4月4日(火)・7日(金)               大庭御厨と地形を利用した広大な城、大庭城跡を訪ねる  (終了しました)

大庭城は未だ不明なことも多いですが、①鎌倉(大庭)氏時代②扇谷上杉氏時代③後 北条氏時代とおおよそ三期にわたる城と考えられます。大河ドラマ『鎌倉殿の 13 人』 に登場した大庭景親とは直接の関係は確認できていませんが、その時代前後に築造され たことも考えられます。●平安末期、伊勢神宮への寄進領である大庭御厨の中心地として● 15 世紀扇谷上杉氏の相模国支配の拠点として●北条早雲の初期戦国三浦氏攻略の 後衛としてそれぞれの時代に機能してきたのかもしれません。今回は当クラブ「お城シ リーズ」第5弾となりますが、要害地形を利用したこの城跡の歴史や特徴と平安末からの荘園である大庭御厨や鎌倉党、岩船信仰などについてご案内します。

 《コース紹介動画》 https://youtu.be/aTcr5N7ZVvs

 

        本文中、紙面の関係で系図や表、図などは省略させていただきます。

①舟地蔵伝承と岩船信仰

  『永正 9年(1512) 、大庭攻めの際、城に立て籠もる上杉朝興と伊勢宗瑞(北条早雲) の陣の間に引地川からの水による大沼があり攻め入ることを拒んでいた。そんな時、たま たま沼の近くの茶店に立ち寄った北条方武士がボタ餅売りの老婆から、「沼の水は湧き水 ではなく引地川の水を取り入れているので、取り入れ口の堰を止め下の堰を開けば水はなくなる」と教えられた。その夜茶店の老婆と堰番は口封じのため殺され、日ならずして大庭城も沼を越えての襲撃で 落城したという。村人たちはこのことを知って、何年か後 に老婆を供養するお地蔵さまを建てた。極楽浄土へ送るた めに舟に乗せて舟地蔵としたとのことである。』との伝承 をもつ舟地蔵だが、元々は江戸時代の一時期に流行した岩船信仰に関連するといわれる。

 岩船信仰とは、舟に乗った地蔵の逗子を担いだ盛装の老若男女が鉦や太鼓を打ち鳴らし、念仏を唱えながら踊って隣村へ地蔵を「村送り」して回 るもので、「岩船地蔵巡行」が江戸時代の享保 4年(1749)から数年間熱狂的に行われた。 流行範囲は上野・武蔵・相模 から駿河方面に及んでいる。その村送りの証として岩船地蔵を造立したといわれ、県内でも 26 基 の石仏が「岩船地蔵」として確認されている。流行神仏 (はやりがみ)としての岩船地蔵の起点は下野国岩船山高勝寺が伽藍再建資金集め のための布教・宣伝活動をしたことにあったといわれるが、広まるにつれ庶民の間では飢饉が続く不安な社会状況のなか、ある種抑圧への反発の表現として爆発的に流行し、村行 政上の規制強化もあり数年で立ち消えになったといわれる。 

      【舟地蔵の前で】              【舟地蔵】               【旧舟地蔵の前で】

 

 

②大庭御厨と鎌倉党

  大庭御厨は 1116 年に鎌倉権五郎景正が開発し伊勢神宮に寄進した荘園(寄進型荘園) である。その地域は現在の藤沢市から茅ケ崎市に及び、東は境川、西は小出川、北は亀井 野、円行(大牧崎)あたりまでの広大な地域となり、相模国の中で最大の御厨であった。 御厨は皇室、伊勢神宮、賀茂神社等の有力神社の神領として神饌を調進する場所であり租税が免除される国免荘であった。こ の時代はこの形式の荘園が多く存在 した。しかし、そ の免税許認可の裁 量 権 は 国 司 に あ り、交代するごと に 土 地 や 税 の 没 収、許可の取り消 しなどの恐れがあ り、在庁官人から の暴行、略奪等の 危険も常に含んで いた。そして大庭御厨においてもこれを繰り返していた。

