5月18日(木)・25日(木)              (1日コース・各自弁当持参)              坂東八平氏の祖村岡五郎良文と玉縄北条「ゆかりの地」を訪ねる(終了しました。)

頼朝の御家人の中で、坂東八平氏の流れをもつものは多く存在した。

平安時代中期、平高望が臣に降下し3人の息子を連れ東国に下向した。側室の子で5男の良文は、兄たちとは別に相模の国の賊を討伐するため、醍醐天皇の勅命を受け東国に来た。そして天慶の乱(将門の乱)後、坂東を基盤とし根を下ろしていった。

 一方室町時代、早雲庵宗瑞(伊勢新九郎盛時)が相模国の三浦一族を攻めるために築城

したのが玉縄城である。そして後北条氏も東国一体を100年にわたり治めることになった。

時代は異なるが、西国から流れ同じ東国で生きた武士(もののふ)たち、共にそのゆかりを覗いてみる。

昨年はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で鎌倉の街は大いに盛り上がった。今回は少し離れたところにもまだ魅力のある場所が存在することを感じて頂きたい。

 《コース紹介動画》 https://youtu.be/00UG67MQ8bQ

 

玉縄城全体図
玉縄城全体図

北条一門と玉縄城

 玉縄城は早雲庵宗瑞(以下早雲)が三浦道寸(義同)の籠った新井城(油壷)を攻めるための出城として1512年に築城したものである。3年後、三浦一族を滅ぼし次に武蔵国への足掛かりとなった。また、鎌倉復興の拠点としての意味も持っていた。早雲はこの鎌倉への思いを「枯るる樹にまた花の木を植え添へてもとの都になしてこそ見め」と詠み、北条一門 は早雲の志を代々引き継いでいった。玉縄城は早雲が築城する前にも上杉氏によって要害が造られており、その中心は現二伝寺とした高谷砦(村岡城址一帯)であったと考えられている。その時代では主要街道であったかまくらみち(上の道)からの防備が必要であったが早雲が敵とする三浦、上杉、里見は全て東側に位置し、長尾砦(長尾御霊神社)、岡本砦(大船観音)、龍宝寺城を配し、柏尾川(戸部川)が外堀の役割となりその防備を強化していった。この東西に渡る範囲を玉縄の総構えと位置付けられる。その後、武蔵、上野、下野、上総、下総と支配領域が広がるとともに各地域と小田原を結ぶ領国経営の一翼を担う最重要拠点となっていく。また、江戸湾の水軍の統括拠点でもあった。

 

玉縄首塚
玉縄首塚

1526年 大永鎌倉合戦(北条氏時VS里見義豊・実尭)における戸部川(柏尾川)の戦闘により大船甘糟氏、渡内福原氏35名戦死。敵であった里見氏も多くの死傷者が出た。戦

後この場所で首級を交換し、その供養塔が玉縄首塚(甘粕塚・甘粕榎)である。

七騎谷ハイキングコース
七騎谷ハイキングコース

938年に村岡良文一門の角田氏によって龍宝寺裏山に伊勢山神明神社が建立される。その奥社は現栄光学園内にあったとされるが1512年玉縄城主によって解体されてしまう。当時、角田氏は敵対している三浦一門であった。現在は参道(岡本道:七騎谷ハイキングコースに続き龍宝寺に至る)だけが残っている。 下社は角田氏末裔によって平成10年に再建されたもの。

龍宝寺資料館
龍宝寺資料館

奥社の付近の山居には3代玉縄城主綱成が菩提寺として瑞光院(香花院)を創建した。その後、6代城主氏勝によって現在の位置に移し龍宝寺(大応寺)となる。龍宝寺の裏山を龍宝寺城とも呼ばれているがその痕跡はない。しかし、玉縄城に対峙しているこの尾根続きの山は攻守に重要な位置づけとされていたことは明らかであり、伊勢山神明社奥社周辺が龍宝寺城の中心となっていたと推測される。

龍宝寺には、綱成・氏繁・氏勝の供養塔(ぶっけり仏)がある。これは当初香花院にあったものが移設されたもの(栄光学園建設時に裏山山頂に移されその後再度移設)

諏訪檀周辺
諏訪檀周辺

諏訪壇は山城においての天守閣の役割を担っており現在はその周辺の三角平場、蹴鞠場、月御堂とその間の堀切に城郭を感じることが出来、その構造には北条築城技術の一端が伺われる。龍宝寺の谷戸は七騎ななきやととも言われ実朝の首級を七騎の武士が持って逃げ一時ここに身を隠しと伝えられているが、武常晴(秦野市・実朝首塚伝説)との関係は分からない。この中の一人が常晴だったのかもしれない…

