11月8日(火)・10日(木)・16日(水)            磯子の森浅間神社から間宮氏ゆかりの杉田の古刹を訪ねる  (終了しました)

 

屛風ヶ浦は、富岡から本牧までの海岸線が屏風を立てたような断崖が続くことが名前の由来と云われます。森浅間神社や杉田の熊野神社には修験の伝承が残り、市街地に残る豊かな緑に歴史を感じます。戦国時代には間宮氏の陣屋も置かれ、江戸湾を挟み安房の里見氏との攻防戦が繰り広げられた土地も、江戸時代には風光明媚な梅林の里として多くの人で賑わい、『江戸名所図会』にも描かれました。

今日は、往時を偲びながら、間宮氏ゆかりの森・杉田の地を歩いてみたいと思います。

 

《コース紹介動画》 https://youtu.be/mxKTMdwBS2Y

 

           【出発前にコースを確認】                 【この辺りは昔は海だった】

                            それでは出発

  朝日不動滝

朝日不動滝は汐見台の台地から出る湧き水を水源としている。古くは滝の口から流れ落ちる水に、朝日が輝く荘厳さに朝日滝とも称された。明応年中(14901500)に権現堂十五代修験者長恵法師が不動堂を開設。不動明王を祀り不動滝として修験の修行の場とした。台地の開発や関東大震災で滝の規模は縮小され、昭和366月の集中豪雨により滝は崩壊し埋没したが、昭和565月に、神社総代世話人会有志の方々の手により滝壺は修復され、現在の形になった。

     【途中からの眺望】              【滝を確認】               【解説と共に】

 

 森浅間神社

  房総半島方面への海路の要所であった森村に鎌倉幕府が陣屋をつくるにあたり、富士山より木花咲耶姫命の分霊を勧請したことが起源と伝わる。また建武2(1335)、鎌倉幕府最後の将軍・守邦親王の守り本尊薬師如来を、熊野修験者長円が森浅間神社の本地仏として安置したことをもって創建とするとも伝わる。古くは「親王権現」と称し、神社のある丘は「我沙羅山」と呼ばれ、航海の安全を祈る為に参詣する者が多かった。江戸時代に富士講が盛んになると、「武州小富士」と呼ばれ、森三村(森公田村・森雑色村・森中原村)の鎮守社として崇敬された。

   明治元年神仏分離令により、不動堂を廃し浅間神社となった。明治41年には森村の無格社12社を下宮に合祀した。神社とその周辺の樹叢は県の天然記念物に指定されていて、丘の斜面にはスダジイを中心とした常緑広葉樹林が広がり、推定樹齢200年の木なども見られるなど貴重な自然林が残されている

       【由緒を確認】                    【神輿殿】           【表参道の階段を下る】

 

林香寺 晴峯山林香寺(臨済宗建長寺派)

 林香寺は、東漸寺第十九世雲溪龍公和尚が応永23年(1416)に開山。林香庵と称した。金澤 観音霊場の第31番で、以前は雨峰山と号していた。本尊は釈迦如来坐像。「枕返し観音」の昔話をもつ千手観音立像は、森村の陣屋橋際にあった観音堂に安置されていた。

      【お寺のご好意でお参りさせて頂きました】                【改めて参拝です】

 

森陣屋跡(今は何ものこっていない)
森陣屋跡(今は何ものこっていない)

 ④  森陣屋跡

永正7年(1510)権現山の戦い(神奈川区青木町)で間宮信盛が上杉軍に切込み、その戦いぶりが小田原北条氏に認められた。永正13年(1516)横浜市域はほぼ小田原北条氏領となり、玉縄城外郭の笹下城を構えた間宮信元は、天文23年(1554)に森村と杉田村の双方に陣屋を設けた。森陣屋は森公田村の陣屋川のほとりにあり、後に長男の間宮康俊を配した。

間宮康俊は玉縄北条氏の家老職を務め、安房の里見氏を牽制するための水軍を管理していた。

 

  願行寺 梅照山海蔵院願行寺(浄土宗)

本尊は阿弥陀如来。法燈円明国師覚心(臨済宗興国寺派の祖、永仁6年(1298)寂)が開山、その後、寛文か延宝の頃に浄土宗に改宗。元禄15年に森村の徳江氏が梵鐘奉納。昭和3年、湘南電気鉄道(京浜急行)の線路敷設や道路用地のため広大な境内は狭められた。

