10月20日(水)・25日(月)・27日(水)                 横浜外国人遊歩道跡をたどる(終了しました)

横浜開港から数年後、幕府は外国人居留地の住民との取り決めに基づき「外国人遊歩 道」を設けました。亀の橋から根岸~本牧を経てミシシッピーベイ(根岸湾)を一周す る長さ 4マイルから 5 マイル、幅 20フィートの馬車道を造成したのです。今回は、地 蔵坂を登り根岸~山手を巡る全周コースの前半部分を歩き、 周辺の史跡を紹介します。

 

●「外国人遊歩道」とは

 江戸幕府が慶応年間に外国人のために 作った道路。競馬場、射撃場、食肉処理 場、病院、居留地や墓地拡張などととも に居留外国人のためのインフラ整備の一 環であった。当時の外国人たちは、攘夷 をとなえる浪士の襲撃を受ける危険とと なり合わせだった。そんな矢先、生麦事 件が起こりイギリス人が負傷させられた ので、英・仏両国公使は幕府に山手一帯 に遊歩道を建設するように申し入れた。 この時、交わされたのが「横浜居留地覚書」(元治元 1864)で、内訳はミシシッピーベイ (根岸湾)を廻る長さ 4 マイルから5 マイル(約7Km )、幅 20フィート(約6m)の馬車道 を作ることだった。これよって外国人たちは居留地周辺で身の危険を心配することなく生 活することができた。  実際の建造は トワンテ山に駐留する英国軍が指揮して1年で完成 。費用は幕府が捻出したものだが、幕府としては多大な賠償金を支払ったり、ことによって は戦争に発展したりすることを考えれば見合う額だった。山手下の元町を通って地蔵坂を 上がり、根岸競馬場を抜け不動坂を下り海に沿って本牧を廻り、本牧から千代崎町、桜道 を通り地蔵坂へ戻る一周ルートで坂の各所には石畳が敷かれていた。

 

濡れ地蔵
濡れ地蔵

●濡れ地蔵

 関東大震災までは地蔵坂の途中にあった満願地蔵に由来する。この坂は、関内から本牧 方面へ抜ける要路であった。この地蔵は、昭和54年に坂の上に復元設置されたが、平成 13年に坂下の中村川にかかる亀の橋の脇に遷された。初代の濡れ地蔵の名前の由来は、 港崎遊郭に身売りされた娘が根岸の身売り先から逃げ出し、このお地蔵さんの前で一息つきその後海へ身を投げた。翌日お地蔵さんの体が水に濡れ、海草がまとわり付いていたこ とから、身を投げた娘の魂がお地蔵さんに乗り移ったと噂され、憐れんだ村民が厚く供養 したという哀しい言い伝えによる。

 

●地蔵坂、鶴屋呉服店、亀の橋

 地蔵坂は山手に登る坂のひとつ。 他に谷戸坂、見尻坂、代官坂、高田 坂、汐汲坂、西の坂などがある。坂 下に 1869 年(明治 2年)初代古屋徳 兵衛が鶴屋呉服店を創業。後、吉田 橋際へ移転し松屋となる。現在の銀 座松屋デパートの前身。明治43 年( 1910 )には鶴屋呉服店は洋館造りの 建物を増築したが、これは横浜にお ける近代的デパートの始まりとされる。また、亀の橋はかつて舟運の要衝でもあり、亀の 橋周辺には問屋街が形成され、荷揚げ場で頻繁に品物の積み降しが行われていた。 

 

●蓮光寺と著名人の墓 

 浄土真宗蓮光寺は、太田源左衞門が発願、浅草蓮光寺の本多興瑛を開基に招いて、嘉永 元年(  1848) 蓮光庵と称して中区山下町に創建したという。明治 4年興學法師を第一世と して蓮光寺と称し、明治 6年当地 6へ移転したといわれる。

