4月19日(木)・24日(火)信仰と行楽の地「江の島」を歩く(終了しました)

  江の島は、かつては片瀬海岸とつながった突起状の地形で、江戸時代までは干潮時に徒歩で渡ることができました。その後、浸食により陸地と断絶されましたが、現在は、江の島弁天橋や江の島大橋を利用して徒歩でも車でも渡ることができます。信仰の地としての江の島の歴史は古く、鎌倉武士もたくさん訪れ、江戸時代には江の島の弁財天が商売繁昌の神として信仰を集め、大山、富士山とともに江戸からの参詣者で賑わいました。

 

昭和9年(1934年)に国の「名勝及び史蹟」に指定されましたが、昭和35年(1960年)にオリンピック開催に伴うヨットハーバー建設のため国の指定解除を申請し受理され、改めて神奈川県の「史蹟・名勝」に指定されました。現在も首都圏からの手ごろな観光地として連日多くの観光客が訪れています。

江の島弁天橋

 江の島へはかつては引き潮のときにしか渡ることができず、潮が満ちてくると背負いか舟を利用するしかありませんでした。明治24年(1891年)に桟橋が架かりましたが、台風や大雨で流されてしまうことが度々ありました。その後、昭和24年(1949年)に本格的な木製の橋「江の島弁天橋」(歩道)ができましたが、昭和33年(1958年)になってコンクリート製のものに架け替えられました。さらに昭和39年(1964年)には東京オリンピックに合わせて、自動車専用道路「江の島大橋」も完成しました。

 モース記念碑

 大森貝塚の発見で知られるエドワード・シルベスター・モース(アメリカ合衆国)は、ダーウィンの進化論を日本に初めて紹介した動物学者です。モース博士は進化論との関わりの中で興味をもった腕足類が日本には豊富に生息していることを聞き、明治10年(1877年)にその採集と研究を第一の目的として来日しました。7月21日から8月28日の間、江の島で改装した小屋を研究所とし、腕足類の一種であるシャミセン貝をはじめとする多くの海産動物などを採集しました。江の島は「日本近代動物学発祥の地」と言われています。

 江の島ヨットハーバー・オリンピック聖火台

 昭和39年(1964年)東京オリンピックのヨット競技場として誕生した日本で初めての競技用ヨットハーバーで、近くに当時の聖火台があります。ヨットハーバーには、約1,000艘のヨットが収容されており、平成26年(2014年)6月に新しい江の島湘南ヨットハウスも完成しました。2020年東京オリンピックのセーリング競技会場として、橋やヨットハーバー、片瀬江ノ島駅の工事が始まりました。

聖天島公園

 聖天島は江の島東端に浮かぶ小島で、頂上には茅や雑草の生えた二つの大きな岩がありましたが、昭和39年の東京オリンピックのヨットハーバーを作る際埋め立てられ、今は埋め立て地の中に一部その姿を残すだけです。「江島縁起」によると、この島に天女が姿を現したと書かれています。

公園内の祠には、鎌倉鶴岡八幡宮の僧で将軍実朝が帰依した慈悲上人良真の像があります。安置されていた下之宮の開山堂が取り壊されてからここに移されました。

 青銅の鳥居

 江の島の入り口に立つ青銅の鳥居は、延享4年(1747年)に建立され、文政4年(1821年)に再建されたものです。江戸の新吉原、扇谷宇右衛門・大黒屋勘四郎・松葉屋半蔵の三人が願主(発起人)となり、寄進者80人ほどが名を連ねています。上部には「天下泰平」と記され、寄進者の中には当時江戸の花街吉原の楼主たちも名を連ね、「松葉屋の花魁代々山」の名も刻まれています。代々山は書画・和歌をたしなみ、江戸の文士や画家などと交遊のあった評判の遊女でした。

鳥居には、後宇多天皇の「江島大明神」の額が掲げられていますが、江戸時代には「大弁財天」の額で、江の島三社の総鳥居とされていました。初代広重の「富士三十六景相模江の島入口」安政5年(1858年)制作の浮世絵にはこの青銅の鳥居が大きく描かれています。

江の島弁財天遥拝の一の鳥居(唐銅の鳥居)は、東海道藤沢宿の江島道入口の鳥居、二の鳥居(御影石)は片瀬村洲鼻通りの鳥居、三の鳥居がこの青銅の鳥居ですが、一と二の鳥居は残っていません。

