10月20日(金)・24日(火)            鎌倉街道下の道⑥保土ヶ谷~上大岡(終了しました)

芳賀善次郎著『旧鎌倉街道探索の旅』に沿って歩く鎌倉街道「下の道」の6回目です。今回は旅の難所と言われた「いわな坂」を上り、北向地蔵の道標に従って南区を歩きます。保土ヶ谷からの「下の道」といえば、弘明寺・餅井坂を通り、中の道につながるルートが一般的ですが、今回は前掲の本に従って、北向地蔵から蒔田に出て上大岡に向かいます。この道は江戸時代中期以降、観光地の杉田・金沢へ向かう人々が往来した道で、通称金沢道と呼ばれる道です。約5.5kmと道のりは長いですが、「いわな坂」を上ってしまえば後は平坦で歩きやすいコースです。                                         

 

《コース紹介動画》 https://youtu.be/Pm5BUPcdS1M

 

 

いわな坂

「石難坂」(岩間の難所)とか「石名坂」などと書き、名前の由来は不明

*福聚禅寺…建武2年(1335)に西区久保町に創建された由緒ある古刹。臨済宗建長寺派。寛政年間に現地に移転。本堂裏手に『東海道中膝栗毛』の作者十返舎一九の弟子五返舎半九の墓がある。

*地蔵尊…「御所台地蔵尊」と呼ばれる地蔵堂の他、元禄年間の庚申塔などが集められている。

 

 

御所台の井戸
御所台の井戸

 

御所台の井戸

北条政子がここを通りかかった時に、この井戸水を化粧に使用したという伝承から「政子の井戸」ともいわれている。また、明治天皇が保土ヶ谷本陣に立ち寄られた際にもこの井戸水を使われたという。

 

 

  *政子の井戸の伝承…①いわな坂「御所台の井戸」

②井土ヶ谷乗蓮寺「尼将軍化粧の井戸」

 

               ③中里三丁目「伝政子の井戸」

 

 

北向地蔵
北向地蔵

 

北向地蔵

保土ヶ谷宿にある見光寺の僧六世観阿に頼んで、三誉伝入が享保2年(1717)に、天下泰平・国土安全と旅人の道中安全を祈念して建立したもの。江戸向地蔵ともいわれた。

 

 

 

*角柱には、『是より左の方かなさわ道』『是より右の方くめうし道』と刻まれ、金沢方面と弘明寺方面への道案内もかねている。

 *下の道が弘明寺道と金沢道に分かれ、弘明寺道は永田・井土ヶ谷へ出る⇒乗蓮寺へ。

 

 

大原隧道

横浜市認定歴史的建造物。平成18年度土木学会推奨の土木遺産。

 

昭和3年(1928)関東大震災の復興事業の一環として水道本管を敷設するためのトンネルとして完成。西谷浄水場から蒔田、大岡、井土ヶ谷、弘明寺,堀之内、岡村方面への給水施設。全長254m、高さ3.62m、幅2.44mの馬蹄形トンネル。トンネル内部には蒔田、磯子方面への水道本管610mmが埋設されている。

             【入口】                             【隊道内を歩く】

 

 

共用栓前にて
共用栓前にて

 

獅子頭共用栓

横浜市水道局が明治20年(1887)に創設された頃イギリスから輸入し、獅子のデザインはギリシャ神話にちなむものといわれている。当時30軒程度が共同で使用し、市内随所に設置され、広く市民に愛されていた貴重なもので、最盛期には600基あったという。

 

 

 

太田杉山神社 

古くから太田産土神・杉山大明神として信仰されていた。永和2(1376)6月に益田大江助が社殿を再建した当時の棟札が保存されていたが、昭和205月の大空襲の際焼失。寛永年間に大光寺が中興、当神社の別当寺となるが、明治の太政官布告により別当寺の制度が廃止となる。明治2年、社号を杉山神社と改めた。

 

横浜水天宮

江戸時代、久留米の水天宮を長者町に勧請、吉田新田の水害守護神として祀られたが、後に安産の神様として信仰される。横浜大空襲で焼失し永く仮社殿だったが、平成10年当地に相殿神として合祀された。

