2月21日(火)・24日(金) 北条氏興亡の跡を歩く (終了しました。)
北条氏は伊豆国田方郡北条(現・静岡県伊豆の国市)の在地豪族で、最大勢力であった三浦氏とは比較にならない弱小勢力であった。しかし、北条時政の娘・政子が源頼朝と結婚したことから、鎌倉幕府内で勢力を強めた。比企氏や畠山氏、和田氏、三浦氏などの有力御家人を次々と滅ぼし、独裁執権政治体制を確立していく。しかし、後醍醐天皇による討幕軍の新田義貞に攻められ、元弘3年(1333)に北条氏は滅亡し、鎌倉幕府は終焉を迎えた。 |
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鶴岡八幡宮 源頼義が由比郷に勧請した石清水八幡宮(現・元八幡)を、治承4年(1180)に源頼朝が現在地に移した。参道として若宮大路を造り、京都の朱雀大路に倣って、街造りの中心とした。建久2年(1191)火災で焼失したため、頼朝が改めて石清水八幡宮を勧請した。武家政権の守護神として、鎌倉幕府滅亡後も、足利氏、後北条氏、徳川氏|こよって、代々修造が行われてきた。石段手前の若宮は下宮ともいわれ、仁徳天皇や履中天皇をまつっている。拝殿から幣殿と本殿を連ねた権現造りで、徳川幕府3代将軍家光が寛永3年(1626)に造営した。国重要文化財に指定されている。
石段脇の大イチョウは平成22年3月10日未明に、強風で倒れてしまった。承久元年(1219)1月27日、大雪の中、夕刻から3代将軍源実朝の右大臣拝賀の式が行われた。式が終わり、実朝が石段を降りかけたところ、この大イチョウの木かげから「親の敵」と叫んで、2代将軍頼家の遺児・公暁(こうぎょう※1)が襲いかかり、実朝は討たれ首を取られた。この時、北条義時は太刀持ち役で、実朝の後に従うことになっていたが、体の不調を訴え、その役を源仲章に譲っている(※2)。仲章も公暁とその一味に殺害されている。仲章を義時と思って襲ったともいわれる。この事件の真相は定かではないが、北条義時黒幕説や、三浦義村黒幕説などがある。
石段上の上宮は、応神天皇や神功皇后をまつっている。社殿・拝殿(ともに国重要文化財)は、壮麗な権現造りで、江戸幕府11代将軍家斉が文政11年(1828)に造営した。
江戸時代までは神仏混合で、八幡宮寺といわれ、仁王門や薬師堂、護摩堂、多宝塔、経蔵などがあったが、明治政府による神仏分離(判然)令により、明治3年に仏教的なものは解体撒去された。
※1.「公暁」は師である園城寺の高僧公胤(こういん)から「公」を賜ったことから「こうぎょう」と読む
※2.「愚管抄」(慈円)には、「義時は実朝から、中門に留まるように命じられ遠く離れた場所に待機していた」とある。
【若宮大路西側・北条時房屋敷跡】 【倒壊した大銀杏の根っこ】 【白旗神社】
頼朝墓所・法華堂 現在、白旗神社があるところに江戸時代まで法華堂があって、頼朝の墓所を守っていた。明治の神仏分離令により、法華堂は撤去され、堂内にまつられていた如意輸観音や地蔵菩薩像は西御門の来迎寺に移された。明治5年(1872)白旗神社が建てられ、頼朝を神としてまつられるようになった。石段を上ると頼朝の墓があり、玉垣に囲まれた層塔が建っている。この層塔は、頼朝の子孫を自称する薩摩藩主島津重豪(しまづしげひで)が、安永8年(1779)に、勝長寿院跡から移し、墓を整備した。頼朝墓の西隣に当初の法華堂があった。もともとは頼朝の持仏堂であった。建保元年(1213)の和田の乱のときには、3代将軍実朝が法華堂に避難したという。また、宝治元年(1247) の宝治合戦では、三浦泰村以下三浦一族500人余りが、法華堂に立てこもり自害したという。
