1月24日(水)・29日(月)             旧東海道戸塚宿を歩く(終了しました)

  旧東海道戸塚宿は江戸日本橋から約43㎞で、男の脚でほぼ1日の行程にある。江戸から5番目の宿場で、箱根越えする男性の旅人は小田原への中間にあたる戸塚で宿泊するのが常であった。また、鎌倉道、八王子道、大山道などの分岐点でもあり交通の要衝としても大いに利用され、賑わった。

 

 

《コース紹介動画》   https://www.youtube.com/watch?v=hRKsKc5B0Fk

 

 

JR戸塚駅で集合&概要説明
JR戸塚駅で集合&概要説明

 戸塚宿概要

旧東海道戸塚宿は江戸日本橋から5番目の宿場で、江戸を立ち最初の宿泊地ともなり、鎌倉道などの分岐点でもあった。(女性連れの場合、一つ手前の保土ヶ谷宿が一泊目)

矢部・吉田・戸塚の3町に問屋場があり、本陣・旅籠などが集中した戸塚町が宿場の中心である。戸塚宿の範囲は見附間の約2.3km20町19間)。規模は、戸数 613軒、人口2906人、本陣2、脇本陣3、旅籠屋75などとなっていた(天保14年東海道宿村大概帳)。神奈川県下では小田原に次いで宿泊施設の多い宿場となっている。

戸塚宿は、東海道に宿駅制が敷かれた慶長6(1601)年の3年後の慶長 9(1604)年に公認の宿場として指定された。当初藤沢宿の反対で戸塚宿は指定されなかったが、保土ヶ谷宿と藤沢宿間の距離が49町と長いことや名主・澤邉宗三らの幕府への強力な働きかけで実現した。

 

 

柏尾川沿いを歩く
柏尾川沿いを歩く

柏尾川

  戸塚区柏尾町付近から藤沢市川名で境川に合流するまでの約11㎞で、高度差が12mと小さく、曲がりくねった流路もあり大雨が降ると度々氾濫した。戸塚駅から大船駅までの堤防には江戸時代から続く桜並木があり、地域の憩いの場所となっている。

 

 

 

 

 

 

駒立橋
駒立橋

駒立橋

  昭和8年から17年まで、現日立研究所および東戸塚小学校の地には水田を埋め立てて作った戸塚競馬場があった。馬場の幅30m、周囲1600mのコースは当時日本最大規模のコースだった。この橋付近で厩舎から競馬場へ向かう馬の仕度を整えたことから駒立橋という名称になった。競馬は春秋2回各4日間、112レースあった。入場は無料、4日間で20万人が押し寄せたといわれる。この混雑を緩和するため昭和12年、戸塚駅に東口が開設されたという。

 

 

吉田大橋
吉田大橋

吉田大橋

  江戸からの旅人が戸塚宿に入るとすぐに渡るのが、柏尾川にかかる吉田大橋。広重の東海道53次「戸塚」に描かれるこめやの傍に鎌倉道の道標がある。多くの旅人がこの道を左に折れて鎌倉や江の島など観光地に向かった。橋を渡り右へ向かうと八王子道、まっすぐ行くと戸塚宿中心部を経て上方へ続く交通の要衝であった。当時の橋は長さ10間、幅2間半の板橋であった。街灯は大名行列の長柄の馬簾を模したもの。

 

 

妙秀寺境内
妙秀寺境内

妙秀寺

  日蓮宗身立山妙秀寺。豊島修理太夫某の母が開基、身立院日修を開山に延文元年(1356)に創建。本尊は釈迦如来。吉田大橋畔にあった「かまくら道」道標が残っている。戸塚七福神巡りの一つで伝伝教大師作の弁財天を祀っている。

 

 

江戸方見付
江戸方見付

江戸方見付

  戸塚宿の江戸側出入り口。横浜市史跡。見付は文字通り、宿場への出入り口を見張るために設置されたもので、反対側の上方見付まで約2.3㎞が戸塚宿内である。

 

 

 

 

八王子道道標
八王子道道標

ほしのや道・八王子道道標

  座間の星谷寺(坂東33観音第8番札所、星谷寺七不思議で有名)への参詣道、さらには八王子へ至る道が通っていた。淡島明神への表示もあるが、これは上矢部の大善寺裏山に祀られる淡島社への道標である。(淡島は女性に関するあらゆることに霊験ある神)

 

 

本堂
本堂

善了寺

  浄土真宗本願寺派、大島山善了寺。天福元年(1233)江戸善福寺の僧、釈了全が開山、本尊は蓮如作と伝わる阿弥陀如来。天正年間(15731592)に再興された。明治初期、善了寺境内に小学校の前身となる明允学舎が置かれた。スローデザインの本堂は2016年に再建した。琵琶湖の葦で葺いた壁(ストローベイル工法)と野面積みの基盤は坂本から穴太衆の職人を招き積ませたそうだ。江戸時代には問屋場が置かれ、戦前まではこの付近に競馬場の厩舎が置かれていた。

 

 

吉田町問屋場跡
吉田町問屋場跡

矢部町問屋場跡

 戸塚宿には矢部、吉田、戸塚3か所の問屋場があり、業務を分担していた。毎月14日までは矢部が、5日~11日は吉田、12日~晦日は戸塚が交代で担当していた。

問屋場では公用で旅する武士や旅人の宿泊、荷物の運搬などを行うため、馬や人足の手配、荷物の積み替え、帳付け(駄賃の授受)などを行った。

 

 

