9月22日(金)・26日(火)             旗本・阿久和安藤家関連の史跡を訪ねる(終了しました。)

 瀬谷区旧阿久和村の旗本安藤家は三河安藤家から分かれた家柄といい、大坂の陣などで戦功を挙げた後、二代正次の頃より徳川臣下として相模国鎌倉郡阿久和村を拝領しまた。後に江戸に屋敷や菩提寺を移しますが、現在でも大坂の陣の戦勝祈願をしたと伝わる神社、初期一族の墓所であるお墓山、旧菩提寺の観音寺などが残ります。今回は、横浜に領地をもった一旗本にスポットを当て、その歴史や生活を追いたいと思います。

 

《コース紹介動画》 https://youtu.be/Gk29aBSQZOQ

 

駅にてコース紹介
駅にてコース紹介

【希望ヶ丘駅と戦後の宅地開発】

 1948 年、二俣川駅と三ツ境駅の間に将来の住宅地開発の拠点として新設されたのが 「希望ヶ丘駅」。一般公募の中から住民投票で選ばれた駅名には、戦後の混乱期から立ち上がり明るい未来を目指そうという人々の願いが込められていた。相模鉄道はこの新しい街に、同年に50戸、翌年に80戸の住宅を建設し販売を開始。相鉄の住宅地開 発の始まりだった。

 

 

【長屋門公園】

 長屋門公園は、瀬谷区阿久和東にある公園。指定管理者制度に基づき、ボランティ ア団体の「長屋門公園歴史体験ゾーン運営委員会」により管理・運営されている。古民家を中心とする歴史体験ゾーンと、杉林・散策路を中心とする自然観察ゾーン分けられる。歴史体験ゾーンには、横浜市認定歴史的建造物に認定されている旧大岡家長屋門と旧安西家主屋や、土蔵・井戸がある。自然観察ゾーンは杉林となっている斜面が多くの部分を占めている。阿久和川の水源となっているせせらぎの水辺や三ツ境駅方面へ抜ける散策路がある。

 長屋門は、右側に居住部分、左側に納屋・土間・土蔵が続く珍しい形で明治 17年の建築という。主屋は、泉区和泉町にあった旧名主安西家の屋敷で平成2年に横浜市に寄付され、当公園に平成4年に移築・竣工した。安西家の主屋として和泉村に建てら れた時期は天保年間頃と推定される

      【長屋門前にて】            【歴史体験ゾーン】           【自然観察ゾーン】

 

 

【製糸場跡】

 瀬谷区は、市域で最も養蚕・製糸業が盛んで区内には 10 箇所以上の製糸場があった という。阿久和には改良合名会社と大剛館製糸場があり人馬の往来でにぎわっていたので「江戸阿久和」と呼ばれた。 改良合名会社は、明治 24 (1891)年北井要太郎らが起業した製糸場で、明治 32年当時 は職工 155人が働いていた。生糸年生産量は約 1550kg、工場 5棟で繭蔵・座繰場(ざくりば)・汽灌(ボイラー)室などがあり大正元(1912) 年まで操業していた。大剛館製糸場は、明 治 27( 1894)年に大岡源兵衛が起業した製糸場で、職工41 人が働き、明治 42(1909)年頃まで操業していた。

 

 

【熊野神社】

 主祭神:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、 伊弉冉尊(いざなみのみこと)、 諺坂姫命(ことさかひめのみこと)。 創建 :安和年間。 本殿の様式: 一間社流造。 瀬谷区内最古の社で、平安時代の安和年間の頃には、「天地の神のおすまい」であると 尊敬され、木を切ることを禁じられていた「まつりの場所」 であったと言われている。 弘和の頃に小さな社が建てられ祈願所とされた。戦国時代の永禄の頃、後北条氏の家臣、増田駿河守満栄によって、社の再建及び整備が行われた。その後、徳川家康の関東移封に伴い、安藤治右衛門が領主になり、社が再興された。大坂夏の陣の出陣はこの社前から出陣したと言われている。9 代治右衛門定喬(さだたか)は毎年多大な献物をし、現在残されている鳥居や灯籠等はその一部である。拝殿・幣殿・本殿が揃う本格的な神社建築で構成されている。本殿・拝殿・幣殿は、明治6年の建築、建物各所に彫刻が彫 られている。

         【鳥居】            【本殿は工事中でした】         【でも参拝はできました】

 

