11月24日(金)・29日(水) 一日コース      南足柄の「名刹・大雄山最乗寺」と「五百羅漢寺」を巡拝する(終了しました)

 

大雄山最乗寺は曹洞宗に属し全国四千の門流を持ち、応永元年(1394)より六百年以上の歴史を経て関東の霊地として知られ、老杉古松の大森林が鬱蒼と生い茂っています。全山には、壮麗な三十余りの堂宇を構えています。この寺院にまつわる三人のキーパーソン『了庵慧明禅師(ご開山様)』・『妙覚道了大薩埵(お天狗様)』・『華陵慧春尼(了庵実妹)』の功績を紹介しながら、深い森の清々しい空気を味わい、紅葉を愛でながら散策コースを巡って行きたいと思います。

又、天桂山玉宝寺(五百羅漢寺)は曹洞宗に属し、天文三年(1534)より歴史を伝え、多くの仏像を安置しています。特に「釈迦牟尼仏」に師事した五百人聖者の「五百羅漢像」は圧巻です。尊像に亡き人の面影を見出すことが出来るといわれ、玉宝寺の<御詠歌>にも伝えられています。

 

《コース紹介動画》 https://youtu.be/maUs_lEq8r0

 

 

 天桂山玉宝寺(ぎょくほうじ)別名「五百羅漢寺」           

玉宝寺は曹洞宗に属し、縁起によると秦野市田原香雲寺の末寺で、天文3年(1534)後北条氏の家臣垪和(はが)伊予守およびその母が建立したと伝えられています。宝暦7年(1757)に建立された本堂には、本尊である「十一面観世音菩薩・釈迦牟尼仏」をはじめとして「五百羅漢・十六羅漢・十大弟子」あわせて、526体が安置されています。

「五百羅漢」とは、釈迦牟尼仏に師事した五百人の高僧を尊称したもので、県内でも数少なく、この寺院の五百羅漢像はすべて木造彩色で、その大きさは、立像が3660cm、坐像が24㎝になります。

現在の五百羅漢像は嘉永(1854)・安政の大地震(1855)で損傷し、万延年間(186061)に補足・補修が行われたもので、寺の御詠歌にも『わがおやに にたるほとけも あるらかん まわりておがまん たこ(多古・地名)のてらかな』とあるように、ひとつひとつの尊像を仰ぎみると亡き人の面影を見出す事ができるといわれています。

            【山門】                            【本堂内の五百羅漢】

 

 

 大雄山最乗寺 別名「道了尊(どうりょうそん)(どうりょうさん)

最乗寺は南足柄町関本にあり、曹洞宗大本山総持寺の直末です。応永元年(1394)「了庵慧明禅師」が開山した名刹で、弟子の「妙覚道了大薩埵」の協力を得て建立され、日夜国土安穏、万民富楽を祈念する禅修行道場です。御本尊は「釈迦牟尼仏」、脇侍仏の「文殊・普賢菩薩」を安置し、御真殿に「道了大薩埵」を祀り、奥之院は道了の姿とされる「十一面観音菩薩」を祀っています。最乗寺は曹洞宗の禅寺としての信仰と、道了大薩埵への天狗信仰という、二つの信仰の聖地として崇拝されてきました。

◆『了庵慧明禅師(りょうあんえみょうぜんじ)(ご開山さま)

了庵は延元2年(1337)相州糟谷(現、伊勢原市)亀井家に誕生、俗性藤氏です。鎌倉建長寺の不聞禅師に師事し出家、さらに能登総持寺、峨山禅師にて学び、丹波永沢寺の通幻禅師門下となり、正伝の仏法を伝授され、50歳半ばに相模に戻りました。

小田原曽我村の竺土寺(ちくどじ)に庵を結びましたが、ある日、大鷲が了庵の袈裟を足柄山中に運ぶという霊示を得て、最乗寺開山を決意したと伝えられています。

応永18年(1411327日、了庵は75歳で示寂しました。大雄山最乗寺の「御開山廟堂」の墓所に祀られています。

◆『妙覚道了大薩埵(みょうかくどうりょうだいさった)(お天狗さま)(了庵弟子)

