10月20日・27日 足利氏ゆかりの地を歩く(終了しました)

光触寺山門
光触寺山門

 足利氏は、源義家の四男・義国が下野国足利荘(現・栃木県足利市)を領し、義国の次男・義康から足利氏を称しました。今回は、足利氏の中でも、鎌倉に縁の深い足利義兼・尊氏・直義・持氏の4人に焦点をあて、ゆかりの地を歩きます。

 岩蔵山光触寺(こうそくじ):弘安2年(1279)創建と伝わります。もとは真言宗の寺でしたが、開山の作阿が一遍に帰依し時宗に改めたと伝わります。本尊の阿弥陀如来立像(国重文)は「頬焼阿弥陀」として知られており、鎌倉公方足利持氏寄進と伝わる厨子の中に安置されています。本尊は脇侍の観音・勢至菩薩とともに鎌倉時代前半の作といわれ、慶派仏師の作です。もと大慈寺の本尊であった丈六像の仏頭も本堂に安置されています。

塩甞(しおなめ)地蔵
塩甞(しおなめ)地蔵

 もとは金沢街道の傍らにありましたが、六浦の塩商人が鎌倉へ塩を売りに行くときに、この地蔵に初穂として塩を供えていくと、帰りには塩がなくなっており、地蔵が嘗めたのだろうということで、塩なめ地蔵とよばれるようになりました。

大江広元邸跡
大江広元邸跡

 大江広元邸跡: 大江広元は下級貴族でしたが、兄である中原親義が頼朝に従っていたことから、鎌倉幕府の公文所の別当、政所の別当となりました。「吾妻鏡」によると、承久の乱では朝廷に対し徹底抗戦を主張、幕府軍を勝利に導いた功労者の一人としています。頼朝の死後も、幕府の中心人物として幕府の基礎を築きました。石碑に「毛利氏の鼻祖」とあるのは、広元の四男・季光(すえみつ)が相模国毛利荘(現・厚木市)を領して毛利氏と称したことからです。後の長州藩毛利氏につながります。

大慈寺跡
大慈寺跡

 大慈寺(だいじじ)跡: 3代将軍源実朝が父・頼朝の恩に報いるために、建暦2年(1212)に創建しました。建保2年(1214)には、実朝や北条政子などが列席して、栄西により大法要が行われました。勝長寿院の大御堂に対して、大慈寺は新御堂といわれました。建保5年(1217)に実朝が宋の能仁寺から請来した仏舎利が大慈寺に納められました。この仏舎利は弘安8年(1285)に北条貞時により円覚寺に移され、現在は円覚寺の国宝舎利殿に納められています。大慈寺は七堂伽藍を備えた大寺院でしたが、江戸時代にはかろうじて丈六堂が残るのみでした。その丈六堂の阿弥陀如来の仏頭が現在光触寺に安置されています。

明王院
明王院

 明王院: 4代将軍藤原頼経が嘉禎元年(1235)に、鎌倉の鬼門除けとして建立。五大明王をまつる五大堂が建てられ五大堂明王院とよばれました。将軍御願寺として高い格式を持ち、明王院別当職は鶴岡八幡宮寺・永福寺・勝長寿院と並ぶ四大重職でした。寛永年間の火災により不動明王のみが残ったといいます。不動明王像は「吾妻鏡」によると、肥後別当定慶の作といいます。

 本堂は茅葺で堂内には五大明王がまつられ、両脇に大日如来と薬師如来、前面に藤原頼経像がまつられています。

 明王院の西側奥は梶原景時屋敷跡と伝わりますが、確認できる痕跡は何も残っていません。梶原景時は頼朝死後の正治元年(1199)12月に鎌倉を追放され、屋敷は破却されました。朝夷奈切通の手前にある太刀洗は梶原景時が上総介広常を斬ったあと太刀を洗ったところと伝わります。

