11月9日(火)<荒天の為中止>・17日(水)・20日(土)           源頼朝建立の三大寺院を訪ねる(終了しました。)

2020年は、源頼朝による平家打倒の旗上げから840年です。治承4(1180)8月、伊豆で旗上げをし、10月に鎌倉に入ると、鶴岡八幡宮を現在地に遷座し、若宮大路を造り、鎌倉の街造りの基本軸としました。また、父・義朝をまつる勝長寿院や、義経などの奥州合戦の戦没者をまつる永福寺を建立しました。永福寺は二階堂・阿弥陀堂・薬師堂の基壇や池が復元されています。2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地も訪ねます。

 このような激動の時代を生きた(つわもの)どもの夢の跡をたどってみましょう。

   若宮大路

源頼朝は寿永元年(1182)に、鎌倉の街造りの基本軸として、鶴岡八幡宮の参道である若宮大路を由比ヶ浜まで造った。北条政子の安産祈願でもあったといわれる。北条時政などの有力御家人も土石を運んで造成したという。発掘調査によると道幅は現在より広く、33mであった。

 

中央部に盛土をした参道である段葛を造った。当初は浜の大鳥居まで続いていたが、地震や津波などにより、江戸時代には下馬四つ角までになった。明治22年の横須賀線の工事により壊され、現在の二の鳥居までとなった。

     【若宮大路】              【段葛】                【段葛】

 

  鶴岡八幡宮  

治承4年(1180)に鎌倉に入った頼朝は、源頼義が石清水八幡宮を勧請した由比郷の八幡宮(現・元八幡)を現在地である小林郷に遷した。建久2(1191)に焼失してしまったが、従来の社殿の背後の大臣山の中腹を平らにして、本宮を創建し、若宮なども造営した。

現在の社殿は、徳川幕府11代将軍徳川家斉により、文政11(1828)に造営された。国重要文化財。江戸時代までは神仏混合の鶴岡八幡宮寺であり、仁王門や護摩堂、薬師堂などの仏教の建物もあったが、明治政府による廃仏毀釈で壊された。

 

社殿の西側に丸山稲荷がある。八幡宮造営以前からあったが、八幡宮造営の時に現在地に移された。一間社流見世棚造(いっけんしゃながれみせだなつくり)という形式の建物で、明応9(1500)に造営されたとなっている。小規模であるが本格的中世和様建築である。国指定重要文化財。

    【鶴岡八幡宮遠景】          【丸山稲荷】          【白幡神社の紅葉】

 

大倉幕府跡の碑
大倉幕府跡の碑

   大倉幕府跡 

治承4(1180)10月に鎌倉に入った頼朝は大倉幕府の造営を行い、12月に完成した。寝殿造で、侍所や門注所も設けられた。東西南北に門が設けられ、有力御家人の邸宅が門を守るように配置されていた。

嘉禄元年(1225)に宇津宮辻子に幕府が移されるまでの45年間、幕府の中心であった。 

 

  源頼朝墓所

現在、源頼朝の墓がある場所に頼朝の持仏である観音菩薩像をまつる持仏堂があった。正治元年(1199)に没した頼朝は持仏堂に葬られ、法華堂と呼ばれた。

江戸時代には、現在白旗神社がある所に法華堂があった。明治の神仏分離により、頼朝を白旗大明神としてまつる白旗神社となった。

 

現在の頼朝の墓は、薩摩藩主島津重豪(しげひで)が安永8(1779)に、勝長寿院跡から層塔を移して築いた。

    【頼朝の墓入口】           【頼朝の墓】            【頼朝の墓】

 

頼朝墓所の東側の山腹に、島津忠久・大江広元・毛利季光の墓がある。忠久は島津氏系図では島津氏の祖で、頼朝の子となっている。島津重豪により頼朝の墓を造る時に造られた。毛利季光は大江広元の子で、毛利氏の祖である。これは毛利家により整備された。

石段の下に三浦一族の墓といわれるやぐらがある。宝治元年(1247)の宝治合戦で、三浦一族は頼朝の法華堂にこもり、三浦泰村ら三浦一族500余人が自決した。やぐらの手前の平地に元仁元年(1224)に没した2代執権北条義時の墓所である法華堂があった。 

  【北条義時の法華堂跡】     【大江広元・島津忠久の墓】     【毛利季光の墓】

 

荏柄天神社
荏柄天神社

 

    荏柄天神社

社伝によると、長治元年(1104)に、雷雨とともに天から天神画像が降ってきた。里人が社殿を建て、画像をまつったという。大倉御所の鬼門の守りとして歴代鎌倉幕府将軍にも崇敬された。

 

本殿は、寛永元年(1624)に鶴岡八幡宮若宮の旧社殿を移築したものと伝わる。若宮は正和5(1316)に再建され、その後修理をした記録はあるが、事実であれば鎌倉に現存する唯一の鎌倉時代の建築物である。

 

                                      

   勝長寿院跡

頼朝が父・義朝の菩提を弔うために建立した。大御堂、あるいは御所の南に有るので南御堂とも呼ばれた。後白河法皇から届けられた義朝と、最後まで義朝と行動を共にした鎌田政清の遺骨を、文治元年(1185)93日に埋葬した。1024日に落慶供養が行われた。奈良仏師の成朝(せいちょう)を招き、丈六の阿弥陀如来像を造らせ本尊とした。

実朝や政子も勝長寿院に葬られた。

 

康元元年(1256)に焼失したが北条時頼により再建された。室町時代になっても鎌倉公方により保護されたが、康正元年(1455)に鎌倉公方足利成氏が鎌倉を去ると衰微し、1516世紀には廃絶となった。

   【文覚上人屋敷跡】          【勝長寿院跡】           【勝長寿院跡】

 

鎌倉宮鳥居
鎌倉宮鳥居

 

 ⑦ 鎌倉宮(今回のテーマである頼朝三大寺院とは関係ない)

後醍醐天皇の皇子である護良親王をまつるために、明治2(1869)に明治天皇により建てられた。護良親王は鎌倉幕府打倒に貢献したが、後醍醐天皇や足利尊氏と対立し、鎌倉宮の場所にあった東光寺の土牢に幽閉された。

建武2(1335)に北条高時の子である北条時行が鎌倉に攻めこんだ中先代の乱の時に、鎌倉を守っていた足利尊氏の弟・足利直義は、逃げる際に淵辺義博に命じて、護良親王を殺させた。

 

 

 

 永福寺跡

文治5(1189)の奥州合戦で死んだ源義経や藤原泰衡などの怨霊供養のために、源頼朝が建立。平泉で見た中尊寺大長寿院などを参考にした。建久3(1192)に二階堂が、建久4(1193)に阿弥陀堂と薬師堂が完成した。前面に広い池と砂利を敷き詰めた洲浜がある浄土庭園である。

源頼家以降の歴代将軍は、蹴鞠や花見、月見、歌会などを永福寺で行っており、怨霊供養というよりも幕府の迎賓館的な使われ方をしている。

たびたびの火災で焼失し再建されたが、応永12(1405)の焼失以降は再建の記録がなく、廃絶したとみられる。

 

正面の山から、13世紀初頭の経塚が発見され、経筒や短刀、蒔絵扇、念珠などとともに櫛が出土し、鎌倉幕府に近い女性が納入したのではないかと注目された。

                       【永福寺アラカルト】

 

お疲れさまでした。