12月14日(木)・19日(火)            多摩川河口の歴史探訪と初詣ゆかりの寺社巡り      (終了しました)

 

いまでは正月の風物詩となっている「初詣」ですが、意外とその歴史は新しく明治後期に始めた電鉄会社の後押しが大きな流れを作りました。多摩川下流域の交通は京急が貢献しました。今回は江戸時代の参詣ルートの一つ『羽田道』の史跡を辿りつつ、東京国際空港への最新のアクセスである「多摩川スカイブリッジ」を渡って「穴守稲荷」~「川崎大師」の二所詣にでかけましょう。

 

《コース紹介動画》 https://youtu.be/I2jjKKDH7_o

 

 

京急大鳥居駅

  穴守稲荷および周辺への観光客をターゲットに開設された路線上の駅です。昭和38年(1963)に「空港線」と改称されるまでは「穴守線」と呼ばれていました。開業当初は海老取川手前に終着駅「穴守」があり、一つ手前の当駅前に参道を跨ぐ大きな鳥居があったことが駅名の由来です。

         【京急大鳥居駅】                        【出発前の準備体操】

 

自性院 創建:不詳 山号:常呂山 宗派:真言宗智山派 本尊:薬師如来

かつては牛頭天王社でしたが、明治政府の神仏分離政策により牛頭天王は羽田神社として分離された経緯があります。軒唐破風の向拝に精巧な弁財天の彫り物がある「牛頭天王堂」(文久元年建築)は大田区の指定文化財です。大森の三輪厳島社から昭和4年(1929)に移築されました。

          【山門にて】                               【本堂前にて】

 

羽田神社 祭神:須佐之男命 稲田姫命

中世には、鎌田から六郷、大師河原一帯の支配者であった羽田浦水軍の行方与次郎が牛頭天王を祀ったのが始まりと言われ、明治の神仏分離以前は隣接の自性院が管理していました。明治の初めに富士講の人々によって築かれた富士塚(「羽田富士」)は大田区の指定文化財になっています。

なお、昭和20年(1945)敗戦後に連合国軍により穴守稲荷神社とともに鈴木新田から強制退去させられた「鈴納稲荷」が境内摂社として今も残っています。

 *穴守稲荷神社は昭和23年に羽田5丁目の現在地に遷座しています。

       【境内神社】               【羽田神社】               【羽田富士】

 

 

「羽田道」の道標
「羽田道」の道標

 旧羽田道 (正蔵院前・道標)

  正蔵院(真言宗智山派)の門前に、中世からその存在が認められる多摩川河口の古道「羽田道」の存在を示す道標が置かれています。羽田道は進む方向により「江戸道」とも「弁天道」とも、また旧東海道からの分岐にあった有名な旅籠「駿河屋」の名前から「するがや通り」とも呼ばれました。羽田道は羽田の猟師町でとれた魚介や糀谷の玉ねぎなどの野菜を江戸に運ぶための重要な生活道路であり、江戸時代後期庶民の寺社詣でが盛んになると旧東海道のバイパス的な参詣道にもなりました。

 

 

大師橋を望む
大師橋を望む

 大師橋 全長550m 初代:昭和14年製造 二代目:平成18年製造

  都内から川崎側の京浜工業地帯を結ぶ産業道路が多摩川を渡るため橋が架けられました(橋名は川崎大師に因む)。現在の橋は二代目で中央の両側の2基の塔からそれぞれ左右に各7本合計28本の高張力鋼ワイヤーで橋桁を吊る美しい斜張橋です。

 

羽田の渡し跡 

多摩川の上流部は水量が少なければ渡渉も可能なところがありますが、そうではない下流部は流される都度通行のため橋が架けられてきました。しかし旧東海道を繋ぐ木橋が貞享5年(1688)の洪水で流失してからは架橋しませんでした。そこで多摩川の往来には専ら渡し舟が利用されました。「渡し」(参考:別表)には幕府が定めた主要街道連絡のための渡し(公道扱い)と作場渡し(近隣の村人による作業場往来の私道扱い)がありました

