7月2日(火)・4日(木)                    和賀江嶋から光明寺・来迎寺・元八幡を歩く           (終了しました。)

 

わが国最古の築港遺跡である和賀江嶋から、鎌倉最大の寺院である光明寺や源頼朝ゆかりの補陀洛寺・来迎寺・元八幡・教恩寺などを訪ねます。

 和賀江・大町地区は鎌倉時代には幕府公認の商業地区で、賑わっていました。古東海道も、武蔵国が東海道になるまではこの地域を通って、三浦半島から房総半島へ抜けており、海陸の交通の要衝でした。当時の賑わいに思いを馳せながら歩いてみましょう。

 

和賀江嶋
和賀江嶋

和賀(わか)江嶋(えのしま)

 

現存する日本最古の築港遺跡であり、昭和43年に国史跡に指定された。材木座海岸は和賀江津と呼ばれ、古くから港として使われていたが、遠浅で波も荒く船の接岸が難しく、遭難することもあった。貞永元年(1232)、勧進僧の往阿弥陀仏が築港を幕府に願い出て、3代執権北条泰時の協力もあり、『吾妻鏡』によると25日間で完成したという。

 

内藤家墓所
内藤家墓所

 

内藤家(ないとうけ)墓所(ぼしょ)

 

譜代大名である磐城平藩7万石内藤家の墓。内藤家は江戸深川の霊巌寺が菩提寺であったが、5代忠興のときに光明寺を菩提寺として、6代義概(よしむね)のときに石塔などを移した。9代政樹(まさき)のときに日向延岡へ転封となった。

 

宝篋印塔や笠塔婆などが58基あり、江戸時代の大名墓地の時代的な変化がわかる貴重なもの。一番大きいのは延宝2(1674)の銘がある5代忠興の墓塔(別紙配置図24)で高さ457cm、最古のものは4代政長の墓塔(別紙配置図33)で寛永11(1634)の銘がある。

 

祖廟所
祖廟所

 

(てん)照山(しょうざん)()廟所(びょうしょ)

 

 光明寺歴代住職の無縫塔が並んでいる。中央正面が光明寺開山の然阿良忠の墓。良忠は正治元年(1199)に石見国(現・島根県浜田市)に生まれ、比叡山や高野山で修行をした。浄土宗の第二祖である弁長の弟子となり、浄土宗の第三祖となった。

 左側の大きな宝篋印塔は光明寺の開基と伝わる北条経時の墓。実際には供養塔である。経時は3代執権北条泰時の嫡男北条時氏の長男で、父の時氏が早世したため、19歳で4代執権となるが、4年後に23歳で病没。弟の時頼が5代執権となる。

光明寺本堂
光明寺本堂

 

光明寺(こうみょうじ) 天照山蓮華院光明寺 浄土宗

 

 4代執権北条経時が良忠のために、仁治元年(1240)に佐介ヶ谷に蓮華寺を建て、寛元元年(1243)に現在地に移して光明寺と改めたと伝わる。実際の創建時期は不明。室町時代には勅願寺となり、紫衣着用や十夜法要を許された。徳川家康からは、関東十八壇林の筆頭の地位を与えられた。山門は弘化4(1847)の再建で、鎌倉では最大。1階が和様、2階が禅宗様で、「天照山」の額は後花園天皇の宸筆。楼上には釈迦三尊像と十六羅漢像がまつられている。

 

本堂にあたる大殿は、元禄11(1698)の再建で、鎌倉の木造では最大。国重要文化財。本尊の阿弥陀三尊像は、鎌倉時代初期の作で鎌倉では珍しい定朝様式。大殿の左手には、小堀遠州作と伝わる蓮池を中心とした記主庭園の奥に、阿弥陀如来をまつる大聖閣がある。その左の開山堂には、良忠上人坐像など歴代住職の坐像や位牌がある。大殿の右手前には、正中2(1325)銘の石造地蔵菩薩坐像がまつられている。もとは背後のやぐら内の安置されていた。その右側に、弘長2(1262)銘の阿弥陀如来のキリクがある板碑がある。廃寺となった材木座の感応寺にまつられていたものといわれる。                  (下の写真は光明寺:左上<総門>右上<山門>左下<阿弥陀三尊像>右下<記主庭園の蓮>)

 

補陀洛寺境内
補陀洛寺境内

 

補陀洛寺(ふだらくじ) 南向山帰命院補陀洛寺 真言宗

 

 開山は文覚上人、開基は源頼朝。頼朝が鎌倉に入った翌年の養和元年(1181)に頼朝の祈願所として創建された。当初は七堂伽藍を備えた大寺院であったが、別名を竜巻寺と呼ばれるほど、竜巻などの災害をたびたび受け、規模が小さくなったという。

 

 本尊は十一面観音立像であるが、他に不動明王像、源頼朝像、文覚上人荒行像などがまつられている。平家の赤旗と伝わる旗もある。

 

九品寺本堂
九品寺本堂

 

九品寺(くほんじ) 内裏山霊巌院九品寺 浄土宗 

 

 開山は風航順西、開基は新田義貞。元弘3(1333)に新田義貞が鎌倉を攻めたときの新田軍の本陣があったところに、新田義貞が戦死者の供養のために、建武3(1336)に建立と伝わる。

 

 本尊は阿弥陀三尊像で南北朝期の作。山門の「内裏山」と本堂の「九品寺」の額は新田義貞の筆跡。

 

実相寺山門
実相寺山門

 

実相寺(じっそうじ) 弘延山実相寺 日蓮宗

 

 日蓮の高弟のひとりである日昭が開山。開基は信濃・越後の武将である風間信昭。日蓮の佐渡配流後に、一門の統率のために日昭が法華堂を建て、日蓮没後に風間信昭が妙法華寺を建てたのが実相寺となったと伝わる。この場所は工藤祐経の屋敷跡で、日昭は工藤祐経の孫といわれる。