 吉川英治の没後、多摩墓地に新たに墓所が設けられ、吉川家の墓所がまとめられるまで は、 この 蓮光寺に吉川家の墓所があった。 その際に不要となり解体された吉川家の墓石は 、当時の住職が蓮光寺の境内に移して保存しており、現在も 寺の門を入ってすぐの左側にある。墓石には「明治廿四年 三月四日 釋妙令信女 釋稚善童女 明治廿四年十月十一 日」 という文字が読める。釋妙令信女は吉川英治の祖母そめ、 釋稚善童女は幼時に死んだ英治の姉くにの戒名である。

 また、和風でありながら十字架も描かれている墓石が残 されている。「下岡美津 明治八年二月.....」と刻まれてい る。横浜を中心に活躍した写真界草分け的存在の下岡蓮杖 の妻の墓石。墓の形が十字架風なのは、美津逝去前年、明 治 7年(1874)横浜海岸教会で洗礼を受けたため。ヘボン をはじめ多くの外国人と親交があった蓮杖夫妻ならではの もの。また、本堂裏にはフランス語の洗礼名と戒名が記された墓石がある。 

 

          【蓮光寺】             【蓮光寺境内】            【有名人のお墓】

 

ブラフ積み
ブラフ積み

●ブラフ積み

 「ブラフ積み 」とは 80cm x 25cm x 20cm cmぐらいの房州石 (砂岩 )を 各段に長辺( 長 手)と短辺 (小口 )が交互に並ぶように積む方法 レンガの「 フランドル積み」 または 「フ ランス積み」に相当する。

●山手居留地旧一番地跡

 横浜女学院テニスコートになっている土地が旧山手居留地一番 地。ここは貿易商スミス邸があった。山手本通りを挟んで対面に は、日光東照宮を模したテンプルコート(日光屋敷)と呼ばれた 建物( 日本蓄音機創業者邸 、後 ホテル)が関東大震災まであった。

 

境界石
境界石

●敷地境界石214番

 共立学園前の公道に面して存在する。他の境界石と異り、番地の前に山手の文字が刻ま れている。明治 年 32 に居留地制度が廃止され、「山手町」が新設された後に設置されたも のと思われる。正面以外に刻字は見られない。(縦横 13 x 15cm、埋め込み部分までの高 さ 27cm)    ※横浜古壁ウオッチング HPより

山手214番館
山手214番館

●山手214番館

 旧居留地であった山手の西南に位置し、現存する大正末から昭和初期にかけての西洋館 の中で、規模も大きく意匠が整った、横浜を代表する西洋館の一つ。建物の最初の所有者 は不詳だが、かつてスウェーデン領事館として利用されていた。建物は斜面地の特性を生 かして建てられ、大きな袴腰屋根をもち、二階の窓は屋根窓の形式をとっている。また、 この建物は一時期写真家ベアトの所有となっていたという。 

●共立学園本校舎

 1931(昭和 6)年 10 月31日 に竣工した、地下 階木造 階建 寄棟造り(地下1 階部分 は石炭貯蔵庫、現在は倉庫)、瓦葺の建 造物。 1923 (大正12)年 9月 1日の関東大震災により学園の校舎 は倒壊し全焼した。その後建てられた本校舎の設計はウィリアム ・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories 1880.10~ 1964.5 ) で 彼は米国に生まれ 1905 年に滋賀県立商業学校の英語科教師として来日した。 1908年京都で建築設計監督事 務所(後のヴォーリズ建築事務所)を開業し、日本で数多くの西洋建築を手掛けた建築家 だった。

 

打越橋遠景
打越橋遠景

●打越橋

 打越橋は、 。 中区打越にあるアーチ橋 関東大震災の復興事業で横浜市内に建設された 178 本の橋梁の一つ。1990 年度にはかながわの橋 100選、 2003年度には横浜市認定歴史的建 造物、2015 年度には山手隧道などとともに「元町・山手地区の震災復興施設群」として土 木学会選奨土木遺産に認定された。

●打越の霊泉(湧水)