道了は相州糟谷高梨家に誕生、了庵とは知己で、了庵を師と仰いでいました。道了は熊野三山を始め各地で荒行を積み、三井園城寺では山伏を統括し「満位の行者」の資格を得ました。道了は了庵の最乗寺開創の報に接するやいなや、相模国に戻り了庵の下、怪力で土木工事を成し、最乗寺開山を大いに助けました。「薩埵」とは、菩提薩埵の略で、仏に成る為に悟りを求め衆生を救うために修行を重ねる人への尊称をいいます。

応永18年(1411)了庵の入滅後、道了は寺の鎮護と万民救済の誓いを残し山中に隠れ、道了は天狗に姿を変え、今もこの地を守っています。この古くからの説話が大雄山の名物となり、天狗への下駄の奉納品や、シンボルの羽団扇の由来となりました。

◆『華陵慧春尼(かりょうえしゅんに)(了庵実妹)

慧春尼は応安元年(1368)相州糟谷の亀井家に誕生、了庵実妹で30歳過ぎて兄に出家を願い出て、美貌が修行の妨げになると許されず「我が心を示せり」と焼火箸を頬にあて醜い姿となり、気魄を示したその決意の固さに了庵は出家を許しました。己に厳しい女人で多くの修行と研鑽を積み他の僧侶に負けずに、了庵弟子の法嗣(はっす)(法統を受け継ぐ弟子)五人のうちの一人となり、印可(弟子の悟りを証明する)を得る事が出来ました。

麓に、三格庵「摂取庵・正寿庵慈眼庵跡)」を開創し、尼僧修行の道場として参禅する者に教えを説き、婦人の守護神となりました。全女性の贖罪を願い己を犠牲にし、壮烈な最期の務めを果たしました。応永9年(1402325日の火定(かじょう)最後は、自ら柴を組み、自ら火を点じ、自らの身を炎と化して示寂しました。すぐれた禅尼僧として後世に語り継がれています。華陵幼稚園は、遺徳顕彰のため昭和39年に開設され、摂取庵には御木像と御位牌が祀られ、「正寿庵」には墓石が建立されています。

  大雄山駅からバスに乗って最乗寺へ。       バスを待つ間に3人のキーパーソンを紹介。

 

 

《大雄山最乗寺境内案内コース》

三門
三門

1【三門】 

禅宗伽藍の表門を言い、空(くう)・無相(むそう)・無願(むがん)の3つの門、三解脱門(さんげだつもん)(迷いの解放を願う者が通る門)になぞらえました。二階造りの楼上には、「地蔵菩薩・観世音菩薩・四天王・十六羅漢」などの像が安置されています。平成22年「御開山六百回遠忌」事業として、平成151015日に落慶式が行われました。

天明4年(1784)火災に遭い、220年振りに再建されました。地上22m、総工費4億3500万円。因みに、京都東福寺の三門が日本最古(応永12年(1405))です。

 

 

瑠璃門ー紅葉が綺麗ですー
瑠璃門ー紅葉が綺麗ですー

2【瑠璃門】

  参詣者通用門で、門は杉柾の良材を用い、屋根は銅板葺き、寺院にふさわしい華やかで美しい色の名前にしたようです。正面建物は、真如台(大書院)で山主様が貴賓を接待する場所で、右建物は、白雲閣と呼ばれ総受付になっています。

 

 

慧春尼堂
慧春尼堂

3【慧春尼堂】

  慧春尼は、了庵実妹で兄を慕って出家し厳しい修行に耐えて尼僧となり、麓に三格庵を設け人々を正しい方向に教え導き、後に火定(焼身供養)しました。この地は、慧春尼谷と呼ばれ、慧春尼に「女人救済の悲願ありて祈念すれば必ず信心が神仏に通ずる」と、現在でも女性の参詣者が極めて多く、婦人の守護神となって崇められています。

 

 

御開山廟堂
御開山廟堂

4【御開山廟堂】 

  応永18年(141175歳で示寂の了庵の墓所で、平成22年「御開山六百回遠忌」で造営されました。堂裏に明治7年建立の歴代輪番住職名の塔もあります。

 

 

 

 

5【奥之院(慈雲閣)】 

本堂は昭和43年造営、道了の本地仏「十一面観世音」を安置しています。本地垂迹説とは、観音や菩薩が姿を変えこの世に出現し皆を教え導くという説です。つまり「十一面観世音」が道了に変身したことになります。奈良時代、神と仏は元々一つであるという神仏習合思想が始まり、明治政府の神仏分離令により衰えました。神輿を本堂に安置し、河野一郎名の玉垣もあります。350の石段の脇には「天狗像」が並立しています。

