6月8日(木)・12日(月)              外国人居留地殺人事件を追って (終了しました。)

明治29年(18961022日、山手外国人居留地内で、横浜ユナイテッド・クラブ支配人のウォルター・ハロウェル・カリュー氏が謎の死を遂げた。医師の判断で検死に回されると、体内のすべての臓器からヒ素が発見された。さっそく領事裁判が開かれ、医師や薬種商、使用人たちの証言のもと、陪審員が審議した結果、カリュー氏の夫人イーデス・カリューによる毒殺事件であると判決が下された。夫人は有罪となり死刑を宣告される。

普段は静かな外国人居留地だったが、このミステリアスな事件はたちまち居留地内に広がり、住民たちを不安と混乱に陥れた。

カリュー氏殺人事件の経緯を追って、開港場横浜で暮らした外国人たちに想いを馳せながら、本牧から山手・関内の外国人居留地を巡る。

 

《コース紹介動画》 https://youtu.be/mm98wxEy5Jk

 

カリュー氏一家
カリュー氏一家

●カリュー氏毒殺事件の概略●

カリュー夫妻は、18895月イングランド南西部のグラストンベリーで結婚。夫人の父はグラストンベリーの市長で後の首相ウィストン・チャーチルにつながる名家である。一方カリュー氏の父は陸軍少佐で家格があまり高くなかったこともあり、最初は結婚を反対されたらしい。夫妻は明治23年(1890)に来日、長女マージョリーと長男ベンジャミン、夫人の弟レジナルド・C・ポーチ、家庭教師のメアリー・ジェイコブのほか、料理人や別当など7人の使用人たちと暮らしていた。来日後しばらく逗子に住んでいたが、明治28年(1895)山手169番に居を移す。カリュー氏は横浜ユナイテッド・クラブ支配人の職に就き、どんなジェントルマンとも親しく話せる立場にあった。

 

 明治29年(18961015日、カリュー氏が体調を崩したため、主治医のホィーラー博士に往診を頼むが、持病の肝臓疾患だから、仕事を休み少し静養するように指示される。その後20日に容体が悪化したため、英海軍病院のトッド院長にも診てもらったが、肝硬変との診断だった。その日の夜中には家の中を歩き回るほどに回復したものの、翌21日急変、22日午後3時前に英海軍病院に入院したが午後4時半頃死亡した。ホィーラー博士は家庭教師のメアリー・ジェイコブから、カリュー氏がヒ素を服用していたことを聞き、検死裁判の必要を訴えた。1024日、第1回の検死裁判が海軍病院会議室で開かれる。同日午後にはカリュー氏の葬儀が営まれたため、カリュー夫人は審理を抜けて葬儀に参列した。午後の領事館での審理では、カリュー氏がヒ素が含まれる薬を常用していたことや、何店かの薬種商で求めていたことが証言された。薬種商の中には日本の薬種商「丸屋」も含まれていた。審理で証言した丸屋の早矢仕七郎は早矢仕有的(丸善創業者)の四男である。検死裁判における陪審員の評決は「ヒ素による中毒死であるが、犯人は不明」というものであった。

事件の顛末に耳をそばだてる
事件の顛末に耳をそばだてる

(つづき)公判では、夫人の動機として、実家から支援を受けている年500ポンドの資産のことで夫のカリュー氏と口論になっていたことや香港上海銀行のディキンソン氏との交際などが指摘された。また、夫人はマラリアの薬としてヒ素を服用していたことなども明かされている。

 

裁判の結果、夫人の証言や行為に不審な点が多く、確たる証拠が無いものの陪審員の全員一致で有罪(死刑)とされた。

明治30年(189721日に有罪判決が出て、カリュー夫人は英国領事館拘禁所に身柄を移されるが、2日後、駐日公使アーネスト・サトウは「(明治)天皇陛下が皇太后(孝明天皇妃)の死去に伴い大赦令を公布されたこと、天皇陛下の御領土において裁かれた事実を勘案し、カリュー夫人を終身刑に減刑する」と言い渡し、香港の植民地刑務所に移送された。その後ロンドンの刑務所に移送され、1910年ジョージ5世即位の大赦により出所、1958627日に90歳で死亡した。

 

●本牧●

第二次大戦後の昭和21年、この辺り一帯は米軍に強制収容された。接収された面積は70万㎡に及ぶ。これは東京ドーム15個分に相当。接収地は海側のエリア1と山側のエリア2があり、日本人地区とはフェンスにより仕切られていた。「フェンスの向こうのアメリカ」と呼ばれ、空襲で焼かれたバラック街とは天と地ほどの差があった。接収は昭和57年(1982)まで続く。アメリカの文化が溢れ出た街にはあこがれと羨望が入り交じり、若者たちのライフスタイルに大きな影響を与え、音楽、ファッションなど独特の若者文化が醸成されていった。

