4月8日(土)大山道 荏田宿と真福寺花祭り(終了しました)

 大山道 荏田宿
 大山道 荏田宿

 矢倉沢往還(現在の国道246号線沿い)は、江戸城赤坂御門を起点とし、相模国矢倉沢へ至る道で、大山への参詣路として賑わい大山道と呼ばれました。江戸から七里の荏田宿は鎌倉道の伝承もあり、江戸時代には近在農村の物資集散地として栄えました。

 4月8日はお釈迦様の誕生日。真福寺の花祭りに参拝しました。

西勝寺
西勝寺

 西勝寺は浄土真宗の寺院で永禄2年(1559)に創建されましたが、弘化2年(1845)に火災に遭い、江戸末期以前の活動状況はわかっていません。文久3年(1863)に本堂が落成されました。若人のたまり場、娘さん相手の裁縫教室など、明治初期には農村社会の中で文化の中心でした。境内には応長元年(1311)銘の大型板碑、馬頭観音、天保12年(1841)の手水鉢があり、大銀杏や背後の竹林など静かなたたずまいを残しています。

驚神社
驚神社

 驚(おどろき)神社は創立年代は不詳ですが、往古より石川牧の総鎮守と伝わります。当時、石川牧は頗る広範な地域に亘り、昭和14年、横浜市に合併当時まで、この石川に「秣場と称せる馬料共有地五十餘町歩を遺せる。社前は旧鎌倉街道に当たり源頼朝の臣、畠山重忠が篤く崇敬せりと云へり。当神社の名称は、馬を大切にする意から、馬を敬う即ち「驚」がついたものと伝ふ。」と由緒にあります。

驚神社境内「力石」
驚神社境内「力石」

 元禄時代から疫病退散、五穀豊穣を祈願する「牛込の獅子舞」が行われます。一人立ち三頭獅子舞が特徴で、牛込地区で生まれた男子が締太鼓を胸に勇壮に踊ります。毎年十月第二土曜日神明社の宵宮に奉納、翌日は保木、平川、荏子田、船頭、宮元の各谷戸から繰り出す大太鼓、お神輿、お囃子が驚神社まで練り歩き、最後に神前に奉納されます。

 境内には江戸中期から氏子が力を競ったという「力石」があります。

築地の土手
築地の土手

 江戸時代、早渕川の荏田村と石川村の境界に、北の山から南の丘に一直線に築土して堤が作られていました。石川と荏田の水争いで、両村が不仲になり、荏田村が土手を作り石川村を冠水させました。流木を防ぎ貯木した「保木」、船を出したので「船頭」、一面に冠水した「平川」、牛を避難させた「牛込」とその地を名付けました。高さ4m、長さ300mの土手は昭和22年農地改革の時に取り壊され、畑として農家に分配されました。(「都筑が丘」より)

観福寺北遺跡群
観福寺北遺跡群

 早渕川右岸の丘陵上にある観福寺北遺跡群には、弥生時代中期後半を中心とした居住址、環濠、方形周溝墓とともに方墳4基、円墳1基があります。近くに虚空蔵山古墳(円墳)、観福寺裏遺跡(小型方形墳)。また、高速道路の反対側には横穴式石室を持つ赤田古墳群があり、二号墳は赤田西公園内に移築保存されています。(「青葉のあゆみ」) 江田駅の先には、都筑郡衙の遺跡である長者原遺跡もあります。

下宿庚申塔
下宿庚申塔

 この庚申塔は、寛政5年(1793)江戸時代中期に荏田村下宿の婦人たちによって建てられたもので、当時盛んだった庶民信仰の一つに疫病、厄払いのため六十日ごとの庚申(かのえさる)の日に講中の女性が集まって眠らずに、交通安全や幼童安穏を祈願し、一夜を過ごす風習があったそうです。

 平成6年、下宿講中の仲間が集まり、昔を偲び心のよすがにもと、古びた祠を改築したそうです。中には、庚申塔と地蔵菩薩が祀られています。

真福寺
真福寺

 真福寺(現本尊千手観音立像)は北方3.4㎞離れたところにありましたが、老朽化により当時観音堂(本尊千手観音立像)であった当地に、大正10年(1921)真福寺(本尊薬師如来坐像)と釈迦堂(本尊釈迦如来立像)を移し、それぞれの本尊を客仏として安置しました。本尊の千手観音立像は、県重文で平安時代末期の作です。ふくよかな顔、肩など全体に藤原時代の作風を見せており、12年に一度(子年)ご開帳される秘仏です。