足利公方邸跡
足利公方邸跡

 足利公方邸跡: 頼朝の挙兵に従った足利義兼以来の足利氏の屋敷跡といわれています。義兼は頼朝と従兄弟関係にあたり、義兼の妻は北条政子の妹で、義兄弟にもあたります。文治3年(1187)には、義兼の妻が危篤となり、政子が妹を見舞っています。

 室町時代には鎌倉府の政庁となりました。貞和5年(1349)、足利尊氏が四男の基氏を鎌倉に下し、室町幕府の機関として鎌倉府が設置され、その首長を鎌倉公方と呼ぶようになりました。以後、鎌倉公方は基氏の子が世襲します。2代氏満・3代満兼・4代持氏と続きましたが、室町幕府や関東管領の上杉氏と対立し、永享の乱(1438~39)で持氏が自刃し途絶えました。のちに持氏の子・成氏(しげうじ)が鎌倉公方となりますが、成氏も室町幕府や上杉氏と対立し、康正元年(1455)古河に移り、古河公方と呼ばれました。鎌倉公方が鎌倉を去ってからは、鎌倉は急速に衰退していきました。

青砥藤綱邸跡
青砥藤綱邸跡

 青砥藤綱(あおと ふじつな)邸跡: 青砥藤綱は北条時頼に仕え、評定衆となりました。「弘長記」(幕府内部の動きなどを記した史書)によると、藤綱のことを「富んで奢らず、威あって猛からず、質素をこととし、貧者には慈悲深く、私利私欲なく、正直をもととし、古今に並びない賢者」と評しています。「太平記」に、川に落とした10文の銭を探すのに、50文で松明(たいまつ)を買って10文を探したという有名な話が載っています。作られた鎌倉武士の理想像で、実在はしなかったという説もあります。「吾妻鏡」には藤綱のことは書かれていません。

浄妙寺
浄妙寺

 浄妙寺: 足利義兼が退耕行勇を開山として建立した密教系の極楽寺が、義兼の子・義氏の時に蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となり、臨済宗浄妙寺となったといいます。山号は稲荷(とうか)山、臨済宗建長寺派。

 足利尊氏の父・貞氏は浄妙寺殿と呼ばれ、中興開基とされています。境内には貞氏の墓(下・左)があります。境内奥には、足利直義墓(下・右)と伝わるやぐらがあり、直義はこの場所にあった延福寺に幽閉され、死去したと伝わります。

 元享3年(1323)の北条貞時の十三回忌法要には浄妙寺から51人の僧が参列しており、その当時、鎌倉で10番目くらいの規模の寺院であったと思われます。足利義満が京都と鎌倉の五山制度を定めたとき、鎌倉五山の第五位となり、塔頭も23院あったといいます。

 

報国寺
報国寺

 報国寺: 開山は天岸慧広(仏乗禅師)で建武元年(1334)、開基は足利尊氏の祖父・家時といわれていますが、上杉重兼という説もあります。家時が建てた寺を重兼が報国寺としたのではないかともいわれます。山号は功臣山。臨済宗建長寺派。

 本尊は南北朝時代作の釈迦如来坐像で、鎌倉における宋風彫刻の典型的な法衣垂下像です。茅葺の鐘楼の脇には大きな五輪塔とその周りに小さな五輪塔があります。これは由比ヶ浜で発掘された人骨を、昭和40年にここに改葬し供養したもので、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの時の戦没者の遺骨といわれています。天岸慧広の没後、弟子たちが塔所として建てた休耕庵が廃絶した跡地に、竹を植えて竹の庭となりました。

足利家時・義久墓所
足利家時・義久墓所

 竹の庭の右手前方の崖の中腹に大きなやぐらがあります。足利家時と義久の墓と伝わります。足利義久は鎌倉公方足利持氏の子で、永享の乱(1438~39)で敗れた持氏は、瑞泉寺の近くにあった永安寺(ようあんじ)で自刃し、義久は報国寺で自刃しました。義久は10歳(14歳の説もある)でした。