 鳥居をくぐると土産物屋が立ち並ぶ参道です。道幅は今も昔も変わっていません。

岩本楼

 江戸時代の江の島では、島内の岩本院(中世では岩本坊)・上之坊・下之坊という宿坊を兼ねた寺(別当寺・別当)がそれぞれ岩屋本宮・上之宮(現中津宮)・下之宮(現辺津宮)を管理し、弁才天信仰の隆盛を担っていました。三坊は、「江嶋寺(こうとうじ)あるいは()願寺(がんじ)(金亀山与願寺と総称され、中でも岩本院は京都の古義真言宗仁和寺(にんなじ)の末寺という寺格をもち、岩屋の弁才天(=本宮)が遷座(=旅)される本宮御旅所(現奥津宮)をも管下とし、江の島全体の総別当として江の島での宿泊、土産物、開帳等の権利をもち、将軍・大名の宿泊所としても栄えていました。

しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令に伴って、三坊の住職は僧籍を離れ、いずれも寺院としては廃絶しました。その後岩本院は、「岩本楼」と名をかえ、江の島の老舗旅館として今に続いています。

「岩本院の稚児上がり、普段着慣れし振袖から、髷も島田に由比ヶ浜・・・」の台詞で有名な弁天小僧の芝居は、岩本院で宿泊客の世話をした稚児がモデルになっています。

 江島神社(辺津宮・中津宮・奥津宮・岩屋)

社伝では、欽明天皇13年(552年)欽明天皇の勅命で、島の洞窟(御窟(おんいわや)、現在の岩屋)に神様を祀ったのが江島神社の始まりであると伝えています

その後、文武天皇4年(700年)に(えんの)小角(おづぬ)という修験者が江の島の御窟に参籠して神感(信心が神仏の霊に通ずること)を受け、修験の霊場を開きまし。これに続き、(たい)(ちょう)(どう)()弘法(こうぼう)安然(あんねん)日蓮(にちれん)などの名僧が、御窟で次々に行を練り高い御神徳を仰いだと伝えられてます。そして、弘仁5年(814年)に弘法大師が岩屋本宮を、仁寿3年(853年)に慈覚大師が上之宮(現中津宮)を創建、建永元年(1206年)に慈悲上人良真が源実朝に願って下之宮(現辺津宮)を創建しました。

鎌倉時代には、岩屋に参籠して戦勝祈願を行った源頼朝が八臂弁財天と鳥居を奉納、後宇多天皇は蒙古軍を撃ち退けた御礼として、「江島大明神」の勅額を奉納しました。このことから「戦いの神」としての弁財天信仰が広がり、多くの東国武士たちが江の島を訪れました。北条時政は、参籠のとき龍神(大蛇?)が残した三つの鱗をもとに北条氏の家紋「三鱗」を定めたそうです。

江戸時代になってからは太平の世になり、江島神社は戦いの神から「芸能・音楽・知恵の神」として、また「福徳財宝の神」として信仰されるようになりました。慶長5年(1600年)には徳川家康も参詣、代々の将軍たちも病気の治療、安産、旅の安全などを祈願したと伝えられています。

明治初年の神仏分離によって、仏式を全廃して純神道に復し、改めて「江島神社」と号し、これまでの本宮御旅所は「奥津宮」、上之宮は「中津宮」、下之宮は「辺津宮」と改称しました。また主祭神を宗像三女神に変更して今日の江島神社の姿になりました。

①辺津宮≪御祭神:田寸津比賣たぎつひめのみこと≫・奉安殿

建永元年(1206年)源実朝が創建。延寶3年(1675年)に再建された後、昭和51年(1976年)の大改修により権現造りの現在の社殿が新築され、屋根には江島神社の社紋「向い波三つ鱗」が見られます。高低差のある神域(江島)では、一番下に位置していることから「下之宮」とも呼ばれています。

 奉安殿には、八臂弁財天と日本三大弁財天の一つとして有名な裸弁財天(妙音弁財天)が安置されています。八臂弁財天は鎌倉時代初期の作で、源頼朝が鎌倉に幕府を開くとき、奥州の藤原秀衡調伏祈願のため、文覚上人に命じて江の島に勧請せしめ、二十一日間祈願させたことが「吾妻鏡」に記されています。妙音弁財天は、鎌倉時代中期の作で、裸弁財天とも言われ琵琶を抱えた座像です。安芸の宮島、近江の竹生島、江の島の弁財天を三大弁財天といいます。

江戸時代にはこの江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せました。

②中津宮≪御祭神:市寸島比賣いちきしまひめのみこと

もとの上之宮で、文徳天皇仁壽3年(853年)に慈覚大師が創建。元禄2年(1689年)に五代将軍・徳川綱吉により、権現造りの社殿が再建されました。現在の社殿は、平成8年(1996年)の全面改修によるもので、元禄2年当時の朱色が鮮明な社殿を再現しています。