清凉寺式釈迦如来立像
清凉寺式釈迦如来立像

 客仏として安置されている木造釈迦如来立像は、国重文で鎌倉時代の作です。頭髪は縄をまいたような形で、首まで衣が覆い、複雑な衣文を鋭い彫法で巧みに掘り出し、優しい表情をたたえた清凉寺式釈迦如来と呼ばれている仏像です。県内にはこの他、国重文の指定を受けている称名寺像、極楽寺像がありますが、全国的にも数少ない釈迦如来像です。

真福寺絵馬
真福寺絵馬

 真福寺は、以前は観音堂と呼ばれており、荏田の住民だけでなく近在の農民からも信仰を集め、多くの絵馬が奉納されました。絵馬は個人が切実な願望を実現するために奉納したもので、村人が仏の前で拝む姿を描いたものや、馬そのものを描いたものなどがあります。絵馬以外に宝暦10年(1760)の銘がある奉納額、扁額、算額のほか珍しい藁蛇も奉納されています。現在、大絵馬を中心に74点が本堂内に掲げられています。

 真福寺の双盤念仏は、観音堂で観音様を信仰する村人が集まり、渋沢谷戸(荏田東)の心行寺に伝えられていたものを明治15年に引き継ぎ、現在も双盤講の人たちによって行われています。花祭りの日は、真福寺住職の読経で始まり、周りを念仏講の女性たちが囲み、詠歌唱和をし、その後双盤念仏(太鼓2、鉦4で構成される)が男性たちにより行われます。

おしゃもじさま
おしゃもじさま

 「おしゃもじさま」は風邪を治す神様です。石塔に刻まれていた四文字の一番上は、梵字のカンで馬頭観音を指します。下の三文字「咳之口」は咳癒神です。このおしゃもじさま、もとは県立荏田高校そばの「馬駆け」のスタート地点「ウマカケバ」付近、高校のグランド崖上、峠の頂上あたりにあったそうです。

荏田宿入り口
荏田宿入り口

 荏田宿の軒数は「新編武蔵風土記稿」の中に「屋敷百六十二軒。そのうち往還の左右へ軒つらねるものは、二十四軒なり。」とあります。文政4年(1821)と明治27年(1894)の二度の大火により、現在宿場の面影は残っていません。

 渡辺崋山の「游相日記」には、「荏田升屋喜兵衛という方にやとる。」とあり、荏田宿の夜は盛り上がり、酒を飲んだり書画を書いた話しや、狼が来て家畜などに害を及ぼす話などを聞いたとあります。また馬の売り買いをする市があったことなどを聞いています。日記には宿泊した升屋の部屋や、長津田宿へ向かう途中休息した恩田村の茶屋の押絵が描かれています。

布川
布川

 この川は布川といいます。名前の由来は、中宿の紺屋が、この川で布を水洗いしていたからだといわれています。紺屋には唯一藍甕が残っています。

中宿常夜燈
中宿常夜燈

 中宿の小泉家は、鎌倉時代からの旧家で農業を行いながら豆腐屋を営んでいました。川崎の有馬からも商人が仕入れに来ていました。高さ230cmの常夜燈は、台石に「中宿」、竿の部分に「秋葉山」、中央に「常夜燈」、後ろに「文久元酉年(1861)八月吉日」と彫られている。静岡県西部に鎮座する秋葉神社から起こった防火と鎮火の信仰は、江戸の初めより各地で勧請、代参が広がった。旅人の安全を願って、夜は塔の火袋に灯りを灯した。宿の繁栄を物語っています。

荏田城址
荏田城址

 空堀に囲まれた山城で、標高は45m、雑木がこんもり茂った台地にありました。源義経の忠臣、江田源三広基の居城と伝わります。付近に源三が屋島の合戦で手柄を立て、義経からもらった名馬「小黒」を繋いだ小黒谷があります。源三は文治元年(1185)京都の義経宿所で頼朝の刺客、土佐坊昌俊と戦い討死しました。

 荏田城址の山麓に沿った道が大山道で、街道の雰囲気を今に残しています。

小黒谷地蔵堂
小黒谷地蔵堂

 小黒谷地蔵堂です。江戸中期に作られたもので、三体の地蔵尊が祀られています。

 荏田は戦前から栗、筍、白菜、甘藷、牛蒡、茄子、人参などの産地として名高い地でしたが、中でもこの小黒で生産されていた人参は「小黒鮮紅大長人参」の銘柄で全国に名声を博していました。色は真っ赤で、根身は1mにも及ぶ長人参です。小黒の旧家に生まれた徳江栄助氏が並々ならぬ努力を傾け、品種改良を重ねました。