北条義時法華堂跡 頼朝墓の東隣の平場の部分に、2代執権北条義時の法華堂があったといわれる。『吾妻鏡』に「前奥州禅門(義時)を葬送す。故右大将家(頼朝)法華堂東の山上を以て墳墓と為す。」とある。平成17年に発掘調査が行われ、8.4m四方の建物跡が発見され、『吾妻鏡』の記述が裏付けられた。義時の法華堂跡と確定し、国史跡に指定された。建物は鎌倉時代の終わりには消滅したといわれる。その先の山裾には古<から義時墓と言い伝えられているやぐらがあったが、現在では草木が生い茂り、近付くことはできない。静岡県伊豆の国市の北条寺にも義時夫妻の墓がある。
義時法華堂跡の先にある石段の手前左側の山腹に、やぐらがある。宝治元年(1247)の宝治合戦で滅亡した三浦一族の墓といわれる。
石段を上ると、島津重豪が頼朝の墓を整備したときに、造ったといわれる島津忠久の墓と、のちに長州藩により造られた大江広元と毛利季光(もうりすえみつ)の墓がある。薩摩藩では、島津忠久は頼朝の子で、島津氏の始祖といわれる。毛利季光は長州藩毛利氏の祖である。
【宝治合戦で滅亡した三浦一族の墓】 【義時法華堂跡】 【島津忠久・大江広元・毛利季光の墓】
大倉幕府跡 治承4年(1180)に大庭景義(かげよし)を奉行として、大倉御所の造営を行った。御所は寝殿造で、南側には中島のある池や釣殿があったといわれる。御家人が出仕する広大な侍所も造られ、武家の棟梁としての館を備えていた。東西南北に門が設けられ、南御門には八田知家・畠山重忠邸、東御門には比企宗員(能員子息)邸、西御門には三浦邸と有力御家人邸宅が御所の各門を守るように配置されていた。
嘉禄元年(1225)、宇津宮辻子に幕府が移るまで、頼朝・頼家・実朝の3代に渡って、45年間幕政の中心であった。
現在の横浜国立大学付属小中学校や清泉小学校のある場所が大倉幕府のあったところである。
「大蔵幕府旧蹟」の石碑がある場所が、ほぼ大倉幕府の中心部である。
宝戒寺【開基】後醍醐天皇
【開山】円観恵鎮【山号】金龍山 【宗派】天台宗
【本尊】地蔵菩薩坐像
後醍醐天皇の命により、執権北条氏邸の跡に、北条氏の慰霊のために、足利尊氏が建武2年(1335)に建てたという。2世住持の惟賢(普川国師)は尊氏の次男ともいわれている。
本尊の地蔵菩薩坐像(国重文)は貞治4年(1365)三条法印憲円という仏師の作であることが胎内銘により明らかになっている。本尊の両脇には梵天・帝釈天(ともに県重文)が、その前には十王像がまつられている。本堂右奥の大聖歓喜天堂には、秘仏である歓喜天像(国重文)がまつられている。鎌倉時代後期の作で、鎌倉彫刻特有の土紋装飾がされている。大聖歓喜天堂の手前には、14代執権北条高時をまつった徳崇大権現堂がある。鎌倉幕府が滅亡した5月22日には、北条氏鎮魂のため、毎年大般若転読会が行われる。本堂の左手前には、北条氏及び東勝寺合戦の戦没者を供養するための宝筐印塔が建てられている。江戸時代には天海が、関東における天台宗の本寺として、寺の維持を徳川家康に懇願している。萩の寺として知られているが、枝垂れ梅も鎌倉を代表する花であり、水仙、ミツマタ、椿、桜、百日紅(さるすべり)、酔芙蓉など花の寺である。
【宝篋印塔】 【梅越しに見える本堂】 【得宗大権現堂】
東勝寺跡・腹切りやぐら 東勝寺は3代執権北条泰時が嘉禄元年(1225)に北条氏の菩提寺として建立。開山は退耕行勇。菩提寺であるとともに、有事に備えた城塞の役目もあったといわれる。