 1923年 9月1 日に発生した関東大震災の後、丘上に多くの避難民が住むようになった。 丘上への交通を確保するため、 切通しにして幹線道路 (横浜駅根岸道路) と市電を通した。 その際に丘の上の生活道路が切通しで分断されるために架けられた跨道橋が打越橋。竣工 当初は淡いピンク色に塗装されていたが、のちに鮮やかな朱色に塗りかえられた。切通し の開削で生じた土砂は、山下公園の造成に使われた。

 橋にほど近い丘の麓には、「打越の霊泉」と呼ばれる湧水が出ている。長者町交差点か ら根岸森林公園方向へ少し進むと坂にかかるが、坂の道路脇にある崖の石垣の間から水が 湧きしている。大正12年の関東大震災のときや、昭和20年の横浜大空襲の際も多くの 市民が喉を潤しこの水で救われたという。

  説明板には「この湧水は歴史的に由緒あるもの で、古くから地域の生活用水として広く利用されてきました。最近は水道の発達によって 忘れがちな湧水ですが、水温は夏は冷たく、夏は温かく、一年を通じてほぼ安定していま す。近年では周辺環境の都市化が進んだ影響もあり、清浄な水質が保てなくなってきまし たが、飲むことが出来ませんが、災害時等には飲用以外の生活用水としての利用は可能で す」とある。 

 

●中華義荘、地蔵王廟

 市内に か4 所ある外国人墓地のひとつ。開港後、中国人を含む各国の亡骸は山手の外国 人墓地に埋葬されてきた。その内、中国人埋葬者の増加などにより、明治 6年( 1873 年)、 現在の中区大芝台(久良岐郡根岸村字大尻)に国有地を貸与されて中国人専用の区画をも ったのが始まりで中華義荘がつくられた。元々、中華義荘は、故郷中国へ棺を送還するま での仮埋葬の場だったが、時代とともに永眠する場所へと変わっていった。大正時代にな ると、横浜生まれの華僑も増えて、故郷が横浜である人にとっては、ここが永眠の場所と なり、帰葬という本国に帰すという習慣が徐々に廃れ、かわりに墓地が造られてきた。 墓地には、地蔵王廟(横浜市有形文化財)、3 階建の安骨堂(納骨堂)がある。

  当初横浜で生活していた中国人の商人などの醵金により、明治 25年 、中国人墓地(中 華義荘)に建てられたのが地蔵王廟。建築年代は廟内の碑文などから、光緒18 年 (1892 年)であることが明らか。地蔵王廟の建築は広東省とのつながりが強いことが推察される が、この平面計画は、中庭を中心に建物を前後に並んで取り囲む南方特有の形式で、広東 省や台湾の廟建築に多く見られる。建物は八架、七架、四架の母屋桁を化粧とし、巻棚の 天井を正庁の前廊や側廊に取り入れるなど華南特有の空間を造っている。桁や梁を受ける 軸部は、 土台に柱 、間柱を建て、 外側には斜材を等間隔に打ちつけ 、内側には木摺を打ち 、外壁をレンガ半枚積、内壁に石炭モルタルを塗って大壁で仕上げてある。外壁の半枚積み のレンガ壁は壁体が弱いので、螞蝗攀(ばこうはん)と云うヒルが登っていくように、鉄板で所々を柱に 止めている。屋根瓦は関東大震災後葺き直したが、当初は横浜で焼かれていたジェラール 瓦であったことが明らかとなった。 

           【中華義荘】                            【地蔵王廟】

 

●根岸森林公園(競馬場由来、モーガン、一等馬見所跡、馬券売場跡)

 根岸に造られた我が国初の競馬場。1866(慶応 2)年 、英国駐屯軍将校 らの設計・監督のもとに 、本格的な競馬場施設が建設された。居留地外国人 用競馬場は、1864(元治1)年に徳川幕府と英米仏 蘭との間で締結された「覚書」において、居留地 背後にあった沼地を埋立て、競馬場として貸出す ことが決まっていた。しかし、1862(文久2)年の 生麦事件をきっかけに諸外国との緊張が高まる 中、攘夷派との衝突を懸念した幕府と諸外国は、 候補地を東海道から離れた安全な場所に確保する交渉を続け、 最終的に郊外に位置する 「根 岸」が選ばれた。現在は、根岸森林公園として利用されており、昭和初期に建造された一 等馬見所が残っている。