 平成元年(1989)アーバンリゾートをコンセプトにスパニッシュコロニアル洋式の建物10棟(※)から構成される大ショッピング街「マイカル本牧」が誕生、翌年には1,500万人の来場者が押し寄せたという。(ディズニーランドよりも来場者が多かった。)しかし、バブルがはじけ、テナント料の高騰などもありテナントの撤退が相次ぐ。またランドマークタワーを中心としたみなとみらい地区に人が流れるなど徐々に寂れていった。交通の便の悪さも一因と言われる。当初横浜市営地下鉄が関内から本牧を経由して根岸まで通じる計画であったが地元商店街の反対により頓挫したことや、みなとみらい線が本牧まで延伸する計画も元町・中華街止まりに変更されたことも影響。平成23年(2011)、イオンに吸収され、その幕を閉じる。

 

 ※1番街~12番街までの10棟(4番、9番は欠番)

      【本牧風景(その1)】         【本牧風景(その2)】          【本牧風景(その3)】

 

本牧チャブ屋街跡
本牧チャブ屋街跡

●本牧チャブ屋街●

戦前、現在の山手警察署北側にあった外国船員相手の私娼街。幕末、旧十二天海岸での外国人海水浴客目当ての海の家がその発祥で、簡易食堂を表す「CHOP HOUSE」がなまったのが語源といわれる。ダンスホール、乗馬クラブなどを備えるところもあり、次第に文化サロン的な面ももった。谷崎潤一郎作『痴人の愛』には本牧で暮らした日々が反映されている。戦後は、警察署西側に進駐軍向けの店舗が並んだが、昭和32年売春防止法施行を契機に姿を消した。

 

 

●本牧十二天社●

本牧十二天社は本牧岬先端の出島に鎮座する本牧本郷村の鎮守であった。創建は建久3年、頼朝が鎌倉幕府開府に当たり、鬼門を守護するため平安期から奉祀されていた社殿に朱塗りの厨子を奉納したことに始まると伝わる。江戸時代には代々の将軍家から朱印が下され、風光明媚な地として江戸名所図会などにも紹介されている。幕末には外国人遊歩道の支線にあることからも散歩道として多くの外国人に親しまれた。450年余りの歴史を有する「お馬流し」は神奈川県の無形民俗文化財に指定されている。本牧十二天社は明治初年の神仏分離で本牧神社となる。神社の隣には茶店ができ浜辺は潮干狩りや海水浴で大いに賑わった。昭和205月の横浜大空襲で被災、翌21年から社地は進駐軍に接収され、本牧2丁目へ仮遷座した。平成5年(1993)現在地の本牧和田へ再び遷座した。この十二天の崖はペリーの海図にはマンダリン・ブラフ(蜜柑色の崖)と名付けられ、当時はるばる渡ってきた船はこの崖を目印にしていた。十二天公園のベンチはお馬流しをイメージし、舟をかたどった形をしている。

               【本牧十二天社跡】                      【マンダリン・グラフ】

 

向い側に屠牛場があった
向い側に屠牛場があった

●公設屠牛場●

安政6年(1859)開港時、日本には食肉文化がなかったが、彦根藩で献上用の近江牛の屠牛が例外的に認められていた。開港とともに英仏軍が山手に駐屯し、牛肉の需要が増大すると本村通りや堀川沿いに牛舎が多く設けられた。屠牛もそこで行われ牛肉屋が繁盛していたが、周囲の市街化が進むにつれ廃物の処理が問題となっていった。外国側は市街地から離れた場所に公設の屠牛場を設けることを要求、元治元年(1864)「横浜居留地覚書」の第四条に取り入れられて山手と本牧の中間に位置する小港の海岸に屠牛場を建設した。慶応元年(1865)イギリス、アメリカ、オランダ、フランス、プロイセンの5か国の食肉業者に貸与された。その後、小港屠牛場の周囲も人家が増えてきたため、イギリス領事が移転を申請し、各国は明治8年から12年にかけて廃業したようだ。明治11年小港屠牛場で働いていた田村清蔵が山下居留地の西の橋と吉浜橋の間に屠場を開設、明治13年には中沢源蔵らが太田村屠場を開設した。その後日本でも食肉文化が広がるものの、肉類の消費量が魚介類のそれを上回るのは2011年である。

 