大師橋のたもとにあったのは、川崎の小島六郎左衛門が経営していたので「六左衛門(ロクゼーモン)の渡し」とも言われた「羽田の渡し」です。本来は近隣の村民が対岸の耕地へ向かうための用途でしたが、川崎大師の参詣客も乗せるようになると六郷の渡しを管理する川崎宿から非難される程賑わったということです。

また、大師参拝の賑わいに触発されたのか、明治10年には現大師橋の少し上流側に大師河原村の人々が新しい渡船(「新渡し」と呼ばれた渡し)を申請しましたが、参詣客以外の地元の人々の利用は多くなかったといわれています。

新旧いずれの「渡し」も、昭和14年の大師橋の完成に伴い廃止されました。

 

羽田レンガ堤

大正時代末期に多摩川の洪水対策として大規模な河川改修工事が行われました。改修工事の主要な内容は築堤でした。関東大震災による中断もあり、大正7年(1918)に始まった工事は完成するのには昭和8年(1933)までかかりました。荷揚げの河岸設備などが既に堤防外にあることや人々の生活のための横断にも配慮して堤の築き方に工夫が凝らされ、鉄筋レンガの胸壁にところどころに陸閘(セキ)を設けて通行ができるようなっています。高潮防潮堤建設のため昭和40年代以降最下流部分は姿を消しましたが、大師橋付近から約1kmにわたって「レンガ胸壁遺構」が残り、「日本の近代土木遺産」(土木学会)として収録されています。

         【川べりのレンガ堤】                    【道路沿いにあるレンガ堤】

 

 

穴守稲荷神社  祭神:豊受姫大神

 始まりは諸説あり、江戸時代後期に羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門が多摩川河口左岸の砂州を新田に開発しました(約160町歩。名主の名から「鈴木新田」と呼称)。その汐除堤に穴ができて海水の侵入することに備えて、堤の上に稲荷大明神を祀る祠を立て守護神としたそうです(文化年間といわれる)。

 ところがこの新田の守護神の小さな祠が明治16年頃から東京の花柳界や水商売の人々から多くの参拝者を集める「流行神」(ハヤリガミ)の様相を呈し、また明治35年(1912)の京浜電鉄の乗り入れとの相乗効果で、周辺は東京近郊の三業地として賑わいました。

 昭和20年(1945)終戦直後の9月に連合国軍の羽田空港接収によって、住民ともども穴守稲荷神社にも48時間以内の強制退去命令が出され、羽田神社内に一時期仮移転していましたが、昭和23年に現在地に遷座しました。

       【鳥居】                【奥之宮への入口】              【招福砂】

 

 

大鳥居
大鳥居

 

大鳥居

 多摩川河口の干潟を利用して飛行機を飛ばすため大正6年に我が国初めての飛行機学校が鈴木新田に創設され、昭和6年(1931)東京飛行場の開港(鈴木新田地先)へと繋がってゆきます。敗戦により東京飛行場(羽田空港)は連合国軍の物資輸送基地として利用されるよう改修されましたが、その際大鳥居だけは撤去されずに残りました。

日本が接収解除後の空港を東京国際空港として利用するようになってもなお大鳥居だけは残りましたが、ついに平成11年(1999)空港の新B滑走路整備の際に撤去されることとなりました。穴守稲荷を中心に町がかつてこの地にあったことを示したいという地元の要望を受けて、現在の位置に移されています。

 

 

多摩川スカイブリッジ 全長:675m  開通:令和4年(2022

 川崎市南部と羽田への連絡路の整備は川崎側の長年の懸案でしたが二度目の東京オリンピック開催を契機として進められ、昨年3月に開通しました。多摩川では東京国際空港に一番近く、一番長い橋です。

 橋の建設にあたっては河口の豊かな自然環境への最大限の配慮がなされていることが特徴です。例えば、河川内の橋脚を最小限の2基に抑え(そのため国内最長の支間長240m)、鳥の飛翔に影響を与える突起のある構造物を減らし、照明そのものも川面に光が漏れないようにするなど生態系へ影響を軽減しています。