 鎌倉党の系図については諸説あるが、ここでは右表を参考にしていただきたい。1144 年 東国で勢力を拡大していた源義朝は相模国目代と結託して大庭御厨に乱入し、収奪を繰り 返した(天養記)。当時の下司(下級職員)は大庭景宗(大庭城築城者か?)であった。 げ す 景正から子の景継に引き継がれたあと、その役職は庶流の大庭氏に受け継がれていた。こ の乱入に対し、事態を朝廷に奏上するも国司は「国司進止にあたらず」と無視した。その 後保元の乱、平治の乱と移っていく。義朝軍の中に大庭景宗の子景義、景親兄弟の名があ るが、この時の義朝の勢いから服従せざるを得なかったものと考えられている。保元の戦 いで、兄の景義は源為朝の矢を受け負傷し歩行困難になり、実権が弟に移った。平治の乱後 、 大 庭 一 族 も 平 家 よ り 処 断 さ れ る こ と に な っ た が 、 清 盛 か ら の 恩 赦 に よ り 景 親 の 首 は 落 と さ れ る こ と は な か っ た 。 そ の 後 、 景 親 は 清 盛 へ 恭 順 し 鎌 倉 に お け る 主 要 勢 力 と な っ て い く 。 そ し て 頼 朝 挙 兵 と 繋 が る 。 こ の 時 、 大 庭 景 親 は 鎌 倉 党 を 率 いており、 石 橋 山 の 戦いでは頼朝も敗走させる。しかし、兄の景義は一貫して源氏へ味方した。頼朝は安房に 渡り勢力を拡大し、鎌倉に入部した。 富士川の戦いで平家が敗走した後、 景親も捕まり、 2 日後に首を刎ねられた。鎌倉党の中でも梶原景時、長尾定景らは頼朝から許しを受けた。 兄の景義は大倉御所造営の別当として鎌倉幕府内においてもその地位を確立し、兄弟の明 暗が分かれた。鎌倉党はいずれにせよ梶原景時の失脚、和田合戦により景義嫡男景兼、宝治合戦により長尾一族が滅亡し鎌倉党も解体していった。その後、宝治合戦後の大庭御厨 は北条得宗家の所領となっていく。

 

 

管理棟内ジオラマ
管理棟内ジオラマ

③大庭城の概要

 大庭城跡は、舌状台地の先端部に立地し, 引地川・小糸川に挟まれた天然の要害にある 。築城した人物や時期について明確に分かっていないが、七沢城(厚木市)を追われた扇谷上杉朝昌が長享2年(1488) には在城していることが記録に残っており、扇谷上杉氏の手により築城された可能性が考えられる。『新編相模国風土記稿』には、平安時代後期に活躍した大庭三郎景親の居館であったとの伝承が紹介されているが、室町時代の記録を見る と大庭城と大庭景親の居館は別々の場所であることが記されている。大庭城は扇谷上杉氏 の相模国東部における拠点として機能し ていたと考えられる が、永正9年 (1512) に小田原北条氏の初代伊勢宗瑞(北条早雲)により攻め落と されている 。その後、 小田原北条氏が大庭城を使用したかにつ いては不明である。 ただ、宗瑞が大庭城 落城と同じ年に玉縄城を築城しているこ とから、戦国初期には大庭城は重要拠点としての役割を終えたと思われている。

 

 

④大庭城の構造

 引地川に沿ってのびる舌状台地の先端部にあって、土地の平面は三角形をしている。主郭標高は 43メートル、引地川からの比高は 35メートルほど。縄張り(城の設計)は、主郭を南側に置いて三つの曲輪を北に向けて開く直線連郭式である。現存する城域だけでも、 南北(長軸)450メートル、東所350 メートルに達するが、かつてはこの北側に外郭が広 がっており、残存範囲の北方 250 メートルほどのところに台地がくびれている部分があり、 「二番構」という地名が伝承されていた。他にも城下・門先・裏門などの地名が遺る。 現在の大庭城は逆三角形状の形をしているが、これは昭和 40年代の区画整理により北側の一部が削平されたためである。元々の大庭城は長細い菱形のような形をしていたこと が、削平前の写真や地図から分かる。区画整理に伴い、大庭城は一部発掘調査がされた。 その結果、大小さまざまな形をした堀や、掘立柱建物群などの遺構、15 世紀中頃から後半 の遺物が見つかった。しかし、大庭氏時代の遺物遺構は発見されていない。

  繩張りは、全体に曲輪取りが大きいのが特徴で、各曲輪は大きな空堀と土塁によって防 御されている。主郭と曲輪①とを隔てる堀切は直線的であるのに対し、曲輪②③と外郭とを隔てる堀切には大きな折れが付けられている。主郭と曲輪①の西面を二重の横堀で防御 し、この横堀が主郭の西側にある腰曲輪にまで伸びているのに対して、東面には横堀では なく腰曲輪群を配していることも特徴である。この腰曲輪群をつづら折のように登ってく る城道(大手道か?)が確認できる。主郭北西端に櫓台を備えていること、西側に防御と攻撃を集中するように塁壕が折れていることなどを考えると、築城者が西からの攻撃を念頭に置いたことが伺われる。城の東麓は、かつては引地川の氾濫原または水田で、攻城軍は北方から西方から攻める形だったと思われる。