 

【阿久和安藤家】

 阿久和安藤家は、三河国を発祥とする直参旗本の家系。 三河安藤氏の分家。 治 (次) 右衛門の通称を代々名乗る。徳川家康の関東入国にあたり、天正19年( 1591年)、相模国鎌倉郡阿久和村(現在の横浜市瀬谷区三ツ境および阿久和から泉区新橋と一部弥生台にまたがる地域)に知行を得る。幕末にかけて、阿久和村を中心に 2540石を治め た。江戸屋敷は小日向の新坂(現在では今井坂)、現在の文京区春日。

 菩提寺は、阿久和山観音寺(横浜市泉区新橋)、墓所は横浜市瀬谷区阿久和にある通称「お墓山」で、正珍(まさよし)、正頼、正程(まさのり)の墓所がある。5代定房以降は江戸早稲田の龍善寺に葬られる。

歴代(12 代)は以下

定次(1548年 - 慶長5年 ,1600年)ーー正次( 1565年 - 元和元年 ,1615 年)ーー 正珍(1604年 - 寛文6 年,1666年)ーー正程( 1635年- 延宝7年 ,1679 年)ーー定房 (1669年 - 寛保3年 ,1743年) ーー定殻(さだよし)( 1698年 - 寛延2 年,1749年) ーー正甫(まさよし) (1732 年 - 寛政3 年,1791年 )ーー正武ーー定喬(さだたか)ーー某ーー某ーー正義

 初代定次は、安藤家重の五男で、徳川家康に従い、武勲を重ねる。永禄 6年( 1563年)の三河一向一揆に加わりもしたが、小田原合戦では内藤家長の軍に属し軍功を挙 げる。伏見城の戦いでは、目付として参戦したが戦死。三河武士の鑑と賞された。

 2代正次は、松平信康の側近を経て、徳川家康に従う。関ヶ原の戦いでは、清洲で岐阜 城陥落の知らせを受けると、中山道を西進し上田に向かい、徳川秀忠に戦況の報告を した。慶長 11年( 1606年)、普請奉行になり、駿府城の拡張工事では監督を務める。 これにより築城検視に手腕をふるう 。また 将軍御前で暴れ狂う猪を投げ槍でしとめ 「岩突きの槍」と命名を賜る。加賀前田家への密命あり。古田織部の茶会に参席。慶長 19 年(1614 年) 御槍奉行を務める 大坂の陣では, 阿久和村の熊野神社で出陣式を行う 。大坂冬の陣では、外堀を埋める奉行を務めた。夏の陣では前田利常の陣に攻撃の伝令に行った際に重傷を負い、平野で自害した。平野の願正寺には、「岩突きの槍」及び自 刃の時の刀が残されている。 中里介山著 『續日本武術神妙記』 の中で「 安藤次右衛門 」という章があり、大坂夏の陣の武勲が紹介されている。

 3代正珍(まさよし)は、御小姓組及び諸国御巡視役。寛永 10年( 1633年)、神尾守勝、近藤用行、朽木友綱と共に茶壷奉行(宇治採茶使)を勤める。鍵屋辻の決闘(1634年)で荒木又右衛門に殺害された河合又五郎を江戸屋敷に匿ったとされている。

      正程- 御目付衆 。

      定房- 御旗奉行及び茶壺奉行。

      定穀(さだよし)- 御旗奉行 。

       正甫(まさよし)- 御使番衆 。

       正武- 西丸書院番 。

       定喬(さだたか)- 阿久和の熊野神社に鳥居などを寄進した記録が残されている。文化5 年、

              部屋住御目見。 文化6年、家督小普請入。文化7年、書院番入。文政13年、

              使番(旗本家百科事典)。

 

 

【お墓山】

 泉区観音寺の寺領で、江戸時代阿久和の領主であった旗本安藤家の初期の墓があるので通称「お墓山」と呼ばれている。墓所の正面奥に 2 代正次を称えた正珍(まさよし)による頌徳碑 (寛文4年(1644)年建立)があり、 これを中心にして4 代正程(まさのり)までの墓石が囲む。5代以降は菩提寺を早稲田の龍善寺とした。 安藤家は代々「 治( 次) 右衛門 」を名乗り 、3 代正珍は、日本三大仇討の一つ「伊賀越の仇討ち」(鍵屋辻の決闘)の敵である河合又五郎を江戸屋敷に匿ったという。 

