3月20日(月)・23日(木)             鎌倉殿も遊んだ三崎の歴史を辿る(終了しました。)

 

旧相模国三浦郡は、その名が既に「日本書紀」の持統天皇6年の条に「御浦郡」とあるように、古代からの歴史があります。中世には源頼朝初め歴代鎌倉殿が遊覧した場所でもあります(吾妻鏡)。近世には「花(椿・桜・桃)の三御所」としてその風向明媚さを謳われた三崎の地に、歴史上の人物のゆかりの場所を訪れてみましょう。

 

 《コース紹介動画》 https://youtu.be/gCVaWDmE9Xg

 

集合場所。いざ出発です。
集合場所。いざ出発です。

 

 

   金剛山大椿寺(臨済宗妙心寺派)

 

本尊:十一面観音坐像。開山:旭永。開基:妙悟尼。創建:寛喜2年(1230)。鎌倉時代にはこの場所は椿樹が多く庭中椿の花で埋め尽くされていたそうで、「椿の御所跡」と伝えられています。寺伝によれば開基の妙悟尼は源頼朝の側室で政子の勘気を恐れてこの地に住み、頼朝没後尼僧となり小庵にて菩提を弔っていたとのことです。

        【椿の御所跡】               【本堂】              【発掘された埴輪】

 

 

北条湾を一望
北条湾を一望

         ★ 北条湾

 

その名のごとくこの湾は戦国時代の北条氏の北条水軍(海賊衆)の基地となっていました。大正12年の関東大震災の際震源に近い三崎は大きな被害を受け、北条湾は海底が以前より平均15㍍せり上がり、干潟となってしまいましたのでその後7年の歳月をかけて浚渫工事が行われました(浚渫土砂は花暮海岸の埋立に利用)

 

 

         (会津藩士城山墓地) *離れた崖下に墓地があります。

文化7年(1810)異国船対策として江戸湾の防備を命じられた会津藩は翌文化8年(1811)より三浦半島内の各所に陣屋を築いて駐留者を配置、台場を築造して防備につきました。(注、三崎陣屋は現三浦市役所裏手から三崎小学校・三崎中学校を含む一帯。なお三崎台場は城ヶ島の安房崎に設置)

 

   会津藩士達は一家を挙げて三浦半島南岸部に移住してきたため、お役御免となる文政3年(1820)までの十年間に多くの藩士や家族が亡くなり、墓地に墓石26基と大正2年に建立された合同供養塔があります。

 

 

三崎城址の案内版
三崎城址の案内版

         ★ 三崎城址

 

会津藩等により陣屋が置かれた三崎の丘陵部(北条山)は要害の地であり、戦国時代には三浦道寸の新井城の支城がありました。三浦氏を滅ぼし相模の主となった小田原北条氏が南側に空堀と出丸(現在の本瑞寺と光念寺の平地部分)を築くなど修築を施し、安房の里見軍への備えを強化しました。天正18年(1590)小田原北条氏滅亡のあとは廃城となり、関東の支配者となった徳川家康は三崎に徳川船手奉行(向井・間宮・千賀・小濱の4氏)を配置し江戸湾の制海権の維持を図りました。

 

 

桜の御所の案内板
桜の御所の案内板

       ★  海光山本瑞寺(曹洞宗)

 

本尊:地蔵菩薩(伝三浦道寸父子の守り本尊)。開基:三浦義意(ヨシモト)。中興開山:文廣和尚(天正18年)。徳川幕府の船手奉行の一人小濱民部景隆の屋敷跡であった所に、享保4年(1719)光念寺の西側(龍泉庵のあった場所)から移転して来ました。山門脇には頼朝の時代の山荘跡の一つ「桜の御所」の旧跡碑が置かれています。

         【境内】                  【本堂】       【岩村透(近代美術の先覚者)の銅像】

 

 

         見龍山無量寿院光念寺(浄土宗)

本尊:阿弥陀如来。開基:和田義盛{創建:建久元年(1190)}。和田義盛は根拠地の三浦に阿弥陀如来を祀るお寺を七か寺建立し、光念寺はその5番目と伝えられています。

 

山門を入った右手の弁天堂には筌龍弁財天がお祀りされています。寺伝によれば治承4年(1180)畠山重忠らに攻められ、衣笠城から船で安房に向かう途中暴風雨のため数日漂流、義盛らはたまたま流れてきた筌(セン 竹で編んだ漁具)のおかげで飢えを凌ぐことができ、頼朝達に合流を果たせた。後になって筌が竜となって天に昇る夢を見た義盛は、あれは竜神のおかげだったのだと気づき、筌龍弁財天と命名、ここに祀ったということです。

     【境内にある案内板】         【山門から本堂を望む】            【弁天堂】

 