        【入口】                【本殿前にて】                 【狛犬】

 

 

 

大光寺  松吟山宝樹院大光寺 高野山真言宗 本尊:阿弥陀如来 

創建由来不詳。元赤門東福寺の秀甚法師の隠居寺として寛永年間に開かれ、太田杉山神社の別当寺だった。東福寺の赤門に対して黒門といった山門は、明治20年(1887)5月の暴風雨で元の山門が倒壊したため、金沢六浦藩米倉丹後守の陣屋の辰巳南門を、英応上人が移築したもの。英応上人は弘化元年(1844)以来大光寺にあって、今弘法・生如来と慕われ尊敬された高僧で、米倉丹後守が帰依して門を下賜されたという。山門は江戸時代後期の武家屋敷の門の遺構として珍しいもので、関東大震災や横浜空襲の被災を免れた。

 

*境内の地蔵坐像の台座石柱(享和2)が道標になっていて、右側面に「かねさハ かまくら 道」と刻まれている。

        【山門】                   【境内にて】                【道標】

 

 

蒔田橋を望む
蒔田橋を望む

 

蒔田橋

大岡川に架かる「蒔田橋」。古代、蒔田町の丘陵と南太田町の丘陵の間は入江で、平安時代には入江の河口になった。今の大岡川は明田(あすだ)川と呼ばれ、明田の渡しがあった。その明田が「めいた」に転化し、更に蒔田になったといわれる。(武内廣吉著『武州久良岐郡郡郷考』)

 

 

鳥居前にて
鳥居前にて

 

蒔田杉山神社

承元3年(1209)南龍山不動院無量寺の開基鎌倉法師貞暁阿闍梨(源頼朝の三男。実朝は弟)が、鎌倉幕府の鬼門鎮護のため伊豆国土肥の杉山から勧請。市杵島姫命を鎮座創建した七社弁天の一であるといわれる。創建された往時の当地は、山の根が海中に突出したその洲先であり、当時は風向うるわしい海浜であったという。

 

 

碑の前にて
碑の前にて

 

井土ヶ谷事件の碑

文久3年9月に仏士官カミュが殺害された事件の碑。事件前年の文久2年(1862)、島津久光一行がイギリス人4名を無礼打ちにして薩英戦争にまで発展した「生麦事件」が起きている。翌年、1863(文久3)年92日に、この付近(実際の事件跡は、約100m離れた井土ヶ谷下町3番付近。昔は十二天の杜だった)でフランス軍士官3人が攘夷派浪士に襲われ、陸軍中尉カミュが右手ほかを斬られて死亡。フランス軍士官たちは、馬の遠乗りに出て蒔田橋を渡って保土ケ谷へ向かう途中だったという。事件の届け出を受けて、神奈川奉行は犯人探索に当たったが、犯人は挙がらず幕府は窮地に陥り、外国人居留人保護と防衛を主張する英仏軍の外人部隊の駐屯を認める端緒となった。カミュの墓は外国人墓地にある。

 

*庚申搭 「くみやうじ かまくら道、尼将軍御影堂六丁 / 北 ほどがや  南 かなざわ道」  

 

 

 

  

住職のお話を聞きに本堂へ入る
住職のお話を聞きに本堂へ入る

 

無量寺  南龍山無量寺 高野山真言宗  本尊:不動明王

源頼朝の三男、鎌倉法師貞暁が承元3年(1209)に創建といわれる。蒔田杉山神社の別当寺であった。明治の神仏分離で、明治7年(1874)増徳院の末寺となる。寺伝によれば、貞暁は源頼朝の庶子として鎌倉に生まれたが、故あって幼少より仏門に入り、紀伊の国高野山で修行に専念した。その後、蒔田の山麗に御堂を建て不動明王を本尊として安置し、当山の開祖となった。本尊不動明王は平安末期の代表的仏像で『鉄縛り不動』として親しまれている。

 

 

 

鳥居前にて
鳥居前にて

 