紫陽花に彩られたワシン坂
紫陽花に彩られたワシン坂

●ワシン坂●

名前の由来は定かではない。清水が湧き出る坂から変じた、鷲見坂から転じた、ペリーが和親条約を結ぶために来航したため、など諸説がある。山手の外国人居留地から本牧十二天社へ続くこの道は、当時外国人遊歩道の支線としても使われており、山手や山下の居留地に住む外国人が散歩道として頻繁に往来したことと思われる。カリュー夫人は乗馬が趣味で、邸の前を通るこの道を馬で根岸競馬場までよく利用していたらしい。

 

 

 

ゲーテ座の入口
ゲーテ座の入口

●ゲーテ座●

西洋の演劇や音楽は軍艦の乗組員や駐屯軍将兵によって横浜居留地にもたらされた。アマチュア劇団による演劇やアマチュア音楽会が盛んに催され、居留地に住む外国人の気持ちを和ませていた。明治3年(1870)、オランダ人実業家ノールトフーク・ヘフトが本町通り68番の倉庫を改築し、アマチュア劇団に貸したのが「ゲーテ座」の始まりである。ゲーテ座とは「ゲイエティ(陽気・快活の意)」から命名されたもので文学者のゲーテとは関係ない。明治18年(18854月、手狭になった本町通りから山手居留地に移し「パブリック・ホール」がオープン。設計はフランス人ポール・ピエール・サルダで建坪270坪、地上2階、地下1階の赤レンガ造りであった。カリュー夫人はアマチュア演劇のスターだったらしい。明治41年(1908)、名前を旧称の「ゲーテ座」に戻した。関東大震災で倒壊するまで外国人の社交場として栄えたが日本人にも西洋演劇を学ぶ機会を提供し、坪内逍遥、北村透谷、小山内薫、芥川龍之介、大佛次郎らが観劇した。

 

カリュー氏が眠る外国人墓地
カリュー氏が眠る外国人墓地

●外国人墓地●

嘉永7年(1854)、ペリーの黒船が2回目に来航したとき、フリゲート艦ミシシッピのマストから転落死した水兵を増徳院の境内に埋葬したのが始まりである。元治元年(1864)「横浜居留地覚書」がアメリカ、イギリス、フランス、オランダの各国公使と締結され、新たに墓域の拡張が認められて、増徳院の高台に一区域が増設された。さらに慶応2年(1866)、「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」が締結され、ほぼ現在の墓域まで拡張された。横浜開港当時の発展に寄与した19世紀の人々をはじめ40数か国の外国人約5,000人が眠る。毒殺されたカリュー氏や、裁判でカリュー夫人を弁護したラウダ―氏、カリュー氏の主治医ホィーラー博士もここに眠る。

 

ホィーラー博士の住居跡(現アメリカ山公園)
ホィーラー博士の住居跡(現アメリカ山公園)

●ホィーラー博士●

北アイルランド・ベルファスト出身の医師で、明治2年(1869)、英国海軍医として来日。工部省お雇いの鉄道医や帝国海軍省医師顧問などを務めた。明治7年(1874)横浜に来る。明治12年(1879)山手82番にあったヨコハマ・ゼネラル・ホスピタルに勤務した。住居は同97番(現アメリカ山公園)。その後、十全病院や神奈川県衛生顧問なども務め、防疫などの功績により明治30年(1897)勲四等瑞宝章、明治41年(1908)に勲三等瑞宝章を受章。明治10年(1877)横浜港で、遭難した4名の船員を救助、明治13年(188012月山下居留地で起こった火事に駆け付け、消火と負傷者の治療に当たった。急病人がでれば夜中でも往診、生涯現役を続け、取り上げた子供の数は500人を下らないといわれる。関東大震災にあい、谷戸橋のたもとで焼死した。外国人墓地に眠る。「ホィーラー博士は横浜在住の外国人の中で最も広く知られ、尊敬されている。」(ジャパン・ガゼット)

 

ヘボン邸跡(山下)
ヘボン邸跡(山下)

★ヘボン邸跡★

ヘボン(ジェームス・カーチス・ヘップバーン)博士(1815-1911)は安政6年(1859)、横浜が開港されると同時に神奈川に上陸し、宣教医として活動を始める。神奈川宿の宗興寺に施療所を設け、無料で日本人の治療に当たる。文久2年(18628月に生麦事件が発生した時には、被害者であるイギリス人の治療にも当たっている。文久2年(186212月に居留地39番に引越し、ここに施療所を開設した。施療活動を再開し、聖書の翻訳や和英語林集成(和英辞典)の編集作業などを行った。明治15年(1882)、山手245番に一戸を借りて居住した。これは明治14年(1881)に体を壊しスイスのチューリッヒで静養している間に、日本に在留していた宣教師たちが居留地39番の土地・建物を売却してしまったため。明治25年(18921022日、ヘボン夫妻は横浜港からサンフランシスコへと帰国の途に就いた。ヘボン77歳、クララ夫人は74歳になっていた。

