2022年9月30日(金)・10月4日(火)・7日(金)武蔵国分寺と東山道武蔵路を歩く             ~古代歴史ロマンがあふれる武蔵路~(終了しました。)

天平 13年 (741)に 聖武天皇により、国分寺建立の詔が出され、約 20年間で 武蔵国分寺は建立されました。武蔵国分寺は全国の国分寺のなかで、最大規模です。また、国分寺と国分尼寺の 間を古代の官道である東山道武蔵路が通っていました。 国分寺の金堂や講堂の基壇、国分尼寺の金堂の基壇、東山道武蔵路などが復元されています。 天平時代に想いをはせて歩いてみましょう。当時のままといわれる鎌倉街道上道も歩きます。 

《コース紹介動画》https://youtu.be/6CwP8jxUAhk

 

東山道武蔵路跡

7世紀後半に、都と諸国の国府を結ぶ七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・ 山陽道・ 南海道・ 西海道)が整備された。 七道は官道の名であるとともに、行政区画でもあつた。武蔵国は東山道に所属し ていたが、東山道の本道とは離れており、 そのため上野国の新田駅付近から武蔵国府を結ぶ支路が造られたことが、『続日本 記』に書かれている。これが東山道武蔵路です。しかし、東山道武蔵路を往復することは不便であるということで、宝亀 2年(771)に武蔵国は東山道から東海道 に所属替えとなり、東山道武蔵路は官道 としての使命を終えるが、発掘調査によ り平安時代末まで道路として使われていたと考えられる。

                  【東山道武蔵路跡~良く保存整備されています~】

 

薬師堂

薬師堂
薬師堂

武蔵国分寺は元弘3年 (1333)の新田義貞と鎌倉幕府との分倍河原の戦いで焼失し、建武 2年 (1335)に新田義貞の寄進により、国分僧寺の金堂跡に薬師堂が建てられた。その後、宝暦年間(1751~ 1763)に現在地に再建された。 薬師堂に安置されている薬師如来坐像は、平安時代末期から鎌倉時代初期の作とみられ、国重要文化財に指定されてしヽる。 仁王門も宝暦年間に建てられた。建武 2年に建てられた旧薬師堂の材料を再利用 したと伝わる。 仁王像は享保 3年(1718)に 造られた。

 

国分寺 医王山最勝院国分寺 真言宗豊山派

薬師堂 を中心にして、武蔵国分寺の名を継いで整備された。享保 10年(1725)に本堂を再建した。明治 28年(1895)に米津寺(東京都東久留米市)よ り楼門を移築し、昭和 60年に本堂を改築した。境内に先代の住職が昭和 25年から 13年間をかけて、独力で集めた万葉集に詠まれている約 160種の植物が植えられている。

         【本堂】              【約160種の植物】         【植物に添えられた万葉集】

 

武蔵国分寺跡資料館

武蔵国分寺跡の出土品などを展示するために、平成 21年にオープンした。これまでの発掘調査の成果や武蔵国分寺跡の整備事業なども紹介している。東山道武蔵路跡から出土した銅造観音菩薩立像も展示されている。資料館の前には、縮尺1/10の七重塔の模型がある。 入口の長屋門 は、国分寺村の名主であつた本多家の表門で、弘化 5年(1848)頃 に建てられた。

          【資料館内ガイド風景】                       【長屋門の内部】

 

真姿の池・お鷹の道

多摩川の河岸段丘である国分寺崖線には多<の湧水があり、流れ出た湧水が池を作り、清らかな 流れを作つている。 真姿の池には承和 14年(847)、絶世の美女といわれた玉 造小町が皮膚病になり、国分寺の薬 師如来に祈り続けたところ、童子があらわれ「池の水で身を洗うべし」と告げて姿を消した。小町 は池の水で身を洗つたところ、元の美しい姿に戻つたという伝説がある。 この地は尾張徳川家の鷹狩り場であつたので、お鷹の道と呼ばれている。清流沿いに小道が整備 されており、夏にはホタルが見られる。この流れは野川の源流のひとつである。 