 

         北条遊郭跡

 

江戸時代の初め頃の三崎港は廻船の寄港地で、船乗りが上陸すれば当然のように遊妓場として花街が周辺に広がり、ここには北条遊郭がありました。北条遊郭は明治33年火災によって焼失しましたが、往時の石の門柱などが哀れを留めています。

 

 

鳥居からの眺望
鳥居からの眺望

         ★ 海南神社

三浦郡の総社。主祭神は藤原朝臣資盈(スケミツ)、藤原盈渡姫(ミツワタリヒメ)、地主大神(トコヌシノオオカミ)。創建:貞観8年(866)。また、樹齢八百年を超すといわれる雌雄一対のご神木の大銀杏は源頼朝お手植えといわれています。

*相州海南高家神社(境内社)

 祭神は磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)。料理を司る食の神様として崇められている神様。

*水神碑

 心字形の御池と橋は向井将監が寄進したものです。水の底には衣冠束帯の神像や武神像、不動尊像、天狗などが線刻された高さ約2㍍の自然石の水神碑が沈められています。

*チャッキラコ踊り

 新年1月を迎えるとユネスコ無形文化財として平成21年に我国最初に登録された歌舞「チャッキラコ」が当社に奉納されます。踊りの元は藤原資盈の細君盈渡姫が村の娘達に教えたものといわれています。

  【ご神木の大銀杏】          【海南神社】             【相州海南高家神社(食の神様)】

 

 

     泰平山最福寺(浄土真宗本願寺派)

 

本尊:阿弥陀如来。創建は寛喜2年(1230)桑田永教が鎌倉に天台寺院として建立。三崎西ノ浜に移転後、江戸時代に船手奉行向井正綱の屋敷跡の寄進を受け元禄10年(1697)に移転して来ました。山号の泰平山は向井正綱が持船泰平丸の船玉八幡を祀ったことに由来します。また一説によると、中世に鎌倉殿が相模湾越しの富士の眺望や山桜の風景を楽しんだという「桜の御所」はこの地にあったのではともいわれています。

 

 

         ★ 向井一族の墓

 

向井一族の墓碑があります。徳川家康の水軍の長向井正綱とその妻(長谷川長綱の妹)、嫡男の将監忠勝、忠勝の子の忠宗ら8名の墓塔や供養塔があります。

 

 

         紫陽山見桃寺(臨済宗妙心寺派)

 

本尊:釈迦牟尼仏。創建は慶長18年(1613)。開山:白室玄虎(駿河清見寺の禅僧)。開基:向井兵庫頭正綱。寺の元の場所は「桃の御所」と称される鎌倉時代源頼朝の山荘があったところ(歌舞島近辺)と伝えられています。境内の白秋歌碑は、昭和1611月に北原白秋隣席のもとで除幕されました。北原白州は大正2年に三崎に移住、異人館(大椿寺近辺)のあとは見桃寺に仮寓していました。

         【見桃寺入口】          【桃がお出迎え】          【北原白秋の歌碑】

 

 

「歌の町」の童謡碑
「歌の町」の童謡碑

          歌舞島

歌舞島公園となっている小高い丘一帯は、かつては島で、ここからは相模湾が一望のもとにあって富士・丹沢・箱根の山々から大島まで望める絶景の場所として知られていました。名前の由来は、鎌倉殿が代々この場所で歌舞に興じ宴を催していたことに因むとか、海賊衆の水夫(カコ)の集落の冑島に因むとか諸説あります。

 

童謡碑「歌の町」は、三崎町出身の作曲家小村三千三(ミチゾウ)の自筆の楽譜を刻んで碑にしたものです。歌の町のモデルは三崎町といわれています。

 

 

「くぢら塚」
「くぢら塚」

  ★     西ノ浜地蔵堂の鯨塚

 

地蔵堂にはいくつかの石仏に混じって平頭角柱型の「くら塚」があります。江戸時代に城村永代領主の間宮氏が江戸詰になって以降、残った漁民達(水夫)が次第に沖合漁業を発展させ、三崎で鯨漁が盛んな頃を偲ばせます。

 

 

 

うらり がお出迎え
うらり がお出迎え

         ★ う ら り

三崎港の「三崎フィッシャリーナ・ウオーフ」の愛称は、海(み)を楽しむ()里()というコンセプトでつけられました。平成7年に開業し、地域活性化と水産振興を目的とした魚介・農産物の産直センターやカフェの複合施設です。

 

なお、花暮には三崎館や岬陽館といった大きな旅館が震災前(大正期)からあり、関東大震災で隆起する以前は満潮時には窓から釣りができたくらい海岸沿いに位置していました。

 

 

お疲れさまでした。この後はマグロでも如何ですか。