  全体としてみると、大庭城 は平らで充分な広さを確保で きる台地上に、大きな塁壕を普請することによって、堅固 な城となっている。城域その ものが広大であることに加え、 塁壕の規模も大きく、横矢掛 りの大きな折が目立つことな どから、高度な縄張り技法を 駆使しているように思われが ちである。しかし、横堀対岸 の塁上を用いた曲輪間のルー トや、侵入者を足止めして狙 撃するような横矢掛りといっ た、戦国後期の関東地方特有 の技法は見られない。 扇谷上杉氏と山内上杉氏と が抗争を続けていた明応五年 (1496)、 相模西部にあった扇 谷上杉方の拠点が次々と陥落 して、扇谷上杉軍は一時、相模川以東に後退した。また、 永正元年(1504) にも山内上杉軍が相模西部に侵攻して扇谷上杉軍は苦境に陥っている。こうした時期に、扇谷上杉軍 の拠点として大庭城が築かれる必然性はあったと思われる。相模川以東の地域における軍事力を維持するために、扇谷上杉軍が数千規模の兵力を収容できる作戦拠点を必要とした可能性は高い。このような事情で構築された大庭城だったなら、永正九年に伊勢宗瑞が三浦氏を半島内に追い詰めて玉繩城を築いた時点で、大庭城の存在意義は失われたと考えら れている。

      【大庭城虎口】            【大庭城掘っ建て柱】           【大庭城郭址を歩く】

 

 

⑤相模国 式内社 13 と大庭神社・熊野神社

  900年代の前半に神祗官によって纏められ、延喜式の神明帳に記載された神社を式内社という。相模国においては表の通り 13社 (大社 1、小社12 )が記載されていた。高座郡 には相模国一之宮の寒川神社(大社)を含む 6 社が掲載されてお り大庭神社の名も挙げら れている。そのことは、平安時代にはこの地方にまとまった村落の産土神的存在として大庭神社が崇められていたことを示している。 

■ 大庭神社 (舊蹟との関わり)

祭神 :神皇産霊神、菅原道真、大庭景親                          *所在地 藤沢市稲荷

  大庭郷の鎮守である大庭神社の位置について、現在地が約千年間動かなかったかについ ては、問題点があげられている。すなわち、

① 大庭本郷の氏神の所在としては川の対岸と距離があり不自然なこと

② 敷地内の梵鐘 (享保 2年(1727))の 銘に「天満大明神」の文字を削り「大庭大明神」 等追刻の跡が認められること から、この社をもって大庭神社にあてようとする説(論社= 式内社もしくはその後裔とさ れる神社)は江戸時代からあったものの、それをあえて固守するだけの確証はなく、社名 として「天神社」と通称していたものを、明治維新後「大庭神社」と改称したのではないかと考えられている (藤沢市教育委員会『藤沢の文化財②』)。

         【鳥居】                 【大庭神社】                【梵鐘】

 

 

■ 熊野神社 (大庭権現社、大庭神社舊蹟)

祭神 :熊野久須毘命     *所在地:藤沢市大庭 

  「 新編相模国風土記稿」 においては 里人此地をも大庭神社の旧跡なりと伝ふれ ども、上世の事にて信じ難し』 と断じ ている。傍らに「大庭神社舊蹟」と刻んだ碑や文化7年( 1810)に 名主山崎六郎兵衛雅彦が寄進したという数十段の石段を残し、石造の鳥居は天保4 年(1844) とあり、地元では「御霊社」 とか「大 庭権現社」とも呼ばれている古社である 。

  確たる証拠はないため伝承の地という ほかはないが、平安時代に大庭郷本郷が当神社を含む一帯であったことは誤りな いので、大庭神社の論社(式内社もしく はその後裔とされる神社)とされている 。

       【数十段の石段】           【石造の鳥居】               【熊野神社】

 

 

          途中、満開の桜を楽しみながらの散策でした。

     【引地川の桜を遠望】          【引地川河川敷の桜】        【引地川河川敷の木橋】

 

 

お疲れさまでした。