元弘3年(1333)、鎌倉に攻め入った新田義貞の軍勢に対し、幕府軍は東勝寺にこもったが、義貞軍に敗れ、火を放って自刃したという。『太平記』によると、14代執権北条高時以下870余人がここで自刃したという。室町時代に足利氏により再建され、鎌倉五山に次ぐ関東十刹のひとつとして繁栄したが、鎌倉公方が鎌倉を追われたころに衰退したといわれる。
境内跡の奥には、北条高時腹切りやぐらといわれる大きなやぐらがある。中には北条高時墓と伝わる石塔と、北条―門を供養する卒塔婆がある。やぐらの前面には大きな角塔婆があり、「日輸寺殿崇鑑大禅定門」と、北条高時の法名が記されている。
発掘調査により、火災の跡と思われる炭と灰の層とともに、岩盤上に柱穴や礎石などが見つかっている。三つ鱗紋のついた瓦や、中国製の青磁器の破片や天目茶碗なども出土している。しかし、人骨は見つかっていない。宝戒寺の寺伝では、東勝寺で自害した人たちの遺骨を、釈迦堂奥のやぐらに埋葬したといわれる。昭和40年の宅地造成工事中に、多数の人骨と「元弘三年五月二十八日」銘(東勝寺で5月22日に自害した初七日)の五輪塔が出土した。
【東勝寺跡】 【腹切りやぐら】
青砥藤綱旧蹟 青砥藤綱(生没年不詳)は、北条時宗・貞時の2代の執権に仕え、引付衆(訴訟の審理に当たる役職)であった。『太平記』によると、夜になって出仕した時、銭10文を滑川に落としてしまい、たいまつを50文で買い、川の中を照らして探し当てたという。人々が10文を探すのに50文を使うのは大損ではないかと言ったところ、藤綱は10文を川に沈めたままにしておくのは天下の貨幣を失うことになる。50文は商人の手に渡り、天下の利になると言ったという。これを聞いた人々は感心したという。『太平記』や『大日本史』|こよると、藤綱は公正な裁判を行ったという。青砥藤綱については、実在の人物かどうか定かではないが、これらの逸話から、この頃には、貨幣経済が成立していたことがわかる。
若宮大路幕府跡 嘉禎2年(1236)8月に、宇津宮辻子からふたたび御所を移している。若宮大路に面しているので、若宮大路幕府といわれた。若宮大路に面した西門があった。北隣は執権邸で、やはり若宮大路に面した西門があった。若宮大路に面した西門があるのは、例外的である。他の御家人の屋敷や寺院には、若宮大路に面した門を造ることは許されなかった。
以後、焼失や再建はあったが、元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡まで、97年間幕府が置かれた。
若宮大路幕府跡の石碑の先に、旧大仏次郎(おさらぎじろう)邸がある.
宇津宮辻子幕府跡 宇津宮辻稲荷がある一帯が、宇津宮辻子幕府跡とみられている。元仁元年(1224)6月に執権北条義時が急死し、翌年嘉禄元年 (1225)7月に尼将軍といわれた北条政子が没すると、将軍御所の移転が具体化し、同年の12月20日に新御所に移った。翌年1月に頼経(よりつね)に将軍宣下があり、頼経が4代将軍となった。頼経は右大臣・九条道家の子で、9歳であった。御所移転の理由は定かではないが、人心を一新し、幕府の施策の徹底をはかったものと思われる。頼経が成人すると、頼経の子でわずか6歳の頼嗣を5代将軍にするなど、北条得宗家による独裁体制が確立していく。
貞永元年(1232)8月に、3代執権北条泰時により、鎌倉幕府の基本的法典である御成敗式目(貞永式目)が制定されたのも、ここ宇津宮辻子幕府である。
お疲れさまでした。