10月17日(木)・23日                    鎌倉街道「下の道」③日吉本町~菊名 (終了しました。)

 

鎌倉街道「下の道」の3回目です。今回は横浜市港北区の中央部を歩きます。これまで①・②で、多摩川(旧丸子)から日吉本町(旧駒林)まで歩いてきましたが、この行程は室町時代に道興准后(聖護院門跡)が辿ってきた道筋にほぼ重なっていました。さて、日吉本町からは一直線の道が北綱島村の名主飯田家まで続きます。約300年前、同家は新田開発に力を入れましたが、その時の名残なのでしょうか。旧道は綱島駅付近で一旦切断されますが、その先の南綱島村の名主池谷家の辺りには、今でも往時の面影が残ります。綱島では両家による鶴見川の治水・利水と地域創生の歴史を辿ります。大綱橋を渡り、新旧入り混じる道の先に伝説の伯母ヶ坂が現れます。かつては昼なお暗い急坂だったようで、師岡熊野神社へはこの坂を越えてゆきました。今なお霊山の趣を残す熊野信仰の地を巡れば、遥かな時代への想いもいや増し、歴史の深さと広がりを実感できることでしょう。

 

飯田家長屋門
飯田家長屋門

1.飯田家長屋門

 飯田家は、江戸期の北綱島村名主。代々、新田開発や河川改修、製氷、養蚕、果樹栽培などの農産業の振興に尽力、政治・経済の指導者として力を発揮しました。特に、幕末から明治の前半に活躍した10代広配(ひろとも)による、山の湧水を利用した天然氷生産の「村おこし」は有名で、村民の厳寒期の貴重な収入源になりました。江戸後期建築の長屋門(表門)、明治22年建築の主屋は、周囲に濠(ごう)をめぐらすなど、開拓名主の屋敷構えを残す貴重な文化財です。平成6年に横浜市指定有形文化財に指定されています。

東照寺
東照寺

2.東照寺

曹洞宗。綱島山大光院。大乗寺末(旧大曾根村)。由緒では、慶安21649)年の創建。かつては、大曾根村にあり、その後ここに移ったといわれます。本尊は薬師如来像。江戸時代、島津藩の信仰が篤く、本堂内の「瑠璃光明界」の額は島津斉宣(第26代島津家当主、第9代薩摩藩主、篤姫の祖父)の筆。門前の六地蔵は文化21805)年造。庚申塔は正徳21712)年造。境内の如意輪観音像は文化元(1804)年7月造。港北七福神の布袋尊を祀っています。門前の歩道は、かつての矢上川用水の跡です。

 

池谷家日月桃碑
池谷家日月桃碑

3.池谷家日月桃碑

池谷家は、江戸期の南綱島村名主。代々、鶴見川の治水や地域の殖産興業に力を注ぎました。明治30年代、当主の道太郎は、水害に強い農産物の調査を行い、試行錯誤の末、40年に早生種の「日月桃」の開発に成功。苗木を村民に分けて栽培を開始、「東の神奈川、西の岡山」と言われるほどの特産品に育てました。全盛期の大正13年には、生産者90名余、桃畑は約22町歩(22ha)に及びました。しかし、昭和13年の大水害で壊滅的被害を受けたこと、戦時下の食糧増産のための農地への転換もあり、生産は中止されました。

 

大綱橋
大綱橋

4.大綱橋

明治22年に大綱村が誕生、この時より大綱橋(旧綱島橋)となりました。大綱は綱島の「綱」と大曽根や大豆戸の「大」をとったものです。室町時代の応永121405)年、ここに橋を架けたとの記録がありますが、場所は現在の橋よりは少し下流の辺りになるようです。かつて、この辺りには鶴見川舟運の河岸があり、橋のたもとの橋場には店が立ち並び、旅人で賑わっていました。

 

ラヂウム霊泉沸出記念碑
ラヂウム霊泉沸出記念碑

5.ラヂウム霊泉沸出記念碑

温泉が湧いたのを記念して建てられた石碑。大正3年、菓子商「杵屋(きねや)」の敷地内でラヂウム鉱泉が見つかり、これを契機に初めは樽町側に、追って綱島側にも温泉旅館が建ち始めました。最盛期の昭和30年代、旅館数は7080軒にのぼりました。しかし新幹線など高速交通網の発展や、社会環境の変化もあり、昭和40年代半ば頃から旅館は急速に減ってゆき、やがて温泉地としての役割を終えました。

 

昔日の伯母ヶ坂を望む
昔日の伯母ヶ坂を望む

6.伯母ヶ坂

かつてこの辺りは、急峻で劣悪な坂道で交通の難所でした。師岡熊野神社へはこの坂道を登って行ったようです。明治17年に新道開削工事を行いましたが、この時に指導的役割を果たしたのが、南綱島村の池谷義廣(日月桃の開発者池谷道太郎の父)でした。その後、2回の開削によって今日の綱島街道となりました。道沿いの公園は、通称「い・の・ちの池」の「ちの池」を埋め立てたもので、かつては農業用のため池でした。

 

法華寺入口
法華寺入口

7.法華寺

天台宗。熊野山全寿院。縁起(貞治31364)年)では、神亀元(724)年、師岡熊野神社の別当寺として建立され、明治元年の神仏分離令によりに分離されました。本尊は平安期のものと伝える阿弥陀如来立像。高倉天皇が写経し、承安41174)年に寄進したと伝える大般若経の残欠を所蔵。境内に太子堂、天保六地蔵、舟形の地蔵尊などがあります。

 

8.師岡熊野神社

縁起(貞治31364)年)では、神亀元(724)年、全寿仙人(上人)が創建。かつては関東の熊野信仰の拠点だったようです。光孝天皇が、仁和元(885)年に勅使を送り社殿を造営させ、それ以降、宇多・醍醐・朱雀・村上各天皇の勅願所となりました。承安41174)年、高倉天皇は全国的な旱魃へ対応するため、当社へ勅使を遣わし雨乞いの祈祷をさせました。元暦元(1184)年には、源頼朝が平氏追討祈願のため、大般若経を転読させたとの伝えがあります。当社は、各種の農業神事で名高く、村上天皇の時代に始められた「筒粥神事」は今年で1070回を数え、雨乞い神事は昭和初期頃まで行われていました。

 

               師岡熊野神社3景

    なぎの木          鳥居             拝殿

妙義社
妙義社

9.妙義社

妙義山信仰として、群馬県の妙義山へ詣でる代わりに、参拝されていたとのことです。西照寺(曹洞宗大乗寺末)境内の小祠でしたが、綱島街道の拡幅に伴い同寺が廃寺となった後、この社だけが残りました。社の下の庚申塔は文化51808)年造、旧綱島橋(現大綱橋)への道標を兼ねています。

 

菊名神社
菊名神社

10.菊名神社

由緒では、室町時代初期、鶴岡八幡宮を勧請し創建。昭和10年、近隣の各村にあった神明社、杉山社、阿府神社、浅間神社を合祀して菊名神社に改名しました。「がまんさま」と呼ばれる石の手水鉢は、寛政年間(17891801年)造。四方を天邪鬼(4体の鬼の石像)が支えています。その姿から、長い年月の苦難も、同じ仕事も飽きることなく、不平も言わず、じっと忍耐して守り通している雄々しい姿と伝えます。