   【林道から奥之院へ】               【奥之院】       【奥之院から350段の階段を下ります】

 

 

6【御真殿(妙覚宝殿)   

 御真殿は道了大薩埵を祀り、一山を守護しています。昭和9年伊東忠太設計で再建され、忠太は明治神宮・築地本願寺を手掛けた高名な建築学者です。内陣外陣に分かれ内陣は方4間、屋根は方形造りで外陣は、間口8間奥行4間、屋根は入母屋、向拝は軒唐破風造りの銅版葺、用材は総欅材です。建坪は105坪。天狗像が安置されています。

        【高下駄】             【天狗になった道了尊】             【御真殿】

 

 

7【三面大黒殿】

昭和47年焼失、昭和51年に再建され「三面大黒尊天立像」が祀られています。通常、正面に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁才天の三面をもつ大黒天ですが、この大黒天は、了庵の開山を助けた地元の三神(飯沢・矢倉・箱根)の福徳円満な姿を三面大黒天にした尊像です。古来より、米、薪、水の守護神として祀られています。

 

 

御供橋から結界門を望む
御供橋から結界門を望む

8【結界門】<左が小天狗(カラス天狗)、右が大天狗(鼻高天狗)> 

 結界門は、明治30年(1897)造営、道了の浄域となり「これより内は不浄の者入るべからず」とされました。1127日の夜、階段下広場では「清浄鎮火祭」が行われ、御供式(儀式法要)大祈祷の後、一年中の御札を焼く古式の伝統儀式が執行されます。

両脇の天狗像は、昭和11年(1936)「東京五大講」により寄進された像です。

 

 

多宝塔
多宝塔

9【多宝塔】 <足柄市指定文化材 昭和633月> 

県唯一の多宝塔で曹洞宗寺院としては珍しく「釈迦と多宝如来」を安置しています。四角形の下層部に円形部分をのせ、四角い屋根をかぶせ、その上に相輪を立てています。心柱に残る墨書から、建立は文久3年(1863)、願主は江戸音羽の高橋清五郎、工匠は大工棟梁の相模匠藤原直行、彫物師は後藤豊次郎であることが判明しています。

 

 

10【松平大和守直基の墓】(家康の孫)

松平直基(16041648)は徳川家康・次男の結城秀康の5男。母は小督局(お万の方)です。結城の家名を継ぎ、20歳で大名となり転封加増されました。慶安元年(16486月山形城主15万石から、姫路城主に転じましたが姫路に向かう途上で発病され、同年845歳で病没しました。直基の遺言により遺骨は大雄山最乗寺に葬られました。墓石は将棋駒型をした安山岩製、高さ4m、表面に「捐館佛性院殿鐵完了無大居士(えんかんぶつしょういんでんてつかんりょうむだいこじ)」、右面に「慶安元年(1648)八月十五日」、裏面に「従四位下侍従兼行松平大和守源朝臣直基」と刻まれています。戒名の「捐館(えんかん)」は館を捨てるとの意味で、この世に住む所が無いことを示し、死という字を嫌う高貴の人が亡くなった場合に用いる言葉だそうです。元は立派な霊屋が建立されていたようですが、今はありません。寛文10年(1670)兵庫県姫路市の、書写山円教寺に分骨されました。明治時代には、家老の代参が訪れ法要を行っていました。

宝物殿には、松平家寄進の文箱が展示されているようです。

 

 

11【一擲石(いってきいし)

応永元年(1394)最乗寺建設中の出来事で、道了がこの大石を運んでいる最中に了庵に呼ばれ、道了はすぐ手に持っていた石を棄て、了庵のそばに走り寄り命を受けて仕事に従ったそうです。その時の石が今も残り、別名道了石、投石と呼ばれています。

石碑に「半千力士」と彫られていますが、千の半分で五百人力という意味だそうです。

 

 

12【金剛水堂】

現在の御堂は六角形の珍しいもので、昭和30年に一枚石土台の上に建立されました。

金剛水は、最乗寺開創の時に何処からか、二神(飯沢大明神・矢倉大明神)が手伝いに来て、井戸を掘る為にこの地にあった石を退けようとして、鍬を入れた所、其の下から最乗寺一番の宝物である「御金印(おかないん)」が出てきました。宝物館に所蔵。