 アメリカ人建築家 J ・H・モーガンによって設計され、 1929年に竣工した一等馬見所と 二等馬見所の 2

つの 観客スタンド、および下見所(パドック)は、馬場よりも遅れて 1981年に接収解除されたが、二等馬見所と下見所が 1988 年に老朽化のため解体された。 横浜 競馬場の遺構として唯一現存する一等馬見所は 2009 年に経済産業省によって近代化産業 遺産に認定されたが、 本格的な修復は返還以来施されておらず ,事実上の放置状態である 現在も侵入防止のために設けられたフェンスに囲われたままであり、具体的な修復・保存 は計画されていない。米軍敷地入口付近に旧馬券売場跡が残っていたが、最近取り壊され てしまった。なお、米軍跡地全体の再開発計画はすでに始まっている。

           【一等馬見所跡(遠景)】                 【一等馬見所跡前】

 

馬の博物館
馬の博物館

●馬の博物館

  横浜市中区の根岸競馬記念公苑(根岸森林公園)の敷地内にある、競馬・馬事文化の関 連資料を展示した博物館である。1977 年に JRAにより開館。 同公苑は、日本で初めての 近代洋式競馬が行われた横浜競馬場(根岸競馬場)を記念して建てられたもので、この施 設では横浜競馬場の関係資料や、競馬競走の成り立ち、馬と人間の文化関係などを収蔵資 料などで多角的に紹介している。また定期的に特別展示も行われている。

米軍住宅地区
米軍住宅地区

●根岸米軍住宅地区

 根岸住宅地区( Naval Housing Annex Negishi) は、神奈川県横浜市中区・南区・磯子区  に位置する在日アメリカ海軍の住宅専用施設(米軍住宅)。2004 年(平成16 年)に日本へ の返還が日米間で合意され、2019年(令和元年) 11月 15日には日米合同委員会が共同使 用で合意した。既に 2014  年(平成 26年) 6月には域内の学校と教会が閉鎖され、 2015年 (平成 27年 ) 12 月に全住民が退去。国有地・民有地が入り組むため跡地利用が課題とな っている。 総面積は 429,259 m2  、そのうち国有が 272,756 m2 ( 63.5% )、市有が273 m2 ( 0.1%) 、民有が156,231 m2 ( 36.4% ) である。

 

ファイヤーステーションNo5
ファイヤーステーションNo5

●ファイヤーステーション No.5

  不動坂上の通り沿いに署を構える在日米軍の「  FIRE STATION No.5」 。消防署のガレー ジにはアメリカ製のボンネット型消防車が停まっている。昭和 22年(1947  )から米軍によ る接収が続く根岸住宅地区であるが、平成 16 年(2004 )の日米合同委員会において返還方 針が合意され、平成 27年 ( 2015 )にはすべての米軍関係居住者が退去している。「 FIRE STATION No.5 ―在日米海軍司令部統合消防隊第 5消防署」については居住者退去後も現 在のところ存続しており、在日米海軍横須賀基地司令部憲兵隊が立哨業務や警備を行って いるという。異国に足を踏み入れた感覚をおぼえ、横浜にある米国という地区の歴史を残 している場所。 

 

ドルフィン
ドルフィン

●カフェ&レストラン「 Dolphin」

 1969年開店当初は平屋建て、1982年2 階建 2てに建替え られた。荒井由実「海を見ていた午後」(1974)で有名になっ た。荒井が高校生の時の体験をもとにしている。ただし、三浦半 島は見えず房総半島が見える。「ドルフィンソーダ」を注文すると この曲が店内に流れる。

 

♪「あなたを思い出すこの店に来るたび、坂を上って今日もひ とり来てしまった 山手のドルフィンは静かなレストラン、晴れた午後には遠 く三浦岬も見える ソーダ水の中を貨物船がとおる、小さなあわも恋のように 消えていった

