11月30日(水)・12月5日(月)・8日(木)    鎌倉街道「下の道」⑤ 三ッ沢上町~保土ヶ谷      (終了しました。)

 

鎌倉街道「下の道」の5回目です。今回は横浜市神奈川区から保土ケ谷区に入ります。このコースは、最初はゆるい坂が続きますが、三ツ沢公園をピークにやがて尾根道に入り、あとは帷子川、旧保土ケ谷宿に向かって正にヒザが笑うような坂を一気に下ります。往時の尾根道は右に富士や丹沢を、左に神奈川の海を望む、さぞかし風光明媚な道筋だったのではないでしょうか。さて、スタート地点の豊顕寺は、小田原北条氏の有力家臣だった多米氏一族の活躍とその栄光の軌跡を残す史跡です。また、かつての護国寺の跡地を中心に造られた三ツ沢公園は、緑豊かな園内に陸上競技場やサッカースタジアム、桜山や花壇広場などがあり、今では横浜市民の大きな財産となっています。保土ケ谷区に入ってからは、鎌倉時代にタイムスリップしたような神明社で榛谷御厨の歴史を、保土ケ谷宿では江戸時代の諸相を、そして明治以降、日本の産業興隆の一翼を担った「工業地帯保土ケ谷」から現代的なビジネス街「YBP」へと変貌した姿など、「歴史の町保土ケ谷」を満喫できるでしょう。本コースは、鎌倉街道「下の道」の道筋の中でもハイライトの一つとなる行程です。ぜひ、多彩な史跡をご堪能ください。

 《コース紹介動画》https://youtu.be/XNg-JDUEOZU

 

1.豊顕寺(ぶげんじ)

山号は法照山。法華宗。天文年間153255、多米元興が三河国多米村(現豊橋市)にあった菩提寺を現在地に移したことに始まるという。多米氏は小田原北条氏の「御由緒家」として、北条氏と盛衰を共にした。1720(享保5)年、幕府から檀林(三沢檀林)設立の許可を得て、4年後に開講した。その規模は学舎5棟、学寮25棟、学徒は常に300人余を数えたという。往時の寺域は52,000坪、桜の名所としても賑わったとのことです。幕末、シュリーマンが訪れています。

              【赤門】                           【本堂】

 

多米家の墓所
多米家の墓所

多米氏とは

三河国多米郷(豊橋市)の豪族。元益→元興→元忠(長宗)→忠之(長定)の4代。青木城(横浜市)の城主。初代元益は初期から北条早雲と親交を結び、伊豆を経て小田原へ入ったという。2代元興は北条氏時、為昌、氏康の家臣として、河越城、松山城などの合戦で活躍、初代青木城主となった。3代元忠は、1546天文15年の河越夜戦で大功を立てた。知行地として青木を本拠に、武蔵国松山周辺などを与えられ、上野国平井城と西牧城の城主となった。1590天正18年、西牧城で秀吉の北国勢の攻撃を受けて城と運命を共にした。4代忠之は、1590天正18)年の小田原攻めの時に山中城(三島市)で戦死した。豊顕寺境内には多米氏の墓所があり、四基の古墓が並んでいる。江戸時代、子孫は土井利勝(大老)に仕え、同家(三河西尾藩、苅谷藩)の臣として明治維新を迎えた。

 

せせらぎ緑道を歩く
せせらぎ緑道を歩く

三ツ沢せせらぎ緑道

 

反町川を暗渠にした際に造られた。せせらぎの水量を調節するため、市営地下鉄の湧水をポンプアップし水を流している。周辺には自然が色濃く残っている。総延長約1.7㎞、せせらぎ延長約1㎞。

 

 

 

平沼さんの像の前で
平沼さんの像の前で

2.三ツ沢公園

 

面積約29ha。陸上競技場、サッカー場などがあり、昭和30年、第10回国体のメイン会場となりました。戦前、公園の一画は護国神社の建設予定地(昭和20年竣工前に空襲で被災)だった。戦後、神社外苑一帯を含めて横浜市に譲渡され、さらに周辺の民有地などを合わせて用地を確保、昭和24年に運動公園として整備されました。現在、神社の跡地には、横浜市戦没者慰霊塔が立っています。

 

3.旧古町橋跡(きゅうふるまちばしあと)

 

江戸時代初期、帷子川に架かっていた東海道(古東海道)の橋跡。慶安年間(164852)のルート変更により、新しい橋が造られました。それが東海道五十三次(広重)の保土ケ谷宿に描かれる帷子橋(新町橋)です。現在の帷子川の川筋は、1964(昭和39)年の河川改修で造り替えられました。

         【案内板の前で】                       【昔の川筋を確認】

 

保土ケ谷工業地帯からYBP(横浜ビジネスパーク)

 

