2月13日(火)・16日(金)               相模湾の魚を運んだ魚荷道を歩く                     ~逗子から田浦へ~         (終了しました)

江戸時代、相模湾で獲れた漁獲物三浦半島浦賀沖を大廻りせず、半島の根元を西から東へ牛馬に載せて横断し江戸湾(内海)側の榎戸湊(横須賀市)へ到り、日本橋魚河 岸へ押送舟で運ぶ最短ルートが用いられる時期がありました。この道を「魚荷道」と呼びました。今回は、逗子市桜山の田越川下流にあった荷揚げ場を拠点として、横須賀市 深浦にあった榎戸湊をめざして当時の面影を感じながらそのルートをたどります。

《コース紹介動画》   https://youtu.be/slY7er-IyBQ

 

〇京急逗子・葉山駅

1948年(昭和23年)6月ー 東急からの分離独立により京急の駅となる。7月ー路線延長の形で「逗子海岸駅」として旧「葉山口乗車場」を復活させる。

1963年(昭和38年)11月ー「湘南逗子駅」を「京急逗子駅」に改称する。

1985年(昭和60年)3月ー輸送力増強により最大8両編成の列車に対応するため「京浜逗子駅」と「逗子海岸駅」を廃止・統合し、中間地点に「新逗子駅」を設置。北口は旧京浜逗子駅舎をそのまま流用、南口は新設した。南口駅舎はダンスホールもあったかつての旧湘南逗子駅舎の形を残している。

2020年(令和2年)3月ー「新逗子」から「逗子・葉山駅」に改称する。

 

顕彰碑
顕彰碑

〇徳富蘇峰碑

この場所は、小説家徳冨蘆花がよく滞在した庭園「魚楽園」(兄蘇峰が建てた)跡地であり、蘆花の兄ジャーナリスト・思想家・歴史家、徳富蘇峰(猪一郎)の顕彰碑や文句が彫られた顕彰碑・石碑が蘇峰の子孫によって建てられた。現在もご子孫が居住されている。なお、兄弟によって「冨」「富」の文字が意図的に使い分けられている。

 

 

田越橋旧荷揚場跡を望む
田越橋旧荷揚場跡を望む

〇田越橋旧荷揚場跡、旧名主石渡家

田越橋近くにある江戸時代の名主・石渡家の前の田越川河畔で漁獲物の荷揚げを行い、牛馬に積み替えて陸路を深浦湾榎戸湊まで運び、押送船に積み替え海路にて江戸日本橋魚河岸まで高速で運んだ。表門や土蔵が残る石渡家には多くの古文書が所蔵されていた。他に鎌倉材木座(飯島)から朝比奈峠を越え、野島に至るルートもあった。これらは享保年間にできた浦賀奉行所(番所)での「船改め}を避ける目的もあったと思われる。

 

 

宗泰寺
宗泰寺

〇宗泰寺

真言宗、通称さくら山寺と呼ばれ、延命寺末で石渡家菩提寺である。本尊は阿弥陀如来立像で、左右両手の位置が逆になる逆来迎印という珍しい仏像。逗子市重要文化財の十王座像と奪衣婆座像も祀られている。

逗子市教育委員会掲示によると、「十王思想による冥府には、泰広・初江・宋帝・五官・閻魔・変成・太山・平等・都市、五道転輪の十王がいて死者が生前の罪を裁くと説く。宗泰寺十王像はいずれも寄木造。閻魔王像の底の墨書銘により貞享2(1685)年鎌倉扇ヶ谷の仏師加賀によって造られたことがわかる。台座の裏には本像を寄進した願主石渡孫右衛門の名が記されている。この他に三途の河のほとりにいて死者の着物を奪うといわれる奪衣婆の像がまつられている」とある。

この寺から県道までは、曲がりくねっていて旧道の雰囲気が残っている。

 

 

〇金剛寺

高野山真言宗、惠日山と号する。創建年代等は不詳ながら、江戸期には檀家を持たない寺だったという。『新編相模国風土記稿』による縁起に「櫻山村金剛寺惠日山と號す、古義真言宗(逗子村延命寺末)本尊彌陀」とある。本堂左手に古井戸がある。

            【本堂】                                【古井戸】

 

 

石塔群
石塔群

〇桜山石塔群

庚申塔や堅牢地神、馬頭観音、疣地蔵尊などが祀られている塚で、『逗子町誌』(昭和3(1928)年刊)に、「地蔵尊字地蔵山の道の側にあり、弘法大師の作と伝えられ、もとは岩屋にあり、疣(いぼ)地蔵と称し之れに祈願すれば必ず治ると伝ふ。」とある。この庚申塚の中心にある地蔵尊(疣(いぼ)地蔵)が、地蔵山という地名の起こりになったといわれる。その風化の度合いから見ても相当古い地蔵である。 年代が判明するのは以下である。                                                                           

■堅牢地神塔(安政6年(1859年)銘)            ■南無阿弥陀佛(文政10年(1827年)銘)徳本塔   

■庚申塔(大正9年(1920年)銘)                 ■石仏(天保6年(1835年)銘)                

■ 庚申塔(阿弥陀)(称徳3年(1713年)銘)      ■馬頭観世音(昭和5年(1930年)銘)           

■庚申塔(延宝3年(1675年)銘)  

 

 

〇観蔵院

天台宗、三浦観音霊場札所第23番、本尊は十一面観世音菩薩(伝行基作、秘仏)蓮沼山観蔵院は、神武寺の唯一現存する塔頭(末寺)。かつて、桜山丘陵には〈観蔵院〉・〈法竜院〉・〈地蔵院〉の神武寺末寺三寺がならんでおり、観蔵院には十一面観音像、法竜院には不動明王像、地蔵院には地蔵菩薩像がそれぞれ本尊として祀られていた。しかし法竜院と地蔵院が廃寺となり本尊のみ観蔵院に合祀され、その後、池子の〈仏向庵〉の本尊阿弥陀如来立像も遷座し、観蔵院は神武寺の末寺四ヶ寺の本尊を合わせてお祀りする寺となった。