       【本堂前にて】               【鐘楼】              【青面金剛などを確認】

 

いつもお花が供えられています
いつもお花が供えられています

 ⑥  中原地蔵 

昭和5年から23年に湘南電気鉄道で亡くなった7名を供養するために、29年に中原の漁業組合と磯子農業協同組合及び有志272名の寄付によって造られた。

 

  熊野神社

建久3年(1192)源頼朝の命によって泉蔵院智覚が紀州熊野権現に参籠。熊野権現の分霊を拝受し、舟に載せて神慮のまま海上に浮かべたところ、中原海岸に漂着したことから、当地に熊野社を創建し、山裾に紀州山桐谷寺を造ると伝わる。後に桐谷寺は大霊山泉蔵院と改め、熊野神社の別当寺となるが、明治初年の神仏分離により廃寺となる。昭和63年に改めて泉蔵社として祀られる。泉蔵院は京都聖護院(修験本山派)の末。久良岐郡内の修験を、森浅間神社を司る権現堂と泉蔵院で二分して支配していた。

      【階段の上に】          【途中の泉蔵社で一息】         【熊野神社に着きました】

今は何も残っていない
今は何も残っていない

 ⑧  杉田陣屋跡

杉田陣屋は小名で辻と呼ばれた地にあり、小田原北条氏傘下の笹下城主間宮信盛の次男信次が配された。間宮信次は天文15年(1546)に、三浦半島の走水で房総の里見軍との戦いで戦死。跡を間宮信繁が継いだ。小田原北条氏が滅んだあと、多くの間宮氏が徳川家の旗本になっている。杉田間宮氏は鷹匠頭の家系と伝わる。

 

  妙法寺 牛頭山妙法寺(日蓮宗)

弘仁元年(810)弘法大師諸国巡礼の際、日本武尊の霊跡を敬慕して、山頂に牛頭天王社を建立。弘法大師旧跡の寺として受け継がれたが、文和元年(1352)に領主荒井因幡守光善(日荷上人)が日祐上人に帰依し、日蓮宗に改宗した。小田原北条氏の頃、領主、間宮家累代の菩提寺となり、歴代の墓所がある。      

杉田間宮氏三代信繁が梅の植樹を奨励したことが、杉田梅林の始まりとされ、江戸時代には杉田梅林の中心として、名実ともに大寺となり門前一帯が繁盛した。

    【入口にあるビャクシン】           【妙法寺の境内】            【間宮家累代の墓】

 

 

 杉田八幡宮

社伝によると創建は康平6年(1063)。源頼義・義家(八幡太郎)父子が朝廷の命により奥州安倍氏を討伐(前九年の役。10511062)。戦勝の御礼に源氏の氏神である京・石清水八幡宮の分霊を、頼義が鎌倉鶴岡に、義家が杉田に勧請したのがその起こりとされる。建久3年(1192)には源頼朝が社領を寄進、久良岐郡の総社と定めた。
江戸時代前期の延宝年間(16731681)のころからは、隣接する幼児園敷地に建っていた日蓮宗妙観寺が別当として八幡宮を管理。領主の間宮氏が社殿を再建し、久良岐郡十二箇村の総社と定められた。

江戸時代、社地であった妙観寺山は眼下に杉田の梅林を望む山で、江戸からの観梅客が多く訪れ、境内から山上にかけては大変賑わったという。

             【鳥居の前で】                    【七五三の季節です、狛犬がかわいい。】

 

 

  東漸寺 霊桐山東漸寺(臨済宗大本山建長寺派)

正安3年、北條宗長(時政から五代目)を開基、円覚寺宏覚禅師(桃渓徳悟)を開祖として建立。関東十刹の七位に選ばれた鎌倉建長寺の末寺。建長寺に連なる禅宗の拠点であり、五山の禅僧による五山文学の拠点として花開いた。僧たちはその風光明媚な地を漢詩に吟じ、そのなかには鎌倉・円覚寺を開山した無学祖元の名も見られる。詩を刻んだ詩板二枚は今も寺に所蔵されている。

     【正面には五輪塔】        【お寺のご好意で境内の中に】        【釈迦堂前にて】

 

お疲れさまでした。3日間とも天候に恵まれました。