        【入口にて】           【中は広々としている】             【墓前にて】

 

 

【安藤家と駕籠訴(直訴)など】

 寛保元年(1741 年)の大凶作にもかかわらず、領主安藤定房は江戸の早稲田に龍善寺を建てるため、農民に年貢の増納を命じた。農民は年貢の軽減を訴えたが取り上げられなかったため、当時は御法度であって駕籠訴を老中松平信祝(のぶとき)に強行、領民の惨状と救助を訴えた。結果は喧嘩両成敗の形をとられ、訴えた領民は追放されたが(後、 帰農)、この時には定房は没していたため子の領主定殻(さだよし)が蟄居処分となった。しかし当時は駕籠訴を行った者は獄門か、重刑が多かったため、実質上は帰農が許された農民の勝訴だった。

 また、泉区の民話として時代は不明だが、安藤家の殿様が領内を通過していた巡礼者を「切り捨て御免」で試し切りしたという言い伝えが残されている。現在では観音 寺近くに順礼坂という名称が残っている。 

 

 

【阿久和山観音寺】

 観音寺は、徳翁寺六世孝順和尚(寛永16年 1639年寂)が開山、安藤治右衛門正珍(まさよし) (寛文6年1666年卒)が開基となり創建、慶安2年(1649年)には寺領12石3斗の御朱印状を拝領した。平成10(1998)年落慶の仏殿は、扇垂木・唐桟戸・花頭窓など禅宗様式 をよく踏襲している。内陣にはスリランカから贈られた仏舎利や篤信家寄進の金色の 釈迦涅槃像などが奉安されている。

<新編相模国風土記稿による観音寺縁起>   「阿久和村観音寺」

  阿久和山と號す、曹洞宗後山田村徳翁寺末、本尊正観音を安ず、長二尺六寸六分、 行基作。 開山は孝順、本寺六世 、寛永十六年十一月廿三日寂す。 開基は安藤治右衛門、 寛文六年十一月十二日死す、真行院と號す、なり。慶安二年十月寺領十二石三斗餘の 御朱印を賜はれり。鐘楼。鐘は元禄七年鋳る所なり。観音堂、十一面観音を安ず、弘 法作と云ふ。享保元年建つ。閻魔堂。寛永六年建つと云ふ。

     【入口にて】          【仏殿前にて】                   【仏殿の中】

 

 

【中丸家長屋門】 <注意> 居住のため門付近のみ見学可能です。

 泉区新橋は瀬谷と並び日本の絹貿易を支えた養蚕・製紙の地だった。中丸家は旧名 主で養蚕で地域産業を担ってきた。長屋門は明治 18 年ごろに建築されたものと 言われ,横浜市の歴史的建造物にも認定されている。関東大震災の後、生糸の相場が暴 落し昭和恐慌で多くの工場が倒産する中、この地域では百合根栽培に活路を求め繁栄 してきた。また、JHバラの海岸教会と繋がりがあり、1890年には中丸家の蔵を借りて阿久和教会が設立された。同じ製糸業者の北井家・大岡家などにも信者がいた。また、最近ではこの建物は「花より男子 2」などのロケ地ともなった。長屋門奥には養蚕・製糸・百合根栽培・キリスト教会などの掲示がある。

      【入口付近にて】            【長屋門を望む】             【案内板にて】

 

 

【弥生台駅】

 1976年(昭和 51年)4月開業 。 旧表示で中田町の富士見ヶ丘町内の北の外れから「馬の背」といわれた尾根道を行くと岡津町の西側に出たが、そこを大規模に造成してその一部が駅となっている。駅開業で地形が完全に変わった典型。駅を玄関口として、 西側を都市計画道路環状3号線に接し、東側は「山手台住宅地」に連なる丘陵に広がる住宅地になる。自然の起伏を活かしながら、地区の中央部を東西に走る都市計画道路をはさみ、駅寄りの北側を商業街区および一部集合住宅街区とし、南側を戸建て住宅街区とした街並み。駅前には商業施設、都市計画道路沿いには生活に必要なさまざまな施設が並び、街としての機能も充実している。

 

 

                  途中の景色が疲れを癒してくれました。

      【お墓山の彼岸花】        【阿久和川のせせらぎ】          【観音寺境内のコキア】

 

お疲れさまでした。