        【玉縄城址碑】              【諏訪檀】                 【蹴鞠場】

綱成は福島(くしま)の出身であり氏綱の信頼も厚く娘大頂院を妻に迎え北条一家衆となった

しかし常に北条一門の先方を担当し(川越夜戦等で功績)氏綱からの信頼も厚く、戦では朽葉色の生地に八幡大菩薩を掲「勝った!勝った!」との鬨の 声あげ北条一門随一の猛将と言われ宗家を支えた。このことからも八幡神社が玉縄城下にも存在していたと考えられておりその場所は植木小学校付近とも言われている。1590年豊臣秀吉の小田原攻めが開始される。西の守りである山中城5万の軍勢の前に半日で落城。松田康永、間宮豊前守らは一歩も引かず討ち死にした。その間に、氏勝は玉縄城に帰還し籠る。その玉縄城を家康軍が包囲する。家康は玉縄北条の鎮護国家祈願所である大長(頂)寺の住職(源栄上人)を通じ龍宝寺住職良達上人とともに氏勝を説得させ無血開城となった。氏勝は昨日まで味方であった武蔵方面に点在する支城攻略に参陣することになり家康より下総岩富領を与えられ、ここに玉縄北条氏の幕が閉じた。

 北条時代の治世は「早雲守護する国の百姓 前世の因縁なくして生まれあいがたし 願わくば民ゆたかにあれかし」人々が平和に暮らすことが彼らの願いであった。その理念が「禄壽應穏」に表わされている。そして家康もその手法を手本としていく。

「時代は中世から近世へと移っていった」

 

 

村岡城址碑(東郷平八郎作)
村岡城址碑(東郷平八郎作)

村岡良文(陸奥守・鎮守府将軍)

9世紀の坂東(関東地方)はまさに混乱の中にあった。治安の乱れはおびただしく「凶猾党を結成し、群盗山に満つる」という有様で、俘囚や群盗の蜂起が相ついだ。そのため高望王は「平」姓を名乗り、臣に降下し上総介に任じられた。そして正室の子である国香、良兼、良持を連れ坂東に下った。側室の子であった五男の良文は醍醐天皇より「相模国の賊を討伐せよ」との勅命を受け下向し、鎌倉郡村岡(村岡城址公園)を本拠地とした。(現茨城県下妻市・千葉県東庄町、香取市・埼玉県熊谷市にも居館があったとされ、東国の広い地域を行動範囲としていたと考えられている) 良文の三男忠頼(妻:将門娘)が上総氏・千葉氏・秩父氏、五男忠光→忠通が鎌倉氏・大庭氏・三浦氏・梶原氏・長尾氏の氏族に分かれ「坂東八平氏」を形成した。 

 

二伝寺(当時の寺号は不明)は渡内福原氏によって創建されたものを北条氏時によって寺域を拡大し二伝寺砦とし。久成寺裏山と尾根続きであったことから、西側を通るかまくら道守備の中心的な曲輪の役割を担っていた。裏山の塚には良文、忠光、忠通の供養塔がある。以前は良文が本在寺公園の山上に勧請した日枝神社は二伝寺と尾根伝いに続いていた(現在は村岡ホーム建設により分断)

       【久城寺(本堂)】       【久城寺(長尾定景一族の墓)】        【渡内日枝神社】

       【二伝寺(案内板)】         【二伝寺(松平正次一族の墓)】  【二伝寺(平良文三代の墓)】

           【本在寺公園の眺望】                 【晴れた日には富士山の姿が見れるよ】

村岡一門と御霊神社

940年に村岡五郎が京の上御霊神社を宮前に勧請したもの。祭神は早良親王(崇道天皇)・葛原親王・高見王・高望王・鎌倉権五郎景正(源正霊神)。境内社には折笹矢竹稲荷大明神・十二天王・疱瘡神・七面宮である。県下に十三社が分霊されている。坂の下・梶原・長尾・大庭(熊野神社)・汲沢・川名・長江・玉縄…であり、坂東八平氏とその一門がその拠点に分霊していった。

 

      【村岡御霊神社(入口広場)】        【参道】          【笹折矢竹稲荷大明神】

 

兜松
兜松

特に権五郎景正は八平氏のヒーローでもあり、後三年の役に16歳で従軍し清原軍の鳥海弥三郎に目を射られながらも敵方を全員討ち取った。その矢を味方の三浦為継が抜き取るため顔を足で踏みつけたところ「武士が矢に当たって死ぬのは本望。だが、顔を土足で踏まれるのは耐え難い恥辱。かくなる上はお前を斬る!」という武勇伝がある。又、大庭御厨を開発した活力のある人でもあり歌舞伎十八番の一つ「暫」の主人公でもある。

 坂東八平氏とその一門は鎌倉時代創世期に大いに活躍した。しかし上総氏に始まり、梶原、畠山、和田、長尾、三浦、千葉、大庭と北条一門に粛清されていく。時は越え、後北条の時代においても再び三浦一族は滅ぼされる。そして1590年に後北条も滅びた。

 

 

健脚コースお疲れさまでした。 全部で階段は何段あったのかな?