説明版の前で
説明版の前で

戸塚の大踏切

  JR東海道線・横須賀線・貨物線などの通過車両が多く、「開かずの踏切」として悪名高かった。吉田茂が国会に通う時、あまりにも踏切が空かないのに業を煮やし、踏切を通らない道路を作らせたり(いわゆる「ワンマン道路」)、箱根駅伝のランナーが踏切で止まって長い間渡れなかったりしたことで有名。(駅伝はその後、走路を変更)。ピーク時には1時間のうち57分が遮断機が下りていたが、2015年にはアンダーパスが全面開通し、戸塚大踏切が閉鎖された。人々は戸塚大踏切デッキを行き交う。開かずの踏切問題も解消され戸塚の東西一体化が進んだ。

 

 

清源院

 浄土宗知恩院末、南向山長林寺。もとは鎌倉長林氏建立の長円寺。徳川家康側室だったお万の方が辞して岡津の草庵に閑居していた時、家康の危篤の報に接し、駿府へ駆けつけた際に阿弥陀如来像を拝領。家康死後に小石川伝通院三世白誉を開山に迎えこの地に清源院を創建した。「清源院」はお万の方の法号。境内には清源院尼遺骸火葬の跡碑、芭蕉句碑、心中句碑がある。

・芭蕉句碑「世の人のみつけぬ花や軒のくり」がある。当地の俳人が建てたもの

・心中句碑「井にうかぶ 番ひの果や 秋の蝶」大島屋清三郎19歳と伊勢屋の飯盛女ヤマ16歳の心中を哀れんで時の住職が手向けた句

       【本堂前】           【清源院尼遺骸火葬の跡碑】           【心中句碑】

 

 

内田本陣跡碑
内田本陣跡碑

内田本陣跡

  戸塚宿にあった二本陣のうちの一つ。本陣は大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊できた。間口が18間(32.8m)・奥行14間(25.5m)で152畳の広さがあったという。内田本陣は明治6年郵便局となった。現在の大和証券、スルガ銀行あたりにあった。

 

 

脇本陣

  現郵便局付近に脇本陣が2軒あった。中宿から台宿あたりが戸塚宿の中心である。脇本陣は本陣の代わりに利用されるもので、本陣の部屋が不足するときなどに利用されるが、本陣とは異なり、大名などの宿泊が無いときは一般旅客の利用にも供された。

 

 

澤邉本陣跡
澤邉本陣跡

澤邉本陣跡

  戸塚の名主を兼ねる名家で、当主澤邉宗三は慶長9年(1604)幕府へ強力に働きかけを行い、藤沢宿の反対を押し切って戸塚宿の開設を実現した。これには澤邉宗三の妹が嫁いだ代官頭彦坂元正の力が大きかったともいわれる。明治天皇東下の際には行在所となる。敷地内の羽黒神社は弘治2年(1556)、祖先の澤邉河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まり。

 

 

鎌倉郡役所跡

 明治11年鎌倉郡役所が戸塚に設置され、明治43年には現消防署の場所に新築移転した。大正15年に廃止されるまで所在。戸塚が鎌倉郡の中心だったことを示している。江戸期にはここに大旅籠の藤家金子家があった。

 

 

八坂神社

  元亀3年(1572)に郷士内田兵庫が牛頭天王を勧請して創建と伝わる。戸塚宿の鎮守で通称「お天王さま」と地元民から親しまれている。毎年714日に無病息災を祈願して「お札まき」(横浜市指定無形民俗文化財)が行われるが、これは女装してたすきをかけた男子が10人、島田髷のかつらをかぶり団扇を持って町内を練り歩き、5色のお札を宙に舞わせて歌い踊るもの。お札を拾った人は幸運が授かるといわれる。田仕事が終わった農民で大いに賑わった。神社前に高札場があり、宿場の中心として賑わいの場所であったことを思わせる。

              【鳥居】                            【八坂神社】

 

 

富塚八幡宮

 源頼義・義家が前九年の役の後、延久4(1072)に社殿を造営したと伝わる。祭神は誉田(ほんだ)別命(わけのみこと)冨属彦(とつきひこの)(みこと)(相模国造二世孫)で、戸塚総鎮守となっている。社殿の裏山は未発掘であるが、冨属彦命が葬られているとされる5世紀前半の前方後円墳があり、富塚と呼ばれている。これが戸塚の地名の起こりの一つとされている。境内に芭蕉句碑「鎌倉を生きて出けむ初かつお」がある。当時鎌倉は鰹の産地で、獲れた鰹は押し送り船で江戸に送られた。北斎の浮世絵「神奈川沖の浪裏」に描かれている。

       【芭蕉の句碑前にて】                        【社殿】

 

 

上方見付跡碑
上方見付跡碑

上方見付跡

  戸塚宿の上方側出入り口。高さ60cm、幅105㎝、長さ150㎝の凝灰岩切石の石積みに囲まれた中に楓の木が植えられていた。道路反対側にも石積みが復元され松の木が植えられている。この先の坂を大坂と呼び、坂上に続いていた。明治末期まで坂下には木賃宿が立ち並んでいたようだ。

 

 

大坂

  今は緩やかな坂になっているが昔は切通しのある急坂だった。一番坂(60m、10分の1の勾配)、平場(150m)、二番坂(60m、12分の1の勾配)が続き、荷車や牛馬車などはまっすぐ上がれず蛇行しながら坂上へ上って行ったという。車の後押しを商売にする人がいたそうだ。坂を上がりきると松並木があり、木々の間から富士山が眺められ、浮世絵の題材として多く描かれている。次宿藤沢まで2里の行程。

 

お疲れさまでした。2日とも晴天に恵まれました。