         【真姿の池入口の鳥居】                   【遠くに湧水が見える】

 

武蔵国分寺跡

8世紀中頃は、飢饉や地震などの災害、疫病の流行で社会不安が増大 していた。天平 13年 (741)、 聖武天皇は仏教の力で人々を苦しみから解放するため、諸国に国分寺 ・国分尼寺を建 立するようにという詔を出した。武蔵国では、 東山道武蔵路沿いの湧水が豊かな地に、約 20 年間をかけて造られた。武蔵国分寺は、全国の 国分寺のなかで最大規模である。 当初は七重塔が中心となる計画であつたが、 金堂・講堂を配置する計画に変更された。七重塔は当初の計画の位置に造られ、金堂とは 220 m離れている。金堂は東西 36.lm、 南北 16.6m で諸国国分寺のなかで最大規模である。 講堂は 9世紀半ばに建て替えられており、再建後の規模は東西 36.2m、 南北 16.6mで金堂とほぼ同規模である。聖武天皇の詔では、「造塔は国の華なり」となつており、七重塔は「金字金光明最勝王経」を安 置する。武蔵国分寺の七重塔は『続日本後記』によると、承和 2年(835)に 落雷により焼失し、承 和 12年 (845)に 男衾郡の長官である壬生吉志福生により再建された。発掘調査により、再建が 確認されている。高さは約 60mと推定される。 七重塔跡から50mほど西側に塔基壇跡がある。礎石などの痕跡は確認できなかつたので、ここ には塔は建たなかつたと思われる。

                           【国分寺跡の様子】

 

文化財資料展示室

市立第四中学校建設に先立つ 発掘調査により、整然と区画さ れた掘立柱建物 40棟、竪穴住 居 89棟が発見された。鍛冶工 房もあることから、修理院と思 われる。展示室には、出土した 瓦や土師器、須恵器などの土器、 鉄製品などが展示されている。 

            【ビデオ解説】                          【瓦の展示風景】

 

国分尼寺跡

国分寺が僧20人に対 し、国分尼寺は尼僧を 10人置く決まりになつていた。全国的に国分尼寺は早くに廃寺となり、全容が明らかになつたものは少なく、国分尼寺の場所が不明のところもあ る。 武蔵国分尼寺も金堂と尼坊、中門・ 東門は確認されたが、講堂・経蔵・ 鐘楼は確認できていな い。 金堂は基壇が復元されており、東西 20.7m、 南北 12.5mの建物が想定される。尼坊は東西 44.5m、 南北 8.9mの細長い建物で、部屋割り が 5室考えられ、 1室に2人の尼僧が居住してい たと考えられる。 

                           【国分尼寺跡の様子】

 

伝鎌倉街道上道

鎌倉街道上道は武蔵国内では東山道武蔵路と道筋が重なる。鎌倉から町田・ 府中を経て、上野国・信濃国方面を結んでいる。国分寺崖線を切通した約 120mの道が残されており、往時の姿を 伝えている。 元弘 3年(1333)、 新田義貞が鎌倉を攻めたときも、この道を進軍している。畠山重忠も鎌倉と の往復にこの道を使つている。国分寺市恋ヶ窪には、畠山重忠と恋ヶ窪宿の遊女・ 夙妻太夫との悲恋物語が伝わつている。 

         【伝鎌倉街道上道跡を歩く】             【畠山重忠の悲恋物語に聞き入る】

 

武蔵台遺跡

柄鏡形敷石住居
柄鏡形敷石住居跡

都営府中武蔵台団地建設に先立つて、発掘調査が行われ、約 80軒の縄文時代の竪穴住居跡が発 掘された。9000年前から4000年前のもので、縄文時代中期(約 4000年前)の柄鏡形敷石住居 が復元されている。縄文時代の竪穴住居は地面を彫り込んだだけのものが多いが、これは数多くの 河原石が敷かれており、中央には炉が作られ、突き出た部分には深鉢型土器が埋められていた。

 

お疲れさまでした。