 

グランド・ホテル跡(現人形の家付近)
グランド・ホテル跡(現人形の家付近)

●グランド・ホテル●

グランド・ホテルは明治3年(1870)写真家ベアトら数人の共同出資者とグリーン夫人が20番地でスタートしたが、ほどなく営業が中断する。ベアトらの手で改築され明治6WH・スミスを総支配人として新装開店した。その後、ボナ商会が所有し、明治22年に隣接する1819番地に新館を増築した。関東大震災によってその幕を閉じる。昭和2年(1927)神奈川県や横浜市の出資によって10番地に新しいホテルがオープン、「ホテルニューグランド」が誕生した。それまでのグランド・ホテルとは資本、経営等の関係はない。

 

横浜ユナイテッド・クラブ跡(現県民ホール付近)
横浜ユナイテッド・クラブ跡(現県民ホール付近)

●横浜ユナイテッド・クラブ●

故郷を離れて生活する外国人たちにとって、クラブは社交場として、あるいは情報交換の場所としてなくてはならない施設であった。文久元年(1861)頃には英軍将校たちの陸海軍人クラブが存在しており、商人中心の「横浜クラブ」も存在していたと思われる。これらはイギリス人の会員制クラブで「イギリス人クラブ」と呼ばれることもあった。文久3年(1863)ごろに海兵隊軽騎兵隊のWH・スミス中尉の指揮のもとに設立された「ユナイテッド・サービス・クラブ」は、これらのクラブに参加できない公務員主体のクラブで、軍艦ユーリアラス号の乗組員や領事館員のラウダ―らが設立発起人となっている。「横浜ユナイテッド・クラブ」はこのユナイテッド・サービス・クラブが発展したものと思われる。明治175番地Bにあった建物をクラブ・ホテルに譲り5番地Aに移った。明治33年には隣の4番地にジョサイア・コンドルの設計した建物に移った。戦後占領軍に接収され、アメリカ文化センター図書室を経て、神奈川県民ホールの建設に伴って取り壊された。

 

クラブでは故国の新聞を読んだり、酒を飲んで談笑したり、ポーカーやビリヤード・ダーツなどを楽しんだり競馬やボートレースの予想に熱中したりと、故郷を離れて生活する人々の寛ぎの場であった。但、女性は入館禁止。明治29年当時カリュー氏が支配人を務めていた。

 

香港上海銀行跡(現産業貿易センター付近)
香港上海銀行跡(現産業貿易センター付近)

●香港上海銀行(HSBC)●

ヨーロッパ、インド、中国間で拡大する取引の資金調達を支援するため、1865年に香港で設立された。創業者は、イギリスの船会社P&Oの香港支社長であったスコットランド人のトーマス・サザーランド香港と清の上海で同時に営業を開始した。1859年、日本と欧米の主要国との間で修好通商条約が締結され貿易が始まると、日本の資金需要を支えるために、1866年には日本で最初の事業拠点を横浜に設置し、以後神戸、大阪、長崎にも支店を開設した。日本の海外取引規模は10年ごとに倍増したといわれ、その旺盛な資金需要を支え続けた。日本の貿易金融政策の顧問業務を担い、横浜正金銀行が発足の際にはモデルにしたといわれている。ディキンソン氏が勤務していた。

 

英国領事館跡(現横浜開港資料館)
英国領事館跡(現横浜開港資料館)

●英国領事館跡(現横浜開港資料館)●

安政元年(1854)、ペリーが来航しこの地で日米和親条約が結ばれた。元の英国領事館跡である。ペリー来航時に描かれた玉楠の木が中庭にある。安政6年(1859)には横浜が開港、貿易都市として発展すると、この関内地区は貿易の拠点として外国商館や各国領事館が立ち並んだ。外国との友好通商条約は一般に不平等条約と言われるように相手国に領事裁判権が与えられていた。領事裁判権は日本国内で起きた事件であっても外国領事が裁く権利で、横浜の領事裁判所は英国領事館内に設置されていた。明治27年には日英通商航海条約が締結されて不平等条約は解消されたが、カリュー氏毒殺事件が起きた明治29年はまだ、締結後の猶予期間に当たり、それまで同様、英国領事館で公判が行われた。

 

お疲れさまでした。またのご参加をお待ちしております。