当時、この御金印を押したお守りを所持する者は悪疫を避け、山賊や悪獣の災害を免れるといい、道中お守りとして大変な評判になったそうです。堀跡からはこんこんと清水が湧き出し、今も尽きる事のない金剛の霊水です。

 

 

本堂
本堂

13【本堂(護国殿)】

本堂は、昭和39年伊東忠太の設計で再建されました。間口18間、奥行き12軒、向拝付の大建築で、昭和期の代表的木造寺院建築といわれます。本尊は「釈迦牟尼仏」。国土安穏を祈念すると共に諸種の儀式や、一般の座禅会などにも開放されています。

 

 

14【開山堂(金剛壽院)】 

昭和36年御開山五百五十回遠忌法要で、田辺秦氏設計で再建されました。開祖の了庵慧明禅師僧像、及び歴代住持霊碑が祀られています。総欅造り、建坪約40坪です。

 

 

二十八宿燈
二十八宿燈

15【二十八宿灯】3km 

二十八宿灯は中国星占いで、二十八宿名(星座名)の文字が刻まれているものだけを指します。参道の麓から一丁(約100m)毎に石碑を建て、終標の二十八宿灯は、元冶元年(1864)小田原誠信講が建てたものです。東京新吉原講が建立した石碑もあります。

 

 

宝物館入口
宝物館入口

16【宝物館(尚宝殿(しょうほうでん))】

 小型の宝物庫でしたが、昭和48年新たに造営されました。「了庵慧明禅師摺り像」・「妙覚道了大薩埵墨跡」・「華陵慧春尼真筆」・常設館御真殿模型・天狗面・松平伯爵家寄進文箱・通幻禅師椅像・狩野芳崖画・岡本秋暉画・尾形光琳蒔絵硯箱・狩野山楽横幅などを、一般公開展示しています。信徒さんのご寄付によるものが多いそうです。

 

 

座禅石
座禅石

17【御開山坐禅石】

玉垣に囲まれた座禅石(縦116㎝、横150㎝)は、了庵が、日夜坐禅を修行された時に使われた別名「布団石」と呼ばれています。

明徳元年(1390)了庵が、小田原曽我の竺土庵(ちくどあん)に安居のとき、一羽の鷲が了庵の袈裟をつかんで飛び去り、当山の大松の梢に掛けました。了庵は袈裟を捜して山中で発見し大松の近くの座禅石上に正座すると、袈裟は梢から離れて了庵の肩に掛かりました。了庵は、この奇端によりこの地を佛法興隆の処と定めて開山を発願しました。

 

 

袈裟掛の松を望む
袈裟掛の松を望む

18【袈裟掛の松(けさがけのまつ)

最乗寺には沢山の伝説が伝わっていますが、すべてはこの「鷲伝説」の一件から始まりました。22丁目茶屋下にある「袈裟掛の松」は、今は朽ち果てた姿となっていますが、開創600年の伝説を今に伝える貴重な遺跡で、ここが最乗寺始まりの原点です。

 

 

19【大雄山の杉林】 <神奈川県天然記念物指定 昭和28年(1953)> 

杉林は参道と本堂周辺の約26haを有し、信徒の寄付に寄って植林が進められ山内の苗木寄進総数は約120万本になります。樹齢350500年の巨木が見られるのは、宝徳3年(1451)大雄山五世春屋宗能禅師の「山中の草木総てみだりに切るべからざる事」の伐木禁制掟の成果です。明治4年(1871)御料林(皇室所有)に編入され、昭和5年(1930)大雄山に払い下げられ、第二次大戦中には軍用の大伐採が行われました。

                        杉林に囲まれた参道を歩く

 

 

安気地蔵
安気地蔵

20【安気地蔵(あんきじぞう)

地蔵堂は安政元年(1856)再建されました。東京浅草の薬屋が「大雄丸」をこの場所で販売していたことを現わしているのが、この石碑「施薬所跡の碑 明治40年」です。

 

 

 

 

 

お天気にも恵まれ暫しの紅葉狩りを満喫しました!!

お疲れさまでした。