明治後期から昭和前期に、内陸工業地帯として発展。繊維、化学、製壜などの軽工業が主。要因は、①耕地整理が進み、比較的容易に土地が買収できたこと、②帷子川の舟運と鉄道の整備による水陸交通の便の良さ、など。昭和30年代以降、公害などの理由から順次撤退、都市型の再開発が進められた。明治41年に製造を開始した富士瓦斯紡績(富士紡績)は、敷地面積51,000坪、従業員6,000人(大正9)を超えた。跡地は区役所、商業施設、公園などに再開発された。大日本麦酒(日本硝子)は、ビールと清涼飲料水の製造を経て、日本最大の製壜工場として発展した。跡地はYBPとして、新たな経済情報発信基地として生まれ変わった。その他、主要な工場として、保土谷化学(程谷曹達)、東洋電機製造、古河電池などがあった。

          【昔の工業地帯を遠望】                        【YBPの一角】

 

4.神明社

 

祭神は天照大御神。970(天禄元)年の創建と伝えられ、3度遷座したあと、1225(嘉禄元)年、神戸の地に宮造りされました。榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社領が与えられ、隆盛を極めたといわれています。戦乱の時代に一時衰退しましたが、1590(天正18)年、家康より朱印地を与えられました。1619(元和5)年、現在地に遷り、社殿の造営、境内の整備が行われました。明治2年の修営を経て、平成10年に「平成の大造営」が行われ、380年ぶりに本社・摂末社・神楽殿等総ての境内建物12棟が一新されました。

         【神明社の鳥居】             【神明社の境内1】         【神明社の境内2】

 

榛谷御厨(はんがやのみくりや)

 

御厨は平安時代以来、有力な神社の所領として諸国におかれた荘園の一種。榛谷の地を開発した豪族が、占有権を確実なものにするために、伊勢神宮に寄進したことから、榛谷御厨と呼ばれるようになった。地域としては、保土ケ谷区・旭区一帯にあったと推定される。平安時代末期には、鎌倉幕府の御家人榛谷重朝が支配していた。彼は秩父一族の出で、畠山重忠は従兄弟。父親の小山田重成は小山田荘(町田市)、兄の稲毛重成は稲毛荘(川崎市)を領していた。しかし、1205(元久2)年に畠山重忠が謀反の疑いで戦死したのを機に、兄重成と共に一族は討たれ滅亡した。寄進者について、保土ケ谷区史は重朝の祖父重弘の代ではないかと推定している。保土ケ谷の地名は、榛谷(ハンガヤ)が訛って保土ケ谷になったという説がある。

 

「下の道」沿いの寺院

 

 神明社を過ぎると寺院が続きます。天徳院(曹洞宗)は1573(天正元)年の創建で、開基は保土ヶ谷の豪族小野筑後守。本尊は運慶作といわれている地蔵菩薩坐像。維新前までは神明社の別当寺でした。天徳院の前の路地を入ると、見光寺(浄土宗、創建当初は臨済宗)がある。創建は1629(寛永6)年、開基は保土ヶ谷の住人茂平夫妻。いわな坂の「北向き地蔵」の台石には、当寺の6世住職観阿の名が刻まれています。

           【天徳院】                            【見光寺】

 

本堂
本堂

5.大蓮寺

妙栄山西孝院。日蓮宗。1242(仁治3)年、21歳の日蓮が、比叡山へ遊学の途中、帷子の里の民家に泊

 

まり、子供たちの玩具の中に壊れた釈迦牟尼像を発見し、過ちを諭したといいます。その後、民家の主人は自宅を法華堂に改修し、その仏像を安置したのが当寺のはじまりです。本堂前には家康の側室、お万の方(養珠院、水戸光圀の祖母)お手植えといわれる、ざくろの木(2代目)があります。山門脇の坂道は、桜が丘から元町橋へ抜ける「古東海道」と言われています。

 

本堂
本堂

6.遍照寺

 

医王山。高野山真言宗。平安時代のはじめ876(貞観18)年の創建と伝えられます。本尊の薬師如来像は、横浜市指定有形文化財。京都仁和寺喜多院の本尊と同木、同作の尊像と伝えられており、仏向村にあったと言われる浅間宝寺の本尊でした。かつての戦乱時、寺が焼き討ちにあった際、本尊を帷子川に流しました。それを老僧が拾いあげ、寺の本尊にしたと伝えられています。本堂裏に、江戸三大狂歌師の一人「朱楽管江(あけらかんこう)」が記したとされる百万遍供養塔があります。

 

7.金沢横丁の道標(石碑) 横浜市登録有形民俗文化財

東海道と金沢鎌倉道の分岐点にある4基の道標です。ここから先の金沢道には円海山、杉田、富岡など信仰や観光の地があり、これらの道標が旅人を導きました。向かって右端は、1783(天明3)年の建立で、「円海山之道」「かなさわ・かまくらへ通りぬけ」と刻まれています。2番目は、1682(天和2)年造で、正面に「これよりかなざわ・かまくら道」、左面に「弘明寺道」と刻む。3番目は、1814(文化11)年の建立で、正面に俳人其爪(きそう)の「程ヶ谷の枝道曲れ梅の花」の句が、左面に「梅の名所杉田への道」とあります。左端4番目は、1845(弘化2)年造で、「ほうそう(疱瘡)神富岡の芋大明神への道」と刻まれています。

     【本日のゴール】           【4基の道標】              【お疲れさまでした】

 

お疲れさまでした。次回 鎌倉街道「下の道」⑥をお楽しみに。