西森稲荷神社

 創建年代不明。西森稲荷神社は古くは蒔田稲荷、大原稲荷として農耕食物の御神徳与える豊受大神を奉斎してきた。明治42年(1909年)には神社合祀令発布により蒔田杉山神社に合祀されたが、蒔田町の有志が西森稲荷の存続を旧文部省に申請、官許をえて存続。 杉山神社神職が兼務する形となる。現在は金刀比羅大鷲神社兼務社。

 

 

若宮八幡宮

源頼朝が鎌倉に幕府を開くにあたり、鎌倉の鬼門にあたる横浜の地の鎮護のために数カ所建てた寺社のひとつで、鶴岡八幡宮の境内社である若宮八幡宮の別宮として、建久4年(1193)年に創建されたと伝えられている。本殿が鎌倉に向いている。

 

 

       【階段入口にて】               【本殿】                  【境内にて】

 

 

 

弘明寺 瑞応山蓮華院弘明寺 高野山真言宗  本尊:十一面観音立像(国指定重要文化財)

寺伝によると、養老5年(721)にインドの僧・善無畏が当地に結界を創り、天平9年(737)に行基が観音像を刻んで一宇を建立したと伝えられ、行基をもって開基としている。弘仁年間(9世紀初期)には空海双身歓喜天(弘明寺聖天)を彫刻し安置したという。寛徳元年(1044)、光慧上人により瓦葺き本堂が建立された。本尊である木造十一面観音立像の彫刻予想年代と、この本堂建立の年代がほぼ一致することから、この頃が実際の開山と思われる。

鎌倉時代には源将軍家累代の祈願所であった。戦国時代には北条早雲から寺領を、江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り、坂東三十三箇所観音霊場の十四番札所として信仰を集めた。

 明治の廃仏毀釈により、一時は無住職の寺となり什宝も散逸したが、明治40年に支援団体「勝保会」等の協力を得て復興し、現在の伽藍の様相が整った。元々の寺領は広大なものだったが、北側の大半(現在の弘明寺公園)を横浜市に公園として譲渡。また京浜急行の敷設で線路が通り、寺の所有地は最盛期の2割ほどであるという。

〈主な寺宝〉

*十一面観世音菩薩立像…1本の木材から仏像の全身を彫り出した仏像で、国指定の重要文化財。なた彫りというノミ跡を意図的に残す技法で彫られており、関東に残るなた彫りの典型的な作例として有名。

*木造黒漆花瓶…室町時代初期の作。本尊に常花として供えられた。「亜」字形の大型のもの。

*七ツ石…善無畏三蔵が渡来の際、当山の霊域を感得して陀羅尼を書写し、結界を立てた霊石。

*金剛力士像…13世紀後半、鎌倉仏師の作(運慶様)。仁王門は江戸時代再建。

 

 

        【山門前にて】         【階段途中のお地蔵さん】          【本殿前にて】

 

 

商店街を望む
商店街を望む

 

弘明寺商店街

 弘明寺の山門から鎌倉街道にかけては昔から農道だったが、明治44年県知事の指示で、仁王門前からの道が整備され、直線の四間道路が完成した。この道路沿いに発展したのが弘明寺商店街で、弘明寺は空襲の被害を受けなかったため、終戦直後から繁栄し、当時の賑わいは伊勢佐木町を凌ぐほどだったという。昭和31年(1956)アーケードができて「東洋一のアーケード」と呼ばれ、横浜橋のアーケードと共に大いに賑わった。

衰退していく商店街も多いが、弘明寺商店街は、洪福寺・松原商店街と並んで横浜三大商店街とされる。

 

鎌倉旧街道

 鎌倉街道は横浜開港後、横浜南部から横浜へ農作物等を輸送し、横浜の新しい文化を地元に運ぶ

文明開化の道だった。昭和37年に鎌倉新道(現鎌倉街道)ができるまでは、上大岡から弘明寺に抜ける道は、大岡通り商店街として賑わいがあった。今は往時を偲ぶことは難しい。

旧道の出口にある最戸橋から上大岡に入る岐路に、屛風ヶ浦・森へ繋がる道があり、杉田道とか森道といわれていた。

 

 

【お疲れさまでした。】