参道の両側には江戸歌舞伎「市村座」と「中村座」が奉納した一対の石灯籠があり、記念植樹したしだれ梅や歌舞伎役者の手形も残されています。

③奥津宮≪御祭神:多紀理比賣たぎりひめのみこと

岩屋に一番近い奥津宮は、昔は本宮または御旅所と称され、岩屋本宮に海水が入り込んでしまう4~10月までの期間は、岩屋本宮の御本尊がここ御旅所に遷座したといわれています。社殿は壮麗を極めていましたが、天保12年

1841年)に焼失、翌13年(1842年)に再建されたのが現在の御社殿(入母屋造り)で、平成23年に修復されました。

養和2年(1182年)に源頼朝により奉納された石鳥居や、江戸の絵師酒井抱一が拝殿天井に描いた「八方睨みの亀」は有名です。今掲げられているのは、平成6年(1994年)に片岡華陽画伯が描いた復元画です。

 山田検校(17571817年)は、山田流筝曲の始祖で、浄瑠璃の叙事的な要素を導入した語り部的な筝曲の分野を確立しました。江の島の風情を貝づくしで歌った「江の島」は名曲と伝えられます。

④岩屋

 

 岩屋は、江の島南西部の海食崖基部の断層線に沿って浸食が進んだ海食洞群の総称で、宗教的な修行の場、あるいは聖地として崇められてきました。富士山風穴をはじめ関東各地の洞穴と奥で繋がっているという伝説があります。古くから信仰の対象とされ、弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現したと言われています。

江戸時代以降、江の島参詣の最終目的地と位置付けられ、多くの参詣者、観光客を引きつけてきましたが、昭和46年(1971年)3月7日に崩落事故が起こり、以来立ち入り禁止措置がとられました。22年を経て、平成5年(1993年)藤沢市が安全化改修工事を行い、有料の観光施設として公開されるようになりましたが、昨年秋(201710月)の台風21号による被害の為、現在修理中(閉鎖中)です。(再開は、2018年のゴールデンウィーク頃だそうです)

杉山検校・福石・墓

杉山和一(161094年)は、慶長15年伊勢国に生まれました。幼くして失明し、鍼術を志して江戸へ出ましたが成功しなかったので、江の島の岩屋に籠って断食祈願しました。満願の日の帰り道、石に躓いたときに手にした竹の筒と松葉から管鍼(くだばり)術を創案したと言われています。

貞享2年(1685年)五代将軍綱吉の病を治した功績により江戸の本所一つ目に邸(現在は江島杉山神社。墨田区千歳1丁目)を賜り、元禄5年(1692年)には、関東総検校に任ぜられました。幕府の命令で鍼治講習所を開き、多くの門生を養成しました。

江の島弁財天信仰が篤く、下之宮社殿改修・護摩堂・三重塔などを建立寄進しています。元禄7年に没し根岸の弥勒寺に葬られましたが、翌年の命日に江の島の西浦霊園にも墓が造立されました。昭和38年(1963年)3月25日に藤沢市指定文化財に指定されました。

 近くに、杉山検校に鍼治療を受けた側用人柳沢吉保の室が元禄13年(1700年)に奉納した「柳沢吉保室奉納燈籠」があります。 

 八坂神社

 江島神社の末社で、建速須佐之男たけはやすさのおのみことが祀られています。社殿は銅葺きの入母屋造りで江戸時代には天王社として祀られ、弘化元年(1844年)に再建されました。明治6年(1873年)に「八坂神社」と改称されました。毎年7月に行われる神幸祭(江の島天王祭)は、八坂神社と対岸の腰越の小動神社の神輿が海上渡御を行う勇壮な祭りで、「かながわのまつり50選」にも選ばれています。

 

 一遍聖人成就水道

 一遍上人は、弘安5年(1282年)に鎌倉入りを拒否されたとき片瀬に4か月間滞在して踊念仏の布教活動をしました。その時、江の島を訪れ、水に困っていた島民の為に掘り当てた井戸と言われています。

 群猿奉寶像庚申塔

庚申の日に徹夜して延命長寿を願う庚申信仰は、江戸時代に庶民の間で流行しました。一般的な庚申供養塔の正面には三猿が彫られていますが、ここの庚申塔は四面に合計36匹の猿が彫られている珍しいものです。江戸時代後期作とみられ、市指定有形民俗文化財に指定されています。

 稚児ヶ淵

  江の島南西端の幅50mほどの隆起海食台で、大島・伊豆半島、富士山が一望でき、昭和54年(1979年)「かながわ景勝50選」の一つに選ばれました。磯釣りのスポットしても知られています。

稚児ヶ淵の名は、万治2年(1659年)の中川喜雲の「鎌倉物語」などに見られる鎌倉相承院の稚児白菊と建長寺広徳院の自休蔵主が相次いで身を投げたとする話に基づいています。文化14年(1817年)初演の鶴屋南北「桜姫東文章」にも取り入れられて広まりました。