幕末の地誌『三浦古尋録』桜山村の項によると、「奈良吉野山の桜は鎌倉時代に夢窓国師がこの地に植えられていた桜を誉め分け植えたもの」とあるが真偽は不明である。

            【本堂】                             【境内の桜と梅】

 

 

四脚門
四脚門

〇海宝院

神武寺の建つ丘陵の南側に位置する曹洞宗の寺院。徳川家康が関東の治世にあたっていたころ、駿河国出身の僧、支源臨乎が横須賀村の良長院をここに移し、院号を改めたと伝えられる。この際に、江戸初期三浦郡代官頭、長谷川七左衛門長綱が支援したことから、境内本堂左手裏に長綱をはじめ一族の墓が祀られている。

銅鐘は本堂内にあり、北条早雲陣鐘と伝えられる。早雲が三浦道寸の新井城を攻略の際、陣鐘として使用していたものが戦後その陣営地におかれていて、代官長谷川長綱が海宝院建立のとき寄付したものと思われる。

本尊は十一面観音菩薩で、14世紀前後の東国で広く流行したいわゆる宋風様式である。南北朝時代から14世紀後半頃の作品と見られ、逗子市内の仏教彫刻の中では珍重すべき佳作である。なお、光背裏面には長文の朱書銘があり、寛文十二年(1671)に大がかりな修理がおこなわれたことがわかる。また、本像は当寺の開基長谷川七衛門長綱が家康から与えられた像といわれる。

海宝院の四脚門(主柱2本の正面と背面にそれぞれ2本づつの側柱をたてた門)は鎌倉地方の室町時代末期の特徴をよく示す江戸時代初期の建築として重要な価値がある。海宝院は、寛政2年(1790年)、本堂や山門など堂舎の大半を焼失する災禍に見舞われたが、この門だけは被害をまぬがれたものと思われ、海宝院創建時の建築であると考えられる。

        【鐘楼】            【長谷川七衛門長綱一家の墓】      【石原慎太郎一家の墓】

 

 

〇光照寺

真言宗、頼朝兄義平の供養のため創建されたとの伝承がある。開創の時期は明らかではないが、『新編相模国風土記稿』に逗子村延命寺の末寺として記載されている。本尊の阿弥陀如来立像は、眼差のやや鋭い整った顔立・張りの強い面部・腹部の複雑な衣の襞などは、よく中世の写実性を示す。慶派の流れを汲む仏師の作品であると推定される。市内に伝わる鎌倉時代後期の佳作である。

              【本堂】                       【阿弥陀如来立像の説明版】

 

 

〇沼浜城址(法勝寺裏手)

鎌倉幕府初代将軍源頼朝の父・源義朝の居館は、現在の鎌倉寿福寺にあったが、逗子にも沼浜城といわれた義朝の居館があって沼浜亭、沼浜館ともいわれた。「吾妻鏡」に記載がある。

 

 

〇五霊神社

沼間の鎮守、五霊神社は、天手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祭神とし、逗子市内で最も長い歴史を持つ神社の一つである。源頼朝の父・義朝が沼浜の館の守護神として勧請したのが始まりと伝えられる。境内には高さ25m、幹回り6mの樹齢800年ともいわれる大きなイチョウがあり、周りに茂る暖帯性海岸広葉樹の社叢林とともに県の天然記念物に指定されている。

              【本宮】                             【大イチョウ】

 

逗子市と横須賀市の市境のトンネル
逗子市と横須賀市の市境のトンネル

 

〇がらめき切通し

がらめきの切通しは、東海道保土ヶ谷宿と奉行所が置かれていた浦賀を結ぶ、かつての浦賀道の一部だった古道。現在は、鷹取山ハイキングコースの一部になっている。

浦賀道は、東海道から浦賀へと到る脇往還。保土ヶ谷宿と戸塚宿より延びる2本の道があり、三浦半島各地へ向かうための交通路として利用されていた。771年(宝亀2年)に武蔵国を編入するまで東海道は三浦半島から対岸の上総国へ抜けており、鎌倉~馬掘付近の経路は後の浦賀道と重なる。鎌倉時代には鎌倉から三浦半島へ通じる唯一の道として重要視されていた。また保土ヶ谷からの道は鎌倉時代に開かれたとされる。

           【がらめき切通し】                    【途中から深浦湾榎戸湊を望む】

 

 

〇浦郷公園(榎戸湊) ※切通し付近から眺められます。実際には行きません。

深浦湾はその昔、能永寺の門前付近までが海岸で、榎戸湊と呼ばれる海上交通の要所だった。鎌倉時代には外港として、江戸時代には漁港として栄えたといわれる。

 

〇京急田浦駅 (JR田浦駅とは1.5Km離れている)

1930年(昭和5年)4月 - 湘南電気鉄道の湘南田浦駅として開業。

1941年(昭和16年)11月 - 湘南電気鉄道と京浜電気鉄道が合併、京浜電気鉄道の駅に。

1942年(昭和17年)5月 - 京浜電気鉄道が東京横浜電鉄へ合併。東急電鉄の駅となる。

1948年(昭和23年)6月 - 京浜急行電鉄が発足、同社の駅となる。

1987年(昭和62年)6月 - 京浜田浦駅から京急田浦駅に改称。

 

お疲れさまでした。        魚荷道は如何でしたか?