 

●不動坂とベアト写真

 根岸不動坂上から本牧三の谷方向の眺望。「新 道」というのは、1864 (元治1 )年に幕府が築いた 外国人遊歩道のこと。「ミシシッピベイ」は、風 景が似ているとのことでペリー艦隊が名づけた根 岸湾の呼称。本牧一の谷から三の谷までが切り立 った断崖の間に明確に写るが、撮影地点の不動坂 上には現在マンションが建っていてこの角度から の眺望は現在見ることができない。"The Far East " の 1870 (明治3 )年の写真として掲載された。

 

●白滝不動とベアト写真

 根岸白滝不動尊の門前。山手から根岸を抜ける 外国人遊歩道があり、不動尊前を通る不動坂より 海岸まで崖地となっていた。往時の白滝は水量が 豊かであり、外国人遊歩道の中でも特に自然景観 に富んでいたため、外国人にことのほか喜ばれた という。「 The Far East 」1871 (明治 4)年8 月 2日 号に「坂の上には根岸の海岸が広がる。滝壷で知 られる不動尊への階段にもまた男坂・女坂の区別 がある。」とある。

 ベアト 、フェリーチェ (1832-1909  英国人写真家)は 1863年頃に横浜に移住し、チャール ズ・ワーグマンと共に 「Beato & Wirgman, Artists and Photographers 」を設立し1864 (元治 1) 年から 1867 (慶応 3)年まで現在の海岸通りで共同経営していた。ベアトはワーグマンのス ケッチや作品を撮影したり、ワーグマンはベアトの写真を基に挿絵を描くなど仕事上のパ ートナーだった。「 Illustrated London News 」の挿絵画家だったワーグマンが、 1860年北京 で取材中に従軍写真家のベアトと知り合った。ベアトが 1863 年に来日したのは、これが 契機であるという。ベアトが日本で撮影したのは、軍用写真の他、肖像写真、風俗写真、 名所旧跡、都市や農村の風景などで、幕末から明治初期の日本を記録した業績は、希少価 値が高い。

        【白滝不動(本堂)】              【本堂扁額】                【不動滝】

 

聖光学園グランド
聖光学園グランド

●聖光学院中・高等学校

  聖光学院は、中区滝之上に所在し中高一貫教育カトリック系私立中・高等学校。高校か らの生徒募集をしない完全中高一貫校。1819 年にフランスで創設されたキリスト教教育修 士会の創設者であるジャン・マリー・ド・ラ・ムネの思想を色濃く残している。 校訓は 「紳士たれ」。現在の学校長は自身も卒業生の工藤誠一。近年は東大合格者数ベスト 10 に 毎年ランクインするようになり、 栄光学園とともに神奈川 2「光 」の一つとされる進学校 。野球で有名な福島県の聖光学院とは関係ない。卒業生に 小田和正(ミュージシャン、オフコースメン バー、3 期)地主道夫(建築家で現校舎の設計者、元ミュージシャン、オフコースメンバ ー、3 期) ) ・斎藤多喜夫(横浜居留地研究会長、 3期 ・松本純(衆議院議員、 6期)・大西卓 哉(宇宙飛行士、31 期)などがいる。

 

●根岸外国人墓地

 横浜市中区仲尾台にある根岸外国人墓地は横浜市内に4カ所(山手外国人墓地、狩場英 連邦戦死者墓地、大芝台中華義荘)ある外国人墓地の一つ。JR 山手駅の北西隣にある。 山の頂にある仲尾台中学校の下の法面を 4 段に築造して墓地になっているが、墓石がびっ しりと並んでいる訳ではなく、ぱらぱらと墓石が残っているといった風である。

 根岸外国 人墓地は明治35 年 (1902 年)開設とされ、関東大震災(大正 12年、1923 年)で被災し た外国人の慰霊碑や横浜港のドイツ軍艦爆発事件(1942 年)の犠牲者をしのぶ慰霊碑があ る。  墓碑のない埋葬者が多い。 第2次大戦後に連合国軍に接収され 、記録が消失したため、 正確なことは分かっていない。正門前の看板プレートがかすれているが、横 浜山手ライオンズクラブが昭和 63年(1988 年)に寄贈したものである。