 

五所神社の神輿
五所神社の神輿

 

五所(ごしょ)神社(じんじゃ)

 

  乱橋村と材木座村の合併により、明治41(1908)に三島神社・諏訪神社・八雲神社・金刀比羅宮・見目神社を合祀して五所神社と改めた。祭神は天照大神・素戔嗚命・大山祇命・建御名方命(たけみなかたのみこと)崇徳院霊。収蔵庫脇に弘長2(1262)銘の不動明王種子の板碑がある。光明寺の阿弥陀種子板碑と一対で、廃寺となった感応寺にあったものといわれる。境内には庚申塔が多数あるが、最古のものは帝釈天を主尊とした舟形光背のもので、寛文12(1672)の銘がある。

 

 

 

来迎寺三浦氏一族の墓
来迎寺三浦氏一族の墓

 

来迎寺(らいこうじ) 随我山来迎寺 時宗

 

 建久5(1194)に源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために、真言宗の能蔵寺を建てたのが、その後、時宗の来迎寺となったという。本尊は三浦義明の守り本尊と伝わる阿弥陀三尊像で、

 

実際には室町時代前期の作とみられる。三浦義明と義明の孫である多々良三郎重春の墓とい

 

われるふたつの五輪塔がある。頼朝は義明のために三浦氏の本拠地である衣笠にも満昌寺を建てている。本堂の裏手には、三浦一族の供養塔といわれる多数の五輪塔がある。

 

 

横須賀(よこすか)(すい)道道(どうみち)

 

 海軍の横須賀港への送水のために、中津川の半原で取水する工事を大正元年に着工し、大正7年に通水開始した。戦後は横須賀市の施設となったが、老朽化のため平成27年に廃止となった。

 

 今でも、海軍のマークである波形の下に「海」と書かれた石柱が所々に見られる。

 

 

 

元八幡の鳥居
元八幡の鳥居

 

元八幡(もとはちまん)

 

 源頼義が前九年の役で安倍頼時・貞任親子を討ち取り、康平6(1063)京へ戻る途中に、ここ由比郷鶴岡に石清水八幡宮を勧請し源氏の氏神とした。永保元年(1081)には頼義の子・義家が、後三年の役で奥州に向かう途中に参詣し、社殿を修復した。治承4(1180)に鎌倉に入った源頼朝は、小林郷北山に社殿を移した。これが現在の鶴岡八幡宮である。その後は下若宮とか元八幡と呼ばれた。境内の右手奥には、芥川龍之介が新婚時代の大正73月から翌年の4月まで住んでいた。芥川は大正4年に東京帝国大学英文科を卒業し、横須賀海軍機関学校の英語教師となり、ここから横須賀まで通った。

 

 

 

辻の薬師堂
辻の薬師堂

 

(つじ)薬師堂(やくしどう)

 

 医王山長善寺という寺があったが、幕末に薬師堂を残して焼失し廃寺となった。明治22(1889)には横須賀線工事のため、現在地に移された。この地はかつては、車大路と小町大路が交差する辻であったので、辻の薬師堂と呼ばれた。

 

 平安時代後期作の薬師如来立像と室町時代の作といわれる日光・月光菩薩立像と十二神将像が安置されていたが、現在は鎌倉国宝館に移管された。現在はレプリカの薬師三尊像と十二神将像のうちの2躯と弘法大師像、不動明王像がまつられている。薬師如来像は東光寺の本尊であったが、東光寺廃絶後に長善寺に移された。東光寺は現在の鎌倉宮のところにあった。護良親王が幽閉されていたところ。

 

 

本興寺(ほんこうじ) 法華山本興寺 日蓮宗

 

 日蓮は法華経の教えを弘めるため、人出の多い辻で説法をしたと伝わる。車大路と小町大路が交わる辻であったここもそのひとつである。辻説法の地に日蓮の弟子である天目が延元元年(1336)に本興寺を建立し、永徳2(1382)に日什(にちじゅう)が規模を整えた。辻の本興寺と呼ばれた。

 

 

大町(おおまち)(つじ)

 

 小町大路と大町大路が交差する大町の辻は、鎌倉時代には賑わった場所のひとつであった。『吾妻鏡』には、亀谷辻・大倉辻・米町・和賀江などとともに大町が商業地に指定されている。米町も大町も大町大路沿いであり、大町四つ角一帯は賑やかな商業地であった。また、大町大路は古東海道の一部であるとの説もある。

 

教恩寺山門
教恩寺山門

 

(きょう)恩寺(おんじ) 中座山大聖院教恩寺 時宗

 

 開山は知阿上人、開基は北条氏康。

 

 本尊の阿弥陀三尊立像は、鎌倉時代前期の作で、運慶作と伝わる。源頼朝が平重衡(しげひら)に与えた像と伝わる。重衡は平清盛の五男で、東大寺や興福寺を焼き払った。一の谷の合戦で捕虜となり、鎌倉に送られた。頼朝は重衡を慰めるため、工藤祐経や北条政子の侍女である千手前(せんじゅのまえ)をつかわした。重衡は処刑されるのを覚悟のうえで横笛を吹き、祐経が鼓を打って今様を歌い、千手前が琵琶を弾いたという。重衡は遊びに興じ優雅な振る舞いであったという。          

 

 東大寺や興福寺の要求で重衡は奈良に送られ、文治元年(1185)6月に処刑された。『吾妻鏡』によると、千手前は3年後の文治4(1188)4月に24歳で急死したという。人々は重衡への恋慕の情が積み重なったためではないかと疑ったという。『平家物語』では千手前は善光寺で出家をして尼となり、重衡の菩提をとむらったとされている。