        【スカイブリッジを歩く】                 【スカイブリッジからの眺望(富士山が)】

 

 

案内板の前にて
案内板の前にて

 

キングスカイフロント

 元はいすゞ自動車川崎工場他の跡地を川崎市が再開発した地区で、正式には「殿町国際戦略拠点キングスカイフロント」という名称です。キングは地名の殿町に由来し、政府の国際戦略特区の指定を受けて研究開発や新産業による経済成長を期待して作られました。空港へのアクセスも便利になり、40haの敷地に国立医薬品食品衛生研究所、ライフイノベーションセンター等環境や健康、医療関係の企業が進出し、約5千人が就労する新エリアになっています。 

 

歩道橋より小島新田駅を望む
歩道橋より小島新田駅を望む

 

小島新田駅

 京浜急行電鉄発祥の路線(大師線)の現在の終着駅です。創業時の大師電氣鐡道以来「川崎大師」が終点でしたが、太平洋戦争末期(昭和19年)に臨海部の工業地帯への輸送力確保の要請を受けて「桜本」まで延伸、その際途中駅として「小島新田駅」が開業しました。昭和39年(1964)に当時の国鉄の塩浜操車場建設のあおりを受けて、小島新田から先の塩浜間が休止となり、しかも小島新田の駅舎は川崎方面に300mほど動いて現在のところにきまりました。陸橋の上に登れば往時の旧路線の跡を追うことができます。

 

川崎大師駅(並びに京急発祥の地碑)

 明治32年(1899121日(「初大師」)に六郷橋からこの駅の場所まで路面電車の大師電氣鐡道が開通しました。旧大師新道の路面上の併用軌道を使用していましたが、専用軌道が昭和初期に新設され現在の駅のところまで繋がりました。途中駅も含めて大師線の駅位置には変動がありますが、開業当初から不動の位置にあるのは川崎大師駅のみです(ただし駅名は「大師」から「川崎大師」へ)。

 昭和43年(1968)京急電鉄創立70周年を記念して「発祥の地碑」が設置されました。

           【京急川崎大師駅】                  【京急「発祥の地碑」の前にて】

 

川崎大師平間寺 宗派:真言宗智山派 本尊:厄除弘法大師像 山号:金剛山

 初詣に三百万人の参詣人を集める川崎大師。その由来は尾張国から逃れてきた平間兼乗がある夜夢枕に立った高僧のお告げに従い海に出ると光り輝いている所があり、弘法大師の尊像を網で引き揚げたので小庵を編み供養していたところ、大治3年(1128)訪れた尊賢上人によって平間兼乗の姓から「平間寺」とされたということです。

平間寺は厄除けのご利益で昔から名高かったのですが、近世になって十一代将軍徳川家斉の公式参拝を受けたことから一層その名声は高まりました。境内には、次のような歴史を感じさせる碑も点在しています。ご参拝及び境内の散策をご堪能ください。

・寛永5年(1628)の「六字名号碑」:「字の書けなかった商人が大師参拝の折拾った筆を持つと俄かに六字名号がすらすら書けるようになり、その奇瑞を石碑に掘って大師河原に建てた」と、30年後の1658年の「東海道名所記」に記載されている川崎市の重要郷土資料

・寛文3年(1663)の「道標 こうぼう大師江のみち」:当初は川崎宿の多摩川寄り入口の土居付近にあった市内最古の道標。享保年間に「東海道分間延絵図」(江戸幕府道中奉行所)他に描かれている川崎宿を代表する石造記念物(川崎市重要歴史記念物)。

・徳川御三卿の一つ田安家が寄進した宝暦6年(1756)銘の「宝篋印塔」(「江戸名所図会」にも

  掲載されている。    

            【仲見世】                              【境内にて】

 

 

お疲れさまでした。         良いお年をお迎えください。