 しかし 神奈川新聞(2015/08/12 版)によれば、「第2次大戦後に外国軍人軍属と日本人女性との 間に生まれた数多くの子どもたちが埋葬されている」という英文の記述が、市が案内板を 補修した平成 12年 年( 2000 年) に 第2次大戦後に埋葬された嬰児 (えいじ )(幼児 )など 埋葬者名が不明なものも多い」と書き換えたという。いわゆる「GI ベビー」については 横浜市当局が認めたくないということのようだ。進駐軍が 長く駐留した横浜ならではの歴史であり、こうした根岸外 国人墓地が観光名所となっている山手の外国人墓地とは違 った歴史の一面がある。(ドクターキムルさんのブログよ り)なお、山崎洋子著『天使はブルースを歌う~横浜アウ トサイド・ストーリー~』に詳しい。 <出典 はまれぽ.com >

       【根岸外国人墓地入口】         【墓地内】                【慰霊碑】

 

●射撃場跡(現・大和町商店街)

 1864(元治元)年に幕府はアメリカ・イギリス・フランス・オランダ各国の公使との間 に『横浜居留地覚書』を締結したが、それによって翌年の 1865(慶応元)年に、外国人射 撃場ができた。それが『鉄砲場』と呼ばれ、場所は今の大和町。イギリス軍が射撃訓練場 の建設を要求したことに対し、当初幕府は難色を示した。彼らの目的に、軍隊の訓練とい う名目のほかに、日本側への威嚇があることは幕府もわかっていた。しかし「話を引き延 ばしている」とイギリスの公使が催促し、イギリスに 9016 坪の土地が貸し付けられるこ とになった。作ったのは、イギリスの工兵隊だった。 1865 (慶応元)年、会員制射撃クラ ブ「スイス・ライフルクラブ」と「横浜ライフル・アソシエイション」が結成された。同 年 11月 8日 には最初の競技会が開催され、その後、毎週開催されることになった。

 現在の本牧通り側から、立野小学校側に撃ったと言われている。それまでこの場所は水 田だったが、 幕府が御用地として借り上げ イギリスの駐屯軍に貸与した。 これに対して 、地元農民は「射撃の練習は農作業をしない 11 月上旬から 2月下旬までに限定してほしい」 「それ以外の時期に使用したいのであれば補償金を外国人に出させてほしい」「田を踏み 荒らされると耕すときに困るので手当て金もほしい」 といった 要望を幕府に提出している 。近隣の農民には、やはり迷惑だったことがうかがえる。

 こうしてできた鉄砲場だが、 1871 (明治4 )年からは日本の軍隊も使用するようになっ た。さらにまた、イギリス軍のほかに、他国の軍隊にも使用が認められた。フランス軍も その一つだったが、イギリス軍は赤い制服、フランス軍は青黒い制服を着用していたので それぞれ赤隊、青隊と呼ばれた。

 その後、この場所は、軍事目的のみならずレクリエーションの場としても使用されるよ うになった。陸上競技場やアイススケート場も作られた記録があり、写真も残っている。 陸上競技場は、現在の本牧通りにあった。

 この射撃場は、 1887( 明治 20)年頃には国が収容した。その後は県が管理し、時を経て 個人に払い下げられた。払い下げを受けたのは石川清右衛門という民間人で、日本で初め てワイシャツを製造した人物として知られている。弁天通りにあった彼の店は「大和屋」 であった。 1910 ( 明治 43)年9 月 清右衛門は絹や木綿 下着工場を射撃場跡に建設した 自らの家屋や従業員の家も建て、それらが現在の大和町の基礎となった。一企業を中心と した町は屋号をとって通称「大和町」と呼ばれるようになり、後に正式な町名として採用 された。<出典 はまれぽ.com > 

 

無事再開できて良かったです。皆さま、お疲れさまでした。