偏った見方であり、外国文化導入と同時に国際貿易港都として日本文化が輸出されていった事実も無視できないと説く。横浜のもつ国際性とは、外国文化が輸入される一方で、日本文化が輸出されるという文化的伝統の上に立つと『横浜もののはじめ考』(第3版)で解説している。このような考え方を踏まえた上で、以下「横浜を舞台として展開された外国文化摂取」のいくつかを見ていきたい。

 

 

鉄道創業の地
鉄道創業の地

1)鉄道創業の地
 1872.10.14(旧.M.5.9.12)東京~横浜間29Kmの鉄道が開業.横浜で明治天皇臨席、有力者、各国公使・領事他、多数が出席。盛大な開業式が行われた。当日は5千人の見物客で賑わった。居留外国人を代表してマーシャルが、横浜商人を代表して原善三郎が祝辞を述べた。片道53分、毎字、8,9,10,11,2,3,4,5,6字の一日九往復の運行である。運賃は東京~横浜間、上1両2朱・中3分・下1分2朱、小児4才まで無賃、12才は半賃であった。工事は英人モレルが1870(M3).4.9.来日4月25日より測量を始める。1872年3月頃に横浜~品川迄の敷設が終わる。M5.5.7品川~横浜開通、モレルは1871(M4)10.10没、外人墓地に埋葬される。鉄道発祥の地記念碑近くに「原標点」が設置されている。

我国西洋歯科医学発祥の地
我国西洋歯科医学発祥の地

2)我国西洋歯科医学発祥の地
 1865(慶應元)米人歯科医イーストレーキ、居留地で診察にあたる。その後M15年に、再度開業、米人エリオットやパーキンスらもM3~14年居留地で診察を行う、日本人の歯科開業医の第1号はエリオットに学んだ小幡英之助である。M8年、医術開業試験を合格し、医師資格を取得する。エリオットに木戸孝允、西郷従道も、歯科治療を受けたと言われている。

下岡蓮杖の碑
下岡蓮杖の碑

3)写真の開祖、下岡蓮杖
 1862(文久2)年頃、野毛で写真店を開業、後、弁天通に移転する。1867(慶應3)年頃馬車道に写真館を開設した。蓮杖は狩野派の絵師日本に写真師という職業を確立した。

日本最初のガス灯の碑
日本最初のガス灯の碑

4)日本で最初のガス灯
 1871(M4)4月 高島嘉右衛門と仏人ぺルグランはガス工場の建設を始める(現本町小学校)。1872(M5)10,31にガス灯が大江橋から馬車道、本町通りに点火される。外国人居留地には1874(M7)12月にガス灯が点火された。

アイスクリーム発祥の地
アイスクリーム発祥の地

5)アイスクリーム発祥の地(氷水)
 1869(M2)7月頃馬車道で町田房造が「氷水」を開業「アイスクリン」と名付ける。「鉋で削られた氷」の入った飲み物開港直後より氷が輸入されており、1865(慶應元)年5月に、リズレーが天津氷を輸入し、アイスクリームサロンを開いている。町田房造は咸臨丸の乗組員として渡米している。

近代街路樹発祥の地
近代街路樹発祥の地

6)近代街路樹発祥の地
 1867(慶應3)年頃馬車道に各々商店が柳と松を連植した。その後、本町通、海岸通にも移植される。1872(M5)年のガス灯点火により夜を楽しむ人々で賑わった。

鉄の橋(吉田橋)
鉄の橋(吉田橋)

7)鉄(かね)の橋
 神奈川県知事への寺島宗則が、英人ブラントンに鉄橋建設を依頼し、1869(M2)の春より工事に取り掛かる。同年12に長さ約24m幅約6m、日本初の無橋脚「ワーレンス・トラス」が完成した。トラス橋としては最初、鉄橋としては長崎の「くろがね橋」が早い、ブラントンは1868(M元)8月に英国より来日。M2年横浜弁天の「灯明台役所」を根拠地とし、各地の航路標識の建設にあたる。「横浜の下水・道路整備計画」に基づき、「実測図」「下水道」「近代道路」「街路証明」「電信線の架設」他、横浜の町づくりに大きく貢献した。1876年離日した。

8)吉田橋関門跡
 横浜が港となって交易場、貿易港として栄えるに従い、開港場への出入り口として吉田橋がかけられた。吉田橋は交通の中心となり、その治安を図るため橋のたもとに関門が設けられ、武士や町人の出入りを取りしまった。関門は当初港町側に設けられたが,1864(文久4年)2月に吉田町側に移された。関門を境に港町側を関内、吉田町側を関外と呼んだ。この関門は明治4年に廃止された。

彼我公園入口
彼我公園入口

9)我国最古の公園(横浜公園)
 1866(慶應2)年12月29日調印の「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」(慶應約書)に基づき創設された公園。1868(明治元年)に来日したR・H・ブラントンの設計で、1866(慶應2)の大火により焼失した港埼遊郭の跡地に日本大通りと共に造成し1876(明治9)年2月に開設された。この公園は外人と日本人が共同で利用でき(彼我公園)、日本大通りは「防災道路」とする計画であった。

10,)新聞誕生の地
 居留地では1861(文久 元年)11月23日に英人ハンサードによって欧文紙ジャパン・ヘラルドが創刊された(毎土曜日発行4ページ)。日本初の日本語による民間新聞は1864(元治元年)6月28日又は1865(慶應元年5月)に発刊されたジョセフ・彦(浜田彦蔵)の「海外新聞」である。この新聞は主として欧米紙を翻訳したものであった。ジョセフ・彦は米国領事館通訳になり、米国籍を日本人として最初に得、リンカーンと握手した唯一の日本人であった。

 

11)横浜の下水道の始まり
 「慶應約定」で、居留地の全ての道路に砕石による舗装と下水道管を埋設することが規定されていた。下水道工事は英人R・H・ブラントンにより、1869~1870(明治2~3)に陶管の排水管でおこなわれ、その後1881(明治14)年からこれをレンガ造りに変えた。形が卵に似ていたため「卵型管」と呼ばれた。現在でも中華街南門通りで使用されている。

日本最初の洋式公園
日本最初の洋式公園

12)日本最初の洋式公園(山手公園)
 横浜公園と同様に「慶應約書」により整備された公園。この公園は居留民の自己資金で造成され、1870(明治3)年6月4日、日本で最初の西洋公園として開園した。居留民専用の公園で英国駐屯軍の演奏会やフラワーショー、厳冬会などが催された。

日本庭球発祥の地
日本庭球発祥の地

13)日本庭球発祥の地
 1874(明治7)年英国でローン・テニス始まる。1876(明治9)年日本で初めてテニスがプレーされる。1878(明治11)年居留地外国人女性によりレディース・ローンテニスクラブ誕生し、外国人専用の山手公園内に5面のコートが作られ、日本で最初の近代テニスが本格的に行われた。当初のクラブのメンバーは女性だけだったが、後には男性も入会できるようになった。

吹奏楽・国歌発祥の地
吹奏楽・国歌発祥の地

14)吹奏楽・国歌発祥の地(妙香寺)
 1863(文久3)年8月の薩英戦争の時、戦死した英軍将兵の水葬に際し軍楽隊が儀礼曲を演奏した。1869(明治2)10月上京した藩兵の中から年少者30余名を選び横浜で英国より軍楽を伝習する。伝習生は妙香寺にてフェントン軍学長より習った。これが「海軍軍楽隊」に発展する。1870年(明治3)9月に吹奏楽を演奏した。また陸軍軍楽隊はダグロンの指導によりフランス式に編集される。フェントンが薩摩藩士に国歌の制定を進めたことから国歌制定され、妙香寺には「国歌君が代由緒地」の碑が建っている。

麒麟麦酒開源記念碑
麒麟麦酒開源記念碑

15)麒麟麦酒開源記念碑
 この一帯はかつて天沼と呼ばれる清水の湧き出る地だった。1870(M3)年この地で米国人コープランドは、日本で初めて継続的にビールの醸造・販売を行った。

16)ジェラール瓦とれんが
 元町公園辺りには明治時代、フランス人ジェラールの経営する日本最初の西洋瓦とレンガの製造工場があった。公園プール管理棟の屋根瓦の一部は当時のもの。

 

17)塗装発祥の地記念碑
 1854年(嘉永7年)2月13日、アメリカ使節(ペリー艦隊)の浦賀再来航の際、 林大学頭が江戸の渋塗(柿渋を塗ること)職人町田辰五郎を呼んで、通商交渉を行う横浜応接所建物外部のペンキ塗装を命じた。これが縁で町田辰五郎は幕府からペンキの一手取り扱いと外国公館(領事館・公使館)塗装の特権を与えられたという〔「事物起源辞典」(衣食住編)〕。1856年(安政3年)に伊豆下田の玉泉寺を仮領事館としていたアメリカ総領事ハリスは、日米通商条約締結のため神奈川宿本覚寺を領事館と定め、本覚寺をすべて白ペンキで塗ったという〔「横浜の歴史」横浜市教育委員会〕。このことをもって、本覚寺に「全国塗装業者合同慰霊碑」が建立された。

日本バプテスト発祥の地
日本バプテスト発祥の地

18)日本バプテスト発祥の地
 アメリカ北部バプテスト(キリスト教プロテスタントの一教派)は、1873(明治6)年に 宣教師ネーサン・ブラウン夫妻を日本に派遣して宣教活動を始め、横浜に日本バプテスト横浜教会を設立した。1884(明治17)年には 代官坂東側の山の上に“横浜バプテスト神学校”を創立、牧師・伝道師の養成を開始した。関東学院のはじまり。

19)機械製氷発祥の地
 1879(M12)年、オランダ人ストルネブリンクがここに横浜初めての製氷工場を開業した。一度は震災で倒壊したものの再建され、1999(H11)までニチレイ神奈川営業所として当時の姿のままで稼働していた。

クリーニング業発祥の地
クリーニング業発祥の地

20)クリーニング業発祥の地
 開港時から外国人を相手に洗濯業を営む日本人は何人かいたが、本格的な西洋式洗濯業を始めたのは1861(文久元)年頃の渡辺善兵衛といわれている。1859年(安政6年)、神奈川宿の青木屋忠七が本町一丁目(現在の五丁目)で西洋洗濯業を開始。ついで岡澤直次郎が元町に清水屋を開業し、1867年(慶応3年)に脇澤金次郎がこれを継承して谷戸坂で営業を行った。選択技術は、1861年(文久元年)頃に本格的な西洋式洗濯業を始めた渡辺善兵衛から習ったのだという。