4月2日(土)・27日(水)              豪徳寺・世田谷城から松陰神社(終了しました。)

 

 2020年 は徳川幕府の大老・ 井伊直弼が踏殺された桜田門外の変から 160年、また、横浜掃部 山公園に井伊直弼像が建てられてから 110年です。井伊家の菩提寺であり直弼の基がある豪徳寺か ら、直弼による安政の大獄で処刑された吉田松陰が眠る松陰神社まで歩きます。また、戦国時代に 世田谷吉良氏の居城であつた世田谷城も訪ねます。世田谷城は豊臣秀吉による小田原政めで廃城と なり、430年前に世田谷吉良氏は滅亡しました。 このような激動の時代を生きた人々の足跡をたどつてみましょう。

《コース紹介動画》 https://youtu.be/hVBq1Ul_Qas

 

① 世田谷八幡宮

 源義家が寛治5年(1091)に、後三年の役の戦勝を記念して、宇佐八幡宮をこの地に勧請したと伝 わる。その後、天文 15年(1546)に世田谷城主である吉良頼康が社殿を修復したと伝わる。徳川幕 府より社領 11石を寄進された。 現在の社殿は昭和 39年に改築されたが、本殿の中に文化 10年(1813)に建てられた社殿が納められている。 源義家の兵士が相撲を行つたという故事から、奉納相撲が行われており、江戸郊外三大相撲のひ とつとされていた。現在でも例大祭(9月 中旬)に は、東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われて いる。

        【世田谷八幡宮社殿】                       【奉納相撲土俵】

 

 

② 勝光院  延命山勝光院 曹洞宗

 吉良治家が建武2年(1335)に建てた龍鳳寺を、天正元年(1573)に 吉良氏朝が父・頼康の菩提のために再興し、寺名を頼康の法号である勝光院と改めた。この時に臨済宗から曹洞宗に改宗した。徳川家康から 寺領 30石を与えられた。 本尊の虚空蔵菩薩と清水寺式千手観音菩薩坐像がまつられている。 氏朝の孫・義祗以降の歴代吉良氏の基がある。 

             【山門】                                 【本堂】

 

 

招福殿
招福殿

③ 豪徳寺 大谿山洞春院豪徳寺 曹洞宗

 世田谷城主吉良政忠が、文明 12年(1480)に伯母弘徳院の菩提のために世田谷城内に建てた弘徳院が前身である。寛永 10年(1633) に彦根藩井伊家の菩提寺となり、2代藩主井伊直孝の法号から豪徳寺 となつた。 関東大震災後に再建された山門を入ると、延宝 7年(1679)銘のあ る梵鐘がある。江戸時代の鋳物師藤原政次の作で、世田谷区内では最 古。細身で均整のとれた形である。  鐘楼の先にある仏殿は、延宝 5年(1677)に井伊直孝の長女である掃雲院により建立された。 裳階付入母屋造りの黄檗様式で、仏殿内には、江戸時代の仏師祥雲による阿弥陀・ 釈迦・ 弥勒の 三世仏坐像がまつられている。祥雲は目黒五百羅漢寺の五百羅漢像も造つている。 奥には井伊家の墓地があり、井伊直孝や桜田門外の変で暗殺された井伊直弼などの墓がある。 豪徳寺|ま招き猫発祥の地ともいわれる。 

      【井伊直弼の墓】            【井伊直孝の墓】            【井伊直安の墓】

 

 

世田谷城跡案内板
世田谷城跡案内板

④ 世田谷城跡

 世田谷城の築造年代は明確ではないが、吉良治家が永和 2年(1376)に鶴岡八幡宮にあてた寄 進状から、苦良氏の領地が世田谷郷にあつたことがわかる。14世紀後半には築かれたと思われる。 吉良治家は鎌倉公方足利基氏より、世田谷郷を蒔田郷や小田中郷とともに与えられた。 その後、小田原北条氏との関係を強めた。豊臣秀吉による小田原攻めで、世田谷城では戦闘は行 われなかつたが、廃城となつた。世田谷城の石が江戸城築城に使われたといわれる。 世田谷城は烏山川が蛇行する地点の北側に突き出た台地上に築かれている。豪 徳寺のあたりが本丸であつた。 世田谷城址公園や近隣の住宅地、豪徳寺境内に土墨や空堀の一部が残つている。 世田谷城には、『さぎ草物語』 という吉良頼康の側室常盤姫にまつわる悲しい伝説がある。

 

 

⑤ 浄光寺

 浄土宗。世田谷代官大場家の菩提寺で、大揚信久以降の歴代世田谷代官の基がある。 桜田門外の変の時の代官であつた大場与―景福と美佐夫妻の墓がある。大場美佐は当時のことを 「大場美佐日記」に書き残している。

            【本堂】                           【大場与一景福の墓】

 

 

表門
表門

⑥ 世田谷代官屋敷

 大場氏は大庭景親の子孫といわれ、世田谷吉良氏に仕えていた。 世田谷郷が彦根藩井伊家の領地となると、大場氏は井伊家世田谷領の代官職となつた。母屋は江戸時代中期の 18世紀前半の建築 で、茅葺寄棟造りである。切腹の間といわれる部屋があり、事ある時はいつでも腹を切る覚悟で職務にあたっていたといわれる。 長屋門とともに国指定重要文化財。 門前の道がボロ市通りで、12月 と 1月の 15・ 16日 にボロ市 が開催される。小田原城主北条氏政が、天正 6年(1578)に世田谷 新宿に宛てた 「楽市掟書」がボロ市の起源だといわれる。この楽市 によって吉良氏の世田谷城下が繁栄した。 隣接地に昭和39年に世田谷区立郷土資料館が開設され、原始時代 から現代までの世田谷の歴史がわかる展示がされている。                         (2022年 4月 1日から2023年 3月 31日 まで休館) 

         【母屋】               【母屋内部】                 【白洲跡】

 

 

⑦ 桂太郎墓

 桂太郎は長州藩出身で、台湾総督や伊藤博文内閣の陸軍大臣など歴任し、明治 34年(1901)に首相となつた。日露戦争の開戦を決断し、日露戦争を主導した。桂太郎は吉田松陰を敬愛しており、遺 言により松陰神社の隣接地に葬られた。 歴代首相の中で、通算で在職期間が 2886日 と最長であつたが、2019年 11月 20日 に安倍晋 三首相が最長となつた。 

 

 

⑧松陰神社

  安政 6年(1859)に処刑された吉田松陰は、千住小塚原に埋葬されたが、高杉晋作や伊藤博文など によりこの地に改葬された。明治 15年(1882)に松陰の門弟たちにより神社が創建された。境内に 並ぶ 32基の石灯籠は、毛利元昭(最後の長州藩主毛利元徳の長男)や伊藤博文、山県有朋、桂太郎、 乃木希典などにより奉納された。境内には松下村塾が実物大に再現されている。 松陰神社がある場所は、現在の若林公園や国士舘大学の土地も含め、江戸時代には長州藩の若林抱屋敷があつたところである。

        【社殿】                 【吉田松陰の墓】           【松下村